その五
一か月ぶりにさわったバスケットボールは、いとこの親戚のそのまた親戚のじいさんの頭蓋骨のように他人行儀だった。
「ルールはシンプルにしよう」
上履きの底を手のひらでこすりながらぼくは言う。
「先に10点とったらぼくの勝ち。その間に永田が一回でもシュートを決めたらそっちの勝ち。これでどうだ?」
「……馬鹿にしてかかると、痛い目見るわよ」
どこか、ふっきれた顔の永田は深く腰を落とす。
ダム。ダム。ダムとボールをつく音が体育館に反響する。天窓から流れる月の光が、ボードを青白く照らしていた。
ぼくは、深く息を吸い。
「スタート」
呟くと同時に、右側に切り込んだ。
「!」
必死に身体をいれてゴールから遠ざけようとする永田を、左回りのロールでかわしてそのままレイアップを決める。
「まずは、2点」
ふりかえり、ピースを決めてやる。
「……なめくさってる」
永田の顔がマジになる。
それでいいと、ぼくは笑う。
次はわたしの番だとでもいうように、永田はクロスオーバーでゆさぶりをかけようとする。しかし、永田のステップには速さがなければまるでキレもない。ぼくはあえて左方向へ彼女を誘導する。なすすべのない永田はいたちの最後っ屁とばかりに、苦手とするななめ45度の角度からシュートを打つ。
ガコン。
リングに弾かれたバスケットボールが体育館脇に転がっていく。
「続けるか?」
「あたりまえでしょ。勝負は下駄をはくまでわからないんだから」
永田のいうことに間違いはない。
結果は最後になるまでわからない。
だけどそれは、諦めなければ勝負に勝てる、という意味合いではけっしてない。
諦めなければ、諦めないほどに実感できる。
才能の壁の高さというのは、いつだって残酷なまでに非情だと。
それをわからせるために、ぼくは全力で点を取りにいく。全力で永田からボールを奪いにいく。
しかし、それでも、永田は諦めてはくれなかった。
奇跡を信仰するまぬけな教祖のように、必死に頭上へ手を伸ばす。
「どうしてよ」
やがて悔し交じりの声が永田から漏れた。
「なにが」
ぼくは、手の甲で額の汗をぬぐった。
「そんなに上手いなら、楽しそうにプレイができるなら、続ければいいじゃない。諦めないで、戦い続ければいいじゃない!」
「それは、できない」
「なんで?」
「上手く言葉にはできない」
「卑怯者。」
言われてぼくは、深く溜息をつく。
「ぼくは、バスケが好きだった。でも、あのたった一回の試合で、あんなに大好きだったバスケが嫌いになった。あんなに、キラキラしていたものが一気に錆びついたがらくたになっちまった」
「漆原……、」
そうだ。ぼくはずっと考えていたんだ。
この、たりないあたまでその理由を。
「お前の言う通りだよ、永田。ぼくは、戦い続ければよかったんだ。たとえ才能がなくてもそうだ。観客のこころないヤジに耐え、愛想をつかした彼女を見送りながら、それでも戦い続けるべきだったんだ」
だけど、ぼくにはそれができなかった。
ほかの誰でもない、絶望した自分自身に、ぼくはひどく絶望した。
「しかし、永田うちの部長はすごいんだぜ?」
ぼくは、どこか場違いな笑みを浮かべていう。
「お前も、知ってのとおりあいつは生粋のエロゲオタクだ。オタクであることに飽き足りて、ゲームまで作り出そうとする大馬鹿ものだ。おまけにその夢に、周囲を巻き込んでコキまで使うのだから、およそ正常な人間のする判断とは到底思えない。だけど、あいつはほんとうに真剣なんだよ。あの、燃えるような目を見ているうちにぼくは気づかされちまった。夢を持つことは恥ずかしいことで、だけど、誰にもそれを笑う権利なんてないことをな」
九条だって、もちろん知っていただろう。
自分の夢が、大概の人間の侮蔑や笑いの種になることを。
「ぼくは一度逃げ出した人間だ。自分の夢をほっぽりだして、殻に閉じこもった。傷つくことはなかったけど、こころが根から腐っていくようだった。そんな、ぼくがもう一度夢を見ることができたんだよ。ぼくにとって、文芸部とはきっとそういう場所なんだ」
だから──、といってぼくはリングへバスケットボールを放り投げた。
「ああ!」
永田は叫ぶが、気づくのが遅かった。
ボールはネットに吸い込まれ、真下へと落ちていく。
「ぼくは、バスケ部には戻らない。バスケよりもっと大事なことができちまったから」
にやりとぼくは底意地の悪い笑みを浮かべ、
「卑怯者」
つぶやいた永田は仏頂面になる。
「ほんとうに、卑怯者だ」
しかし、我慢しきれずに笑みをこぼすと、やがてこらえきれず涙をこぼしてしまった。
「ごめんな、永田」とぼくは言う。
ぼくにバスケの楽しみを教えてくれた女の子に、誰よりもコートの外から声援を送ってくれたマネージャーにぼくは誓う。
「でも、ぼく頑張るから。今度は、なにがあっても絶対に逃げないって決めたから。周囲に馬鹿にされても、後ろ指さされても、それに気づかないくらい前のめりに頑張ろうと思うから」
──また、応援してくれるか?
すると永田は頷いてくれた。
ぼくが、はじめてシュートを決めたあの日のように、微笑んでくれたのだった。




