第七話、真夜中のワン・オア・ワン
第七話、真夜中のワン・オア・ワン
謹慎がとけたその日の翌日、結局九条が学校に戻ってくることはなかった。
ぼくは、どこか肩透かしをくらった気持ちになる。
河野が決死の覚悟で借り入れたパソコンたちも、どこか所在なさげであった。
だけど、ぼくたちに落胆している暇などなかった。幸いなことに、九条に添削してもらう目的でプリントアウトしていたA4用紙の束は無事だった。河野に、それをシステムに組み込んでもらいながら、ぼくはテキストデータを構築する作業に取りかかる。
刻一刻と時間は過ぎていき、ぼくたちは“時は金なり”という言葉が至言であることを実感する。しかしながら、筆は乗らず、作業はひどく停滞してしまっていた。パソコンの前で腕を組み、あるいは気分転換に本棚の小説をぱらぱらめくったところで、なかなかこれだという文章が思い浮かばない。
河野の仕事が思いのほか順調であることが、唯一の救いであった。河野は途中、タグリファレンスのフォントや文字サイズを変更する遊びこころまで見せ、ぼくの簡素な文章にほどよいアクセントを加えてくれた。
しかし、河野はなにを思ったのか、立ち絵の素材をへのへのもへじで代用するものだから、たとえば文中でヒロインを美辞麗句の限りをつくして称賛したところで、ぼくの努力もむなしくいやにシュールな絵面とかしてしまうのである。
これが、ポストモダンだと河野はふざけてみせるが、ぼくはあえてなにも言わなかった。
河野の主張が意味するところは、かんの悪いぼくにだって理解できた。九条が部長としてこの部室に帰ってくるまでは、へのへのもへじと愛を育む悲劇の主人公、田中英雄を半ば同情の気持ちで見守るほかない。
そして、ぼくは頬杖をついて考える。
田中英雄のことではなく、いつか九条が話していたKanon問題について。
アダルトゲームは、RPGやFPSと比べてとてもゲーム性がひくい。
音のついた紙芝居と揶揄されることもおおく、ぼく自身それを強く否定することはできない。そんなアダルトゲームと紙芝居の唯一の違いといえば、それは選択肢があるところだ。
主人公は数名のヒロインと出会い、その都度たくさんの選択をしていく。
その選択肢に応じてルートが分岐していき、主人公はさまざまなエンディングを迎えることになる。
そうすることで、プレイヤーは主人公を通してたくさんの並行世界を体験する。何かを選ぶということは、何かを捨てることであると認識させられる。ぼくたちは、すべてを掴みとることなんて絶対にできはしないのだと、認識させられる。
だから、きっとぼくたちは後悔をしてしまうのだ。
十全ではない自分自身の人生と、ありえたかもしれない幸福な世界との対比に、ひどく絶望してしまうのだ。
なら、どうすればいい?
たった一度きりしかないこの人生を、どう後悔なく生きろというんだ。
ぼくは、考える。考えあぐねた挙句、迷う。迷ってしまう。迷い果ててしまっている。この物語の先を書き進むことが、できなくなってしまっている。
「あんまり無理はするなよ」
労りの言葉をかけ、帰路につこうとする河野に、ぼくはひとつ頼みごとをした。やつは、その不可解な願いに眉をひそめたが、ぼくが真剣な顔をしていたからだろうか、言われたとおり部室の錠前に外から鍵をかけ、学校をあとにした。




