その六
そして、靴が脱げた。
より、正確にいうならば、靴からぼくが脱げたというのが適当なのだろうか。
前のめりに倒れてなすすべもなく額をうつ。
「なんだってんだよ」
顔をしかめて後ろを振り返る。
中履きが行儀よく地面に並んでおり、その靴底が床に接着されていた。
だれかの悪戯などではない。廃部騒動のやり取りの最中に、河野がこぼしたキャラメルマキアート。それを誰も掃除していなかったというのが今回の転倒の原因だった。
「無理もないよな」
零れたミルクを嘆くひまのないくらい、次から次へと恣意的な災難が続いたのだ。
「……いけるか?」
ぼくは、おそるおそる靴の先を掴んで靴底をもちあげていく。ベリベリベリベリと、靴底が傷ついているんだか床板が傷ついているんだか判らない嫌な音がして、奮闘すること約数分。ぼくは、やっとのことで床板から靴を引きはがすことができた。
「あーあ」
思わず声がでる。
床には、くっきりとぼく自身の行いをとがめる何かのしるしのように靴跡が残ってしまっていた。まさかワックスまで剥離してしまったのか、爪で強くこすっても簡単には消えてくれない。こんなことしている場合ではないことは重々承知している。しかし、弁償だ、弁償だ、とこころのなかの自分がはやし立てるものだから仕方がない。
そしてふと、ぼくの視界にそれがはいった。
背中に冷や水をかけられた、というにはただの比喩でしかないが、ほんとうにそんな気持ちなって背筋がピンと伸びた。むしろ、ほんものの冷や水をぶっかけられた方がまだ、落ち着いたリアクションが取れていたんじゃないかと思う。
しかし、そんなぼくをよそに世界はまわる。日は勝手に昇っていくし、頼みもしないのに山の稜線に沈んでいく。そして、いつしか透徹とした星が瞬きはじめる。誰かの長年の恋が成就することがあれば、誰かが受験に失敗したり、エロ本をひろったり、横に生えた親知らずを抜歯されたりしている。ぼくが抱える問題が解決される前に、別の朗報が飛び込んでくることもある。
戸口にたった里崎先生はいう。
「漆原。九条の自宅謹慎がとけたぞ」
──また、みんなで部活ができるんだぞ、と。




