第7話
起きたことにティムが気づくのにさして時間は必要なかった。
書き置きの内容は、非常に簡潔なもの。これまで一緒に生活してきたファドラの態度からしたら、考えにくい内容だった。およそ、気を遣って、の行動だろうということは想像がつく。しかし──。
「なんで、何も相談せず、こんな、急に」
ティムは、自分を責めた。油断していたのだ。
とはいっても、この油断は至極当然で、むしろ、ファドラは何も気を遣っていないものだと思っていた。事実、ファドラがティムと接していたこのしばらくの時間、ファドラは開き直っていたし、気を遣っていなかったのだ。思惑から完全に離れた行動を引き起こした要因は、この二人にはないのだから、ティムにとって予想外なのは当然のことだった。
心当たりは、ない。
けれど、ファドラが、自分の家に帰ったというのは事実だろう。一体何を思って、何を考えて、帰ったのか。それは、およそ、この書置きに書かれていることで間違いない。つまり、ファドラは、ティムに対して悪いと思い、帰ったということ。ティムに責任がある訳ではなく、ファドラが、自分自身に責任を感じて帰ったということ。
夢がかない、散った。
自分にできたことはないかと考える。
もっと、ファドラに責任を感じさせないようにしてあげられなかったのか、仕事があるとはいえ、もう少し一緒に過ごす時間を作ってあげられなかったか。
けれども、どれも、結局はティム側はからの行為に過ぎない。ファドラは、ファドラ自身で、嫌になったのだ、それでは解決できない──。
独りに戻ったティム。
「静かだな」
まだファドラの残り香のある、今となっては、自分の趣味のスペースに戻ってしまったファドラの部屋だった部屋。残る香りは切なく、甘く、どうしてもっと接しておかなかったのだろうと後悔した。ティムの頭を色々な思いが渦巻く。
戻ったら、ファドラはどうなるだろう。このまま、ずっと一人ということはないだろう。大学を出たら、どこかへ嫁ぐということは十分に考えられた。だから、それまでに、自分はきちんと力をつける、つもりだった。
その途中だったのだ。
しかし、事態は刻一刻と変わっていくのだ。自分の計画通りにいっていないからといって、己を見失っていたのではないか。目標を見失い、ただ目の前のことだけに喰らい付いていた。それは、目の前をこなすことにかけてはなるほど有効だったかもしれない。
「けど、このざまだ」
ティムは、ファドラがかつていたトコロ、たった数日間だが、確かに夢が叶っていたその時間を過ごしていた空間で、ファドラの使っていた寝具に顔を埋めて、唸る。すっと吸う空気は、ファドラが吸っていた空気と同じ空気だろうか。
「──違う」
呟いた。
同じなんかじゃない。
もうここにファドラはいないのだから。時間が経てばたつほど、その事実は、ティムの胸に痛く突き刺さった。こんなことなら最初から来なければ良かったのに、こんなことならもっと早く自分がはっきりした態度を取れば良かったのに──と思考が四散する。しかし、何を思ってももう遅い。
遅すぎた。
遅すぎたのだ。
ティムは、翌日。かつてのファドラの部屋で眠ってしまっていた。泣きはしない、けれど、身体がとてつもなくだるい。
元の生活に戻っただけ、そんなはずはなかった。
出社時間も変わらない、仕事内容も変わらない、近くにいるアルも変わらない、全部元通り。そう思いたかった。
しかし、そうではないのだ。ファドラが一度家に来て、過ごしてから去った。この事実は、明らかに、ティムにとって、人生の目標を再設定せざるを得ない出来事だ。それは、このことは当然ファーフニル家にも知られているだろうということ。
こうなると、ティムがどれだけ立派になり、ファーフニル家に縁談の話を申し込もうが、一つ返事で、はいどうぞ、とはならないだろう。どういう形であれ、因縁を抱えてしまったのだから。ファドラの親が、今回のことをどうとらえるかは分からないが、少なくとも、プラスの意味で捉えるとは考えづらい。
「ティム様、体調が優れないようですが……」
アルに言われ、はっとする。手にしていた次の案件に関する資料を見ながら、思考は他のところ。いけない。仕事中は、仕事の集中しないと、いけないのだ。己を律して、なんとか集中し、昼休みにまでたどり着く。
昼食も、あまり食べられない。アルにこんなところを見せたくはないのだが、一緒にいるものだから、仕方がない。アルがほとんどそのことに干渉してこないことが救いだった。今深く入って来られても、そもそも、アルにファドラのことをどう説明したらよいのかさえ分からない。
アルにファドラが家にいたということを知られるのは──と、そこまで考えて、そういえば、と一昨日のことを思い出す。自分が、酔い潰れて──その後、どうなったのか。一人で家に帰れる状況ではなかったことや、過去、数回そういった状況になったことを思い出すと、答えは、今目の前にいる、アル。
ということは、アルはファドラに会っている……? そして、そのことを、口にしない。
本来ならば、昨日、家にファドラがいたのはどういうことかと聞いてくるのが普通だ。しかし、昨日のアルと顔を合わせたとき、そういった話題は一切口にされていない。
さらに、今、この時、ティムが明らかに落ち込んでいたというのに、そのことに対して、先ほどの一言以外、気遣いの言葉はかけられていない。決して気遣いの言葉をかけて欲しいということではない、普通ならかけてくるということだ。付き合いの長いからこそ分かる、確かな違和感。アルは、何か知っている。
食事をしながら、単刀直入に、聞く。
「アル、何か知ってるよね」
アルは、一瞬、ピクリと反応した。無論、自分がしたことの自覚はある。そして、アルの耳には、ファドラがファーフニル家に戻ったという情報が今朝方入ってた。ゆえに、ティムが落ち込んでいる理由も分かっていた。それをあえて、知らないふりをしていた。
しかし、やはりというべきか、流石というべきか、そんなことでティムの目をごまかしきれるはずがなかったのだ。聞かれたということは、全て気づいてのことだろうから、アルは何も隠さずに白状する。
「ええ。私は、ファドラ様に先日お会いしました。驚きましたよ」
「それだけ?」
ティムは、いつにないするどい目で、けれども、沈んだ声で問う。眼鏡越しに、鋭い金色の眼光がアルの目の奥を全て見通すように刺していた。
「……それだけです。」
アルは一瞬気圧されるものの、返答する。アルはただ、真実をつきつけただけ。確かにそれは残酷な行為であったかもしれないが、アルは自分が間違ったことをしていたとは思っていなかった。ティムの日々が壊れるのが嫌だった。決して、アルは自分の理想をティムの押し付けたかった訳ではなく、あるのはただひたすらな奉仕。
一方の、ティムもその気持ちは知っていた。アルの自分を思う気持ちは十分に理解していたし、信用もしていた。ゆえに、アルから返ってきた言葉を聞くと、それ以上立ち入ろうとはしなかった。彼は、何かをファドラに言ったかもしれない。けれど、そこは、自分がアルに対して立ち入る場所ではない。そう判断する。
「そうか、分かった」
光る眼光は再び鈍いものになり、沈黙して食事を続ける。カチャカチャという食器の音だけがなる。
ティムは思っていた。
アルがきっかけになったのは、恐らく、確かなことだろう。何かしらのきっかけがなければ、あんなにすぐに行動に移すとは考えにくい。けれども、仮に、アルの何かしらの行動がなかったとしても、いつかは、同じような状況になったのではないか。
もし、同じような状況にならないのならば、たった一回のアルの訪問で、こんなに大きく事態が動くことは考えにくい。
それなら、自分はどうすればいいのか。
思考はぐるぐると堂々巡り。家で考えていたことを、また、こうして、会社でも考えている。僕は、どうするべきなのか、考えれば考えるほど、深みにはまっていく気がした。しかし、一つだけ、明確なことがある。
それは、自分が動かなければいけないということ。
昼食を終え、午後の業務を片付ける。
さてと、とデスクをたちあがり、家に早々に帰る。いつもより少し早い帰宅ではあったが、アルはその心中を察して、特に引き留めることはしなかった。きっと、ティム様なら立ち直ってくれる。今までそうしてきたように。ティム様は強いお方だから、と、彼自身も言い聞かせていた。
ティムは家に帰ると、すぐさま行動を起こした。
普段、ほとんど、ティアマト家の行事などについては、仕事優先にしておろそかにしてきた。無論、何もしなかったという訳ではなく、アルを介して必要最低限の会などには出席していたし、その他、必要最低限の情報については、アルに選別してもらって仕入れていた。
しかし、結局のところ、そのところ止まりだ。
何故なら、ティムは、ティアマト家という家柄に頼ったり、関したりするのがあまり好きではなかったからで、その理由は、自分自身、ティム自身の本来の強さや力ではないものに頼りたくないということがある。
けれど、今は、そんなことに拘っている場合ではなかった。
ティムがしなければならないのは、全力を尽くして目標を達成すること。
言いかえるのなら、全力を尽くして、愛する人を手に入れるということ。
そこの恥も外聞も地位も名誉もない。自分ができることはすべてやる、万策を尽くす、ということが、全力を尽くすということなのだから。
これは、ファドラのためではなかった。ティム自身のため。
ファドラが望んでいることが一体どこにあるのか、そんなことはティムには分からない。
分からないが、これだけは確か。ファドラが本当に自分の下から去ることを望んでいたとしたのならば、そもそも、自分の家に体一つで来たりしないし、あんなに優しい顔を毎日自分に向けてくれることなんかなかったということ。そこを疑う必要は何も、ない。
ティムはこの日を境に積極的に行動を起こしていった。
ティアマト家と関わりが深い各財界の有力者たちと、積極的に関係をもった。その関係は、時にビジネス、時に政治といったように、目まぐるしく変わった。会合の回数は劇的に増え、今なおティアマト家の主権を握る父親との関わりも以前よりかなり増やした。
権力の海に溺れるような日々だった。
普段耳にしないような政治やビジネスの裏。これまで避けていたような、触れたくない世界。
「ティム様はこういったことにはあまり関心がないとお聞きしていましたが」
と、何度も言われた。
「ティム様、何卒、御父上にですね……」
寄ってくる者のほとんどは、やはり、ティアマト家の力を欲しようとするものだった。その姿、さながら、乞食。汚く、醜く、己の価値は単なるティアマト家の人間だということだけだというようにつきつけられるかのような不快。忌まわしく、気持ち悪い感覚。
「だから避けていたんだ!」
と心の声が警鐘を鳴らす。アイデンティティが悲鳴を上げる。築きあげたものが何も意味のなかったものかのようにさえ思えてくる。
そんな世界。
しかし、いずれ立ち向かわないといけなかった世界。それが、今、少し早まっただけのこと。
そして──
何よりも重要なのは、今、自分は、利用されている側ではないということ。冷酷、利用する側になればいいということ。
ティムの目的は、明白だった。
この財界で力を得ること。後ろ盾を無数に得ること。すなわち、権力を手にすること。
人付き合いで、交渉で、権力を築く。負けない権力を。ファドラを救い出せるような権力を。
色々な人のご機嫌を取る。
仕事の後に、様々な食事会などに参加した。疲労は日々溜まった。しかし、ティムは仕事を辞めることはしなかった。同時に、制する。
どんな汚い手を使ってもいい、とにかく、万策を尽くすのだ。
そうして、ティムの人脈はみるみると広がった。これまで会社員としてのみ行動していた遅れを全て取り戻すかのように。
そうこうしているうちに、数か月たち、ティムはようやく耳にする。
ファーフニル家の娘ファドラのこの先を。
「ああ、ファドラさんというと、ファーフニル家の。確か、近日、サラマンダー家のご子息さんと婚約をされるとか?」
ふとした界隈での食事会での雑談。ティムはそのことを耳にした。サラマンダー家もまた、ドラゴンの一族の名家の一つであった。なるほど、ありそうな話だし、予想もしていたことだ。だからこそ、ティムは、自身の経験を積みゆっくりと力をつけようとしていたのだから。
けれども、近日というのは、予想外だった。まだファドラは十九歳だったのだから。
それなら──急がないと、いけない。ティムはキッと目を光らせ、覚悟を決めた。
愛する人の顔は、まだ、しっかりと、全く色あせることなく頭に残っている。のほほんとした、けれども、落ち着ける、そんな女の子の顔が。




