第6話
ファドラとアルは向かい合って座る。
静寂。アルの視線は、ファドラの顔へと注がれているが、一方のファドラは、アルを真正面に見据えることができない。
抱く感情は恐怖。アルが何か身体へ危害を加えるということはないだろう。けれど、それ以上に、鋭い言葉の刃がつきたてられる可能性を強く感じたからだ。
アルが、ふぅと小さく息をついて、口を開く。
「ファドラ様、私のこと、ご存じでしょうか?」
ふいに、アルの目が優しくなる。これまでの険しい目とはまるで違う、そのふんわりとした、すべてを包みこむような優しい目付きは、僅かにティムを彷彿とさせるものだった。ファドラの思考が駆け巡る。
「えっと……」
けれど、ファドラの記憶に、この目の前の男の姿はない。
「恐らく、ご存じないでしょう。先ほども挨拶させていただきましたが、もう一度改めて、アルトゥールと申します」
「……ファドラ・ファーフニルです」
会話は続かない。途切れ、途切れ、進んでいく。
「私は、うすうす知っていました。ティム様がファドラ様のことを非常に好いているということを。そして、それは、今日、確信に変わった」
唐突に、苦しそうに吐き出される言葉に、ファドラは驚く。表情は、再び重いものに戻っていた。
「そして──ティム様が、ここまで立派になられたのも、あなたの存在があったからということも、大きいでしょう」
ですが、とアルは強く区切った。その目はもう悲しそうなそれではなく、力強く、まっすぐにファドラの方を見ていた。
「あなたは、今、何をしているのですか? 話は、一族の中では噂になっていますよ……まさか、ここにいるとは思いませんでしたが」
「噂って……?」
ファドラはおそるおそる聞く。噂になっているのが怖いのではない、今、目の前にいる、このアルという人間のことが怖いのだ。
「あなたが家出している、という話です。きっと、ティム様の家にいるということは、あなたの家の人間は分かっていると思いますよ。もちろん、それを表にしたら、困るのはファーフニル家の人間なので、表に出されていないだけでしょう」
「ということは、アルさんは──知っているということですか、私の、婚約者……」
そう、ファドラには婚約者がいた。
「ええ」
それは──ティムではない。
「……! なら!」
目の前のアルという人間は、およそ、まず間違いなく、ティムにとってプラスになることを望む人間だろう。仮に、ティムの心が自分にないのなら、ファドラの力になってくれないかもしれない。
けれども、彼が、ティムはファドラに気があるということを認知しているのなら、話は別であった。
「私は、ティムと、一緒にいたくて、抜け出して──」
そのファドラの言葉を遮るように、アルの表情が険しくなった。
「知っていますよ! そんなこと! でも、だから、だからなんだっていうんですか。ティム様は、あなたに、他に婚約者がいるということも、知っていたのかもしれない……! なのに、なのにあなたと来たら」
アルは悔しくて悔しくて堪らない、といった顔で歯をかみしめていた。ファドラは混乱する。ファドラが家を出たのは、アルの言う通り、婚約者の存在があったからだった。大学を卒業したら、婚約者と結婚しなければならない、自由が許されるのは学生のうちだけ。
それゆえに、卒業したくなかった。大学に通う日々が怖かった。ほとんどあったことのない、気の許せない、自分のことを単なる政治の道具としてしか見ていないような人と結婚することは嫌だった。そして、何より、ファドラはティムと一緒に過ごしたかった。
だから、ファドラは大学を卒業しないようにしたのだ。そう、家に引きこもりニートをするという方法で、大学卒業をなんとか妨害してやろうとしたのであった。
「じゃ、じゃあ、どうして……」
その果てに、たどり着いた地が、ティムの家だった。もうファドラにはここしか行くあてが残っていなかったのだから。
「分かりませんか?」
取り乱してたアルは、なんとか元の落ち着きを取り戻す。そして、冷たい目でファドラを睨む。
「…………」
「分からないのなら、結構ですよ……でも、私は、あなたがここにいることには決して賛同できません。私は、ティム様のためになることを、します」
そう言って、立ち上がろうとするアルをファドラは、待ってと止める。
「待って、待って……。私は、ティムと、いたい……」
ファドラの声は、小さく、小さくなっていた。
震える声。
唐突な出来事に、涙はまだ出ていないが、それは、反応がついてこれていないからだろう。
ふぅ、とアルは小さく一つ息をつく。
アルは、ティムのためならば、なんでもやると覚悟していた。この目の前の娘が心を痛めていることは十分わかっている。彼だって、一人の男だ。一人の少女を深く傷つけることに躊躇いを覚えないわけがない。
だが、やる。言う。決して、謝らない。
「私は、ティム様のことを敬愛しています。可愛くて可愛くて仕方がない。あんなに愛らしく、可愛らしい方がこの世に他にいましょうか。しかし、愛が比較できるものだとは思っていません。だから、私があなたよりティム様のことを愛しているとは言わない。ですが、これだけははっきりと言えますよ。私は、あなたより、ティム様に尽くしている」
ファドラは、その言葉を理解しようとする。しかし、頭が混乱していることもあり、すぐには理解できない。だが、その言葉は確かにファドラの心に突き刺さり、ドクドクと出血させるには十分だった。
何か、自分がしてきた行動に強烈な違和感を覚えた。
そして、ティムがこれまで歩んできたであろう苦境を考える、アルから聞いたティムの思いを考える。考えれば、考えるほど、その違和感は強烈なものになっていった。
しかし、明確には分からない。
「どういう……ことですか」
アルは、んんと、咳ばらいをする。そして、なるべく、冷たく、突き放すように言う。
「少なくとも、明確なのは、あなたは、私から見て、ティム様にふさわしい人だとは思わないということです」
ファドラは、返す言葉をなくす。考えないようにしていたことを、見事に掘り起こされた気持ちだった。目はもうアルのことを見えない。いろいろな思考が渦を巻き、現れては、消える。苦しい。辛い。ティム、助けて、と大声をあげたい。
そうして、ファドラが下を向いていた目線を上に上げた時、そこにはもうアルの姿はなかった。
しばらくして、ようやくファドラは落ち着きを取り戻した。
落ち着きを取り戻し、ティムのところへ行ってみたが、寝ていた。ティムは明日も仕事がある。起こす訳にはいかなかった。あんな話を聞いた後ではなおさらだ。
けれども、冷静に考えれば考えるほど、アルに言われたことは何一つ間違っていないように思えた。
開き直ることは簡単かもしれない。
実際、今日この時まで、ティムの家にいる間、自分は開き直っていた。開き直って、問題から目をそらして、ただ目の前にある幸せの中に飛び込んでいたのだ。
けれど、深く考えていなかったが、アルには「家出」という形で自分が家から出ているということに情報が伝わっていた。
おそらく、それは世間体を考えてのことか、もしくは、何か他の意図があるのか、定かではなかったが、とにかく、情報がそういう形で周りに流されているということは、いつか、自分が追いつめられる日が来るということを意味しているように考えられた。
そうなると──
──本当に、自分の責任だけで事は済むのだろうか。ティムはあまりそういった家のことに興味がないからかそのことを知っている様子はなかったが、一緒に住んでいるティムが何かしら糾弾を受ける可能性は十分に考えられる。
ティムに、迷惑がかかる。
それだけは、嫌だった。
ティムのために、何ができるか、どころの問題ではない。
ファドラは、寝るまでの時間、そうしてひたすら思い悩んだ。これまで、考えることを放棄していたことを悔いた。考えていたようで、そして、父親に立ち向かっていたようでいて、それは立ち向かっていたのではなく、単に逃避していたに過ぎないと言うことに気が付いた。
大学を卒業したくないからと家に引きこもってやりたいことをしていた。何かを言い訳に目の前の欲望に縋り付いていた。
ティムの家に来てからというのは、全てその延長に過ぎない。己の過ちはもっと昔にあり、ティムの家に来て、どうこうという問題ではないのだ、と悩んだ。仮に、ティムの家にきて、家事をしていたからといって、それで許されたわけでもないのである。
なら、どうしたらいいのだろうか。間違えた時は、どうしたらいいのだろう。
ゲームをしていて失敗したら、失敗したところまで戻ればいい。じゃあ、現実で失敗してしまったら……?
思い悩み、悩み、気が付いたら眠りの世界に落ちていた。そこで見たのは、悲しい夢。
ティムが──自分に愛想をつかす、そんな夢。
けれど、起きた時、ティムはもう元居た場所にいなかった。当然だ、仕事に行ったのだから。
まだ朝は早い。けれど、もうこんな時間からティムは仕事に行っているのだ。それも、アルの話によれば、私のため、に。
そんなティムに対して、私が今できることはなんだろう。
その結論は──少なくとも、ファドラが、今、ティムと同じ空間で過ごし同じ時を過ごすためにできることは──
「分からない……」
思いつかなかった。きっと、ない。
間違えてしまったのなら、やり直さないといけない。間違えたまま突き進んでしまっている今、このまま進めば、どうなるか。その答えに対する想像をしていなかった。きっと、それはティムも同じかもしれない。アルはそのことを突きつけてきた。いや、突きつけてくれた。
先にあるのは、破綻のみ。少なくとも、ティムにはそう思えた。思えてしまった。
ファドラは、紙を筆記具を探しだすと、机に向き合う。
書き置き。
書きたいことはたくさんある、けれど、うまくまとまらない。ティムに対する謝罪と、ティムは何も悪くないということ、ティムは素敵で立派だということ。とにかく、ティムに何かマイナスになることをしてはいけないと自分に言い聞かせる。
ファドラは、自分の家に戻ることを決意したのである。
その後のことは、正直分からなかった。家に戻る以上、父親の言うことは聞かなければならないだろうし、考えても仕方のないことだったのだ。
間違えてしまったのなら、やり直さないといけない。けれど──
けれど、ファドラにその方法はもうわからない。だから、少なくとも、このまま、惰性で悪い状況を続けて、ティムに悪影響を与えることだけは避けなければならないという思考が働いた末の結論であった。
書置きを書き終えると、荷物をまとめる。荷物といっても、何もなかった。ゲームやその他のものは、このまま置いておこう。売れば少しは戻ってくる。お金を使わせてしまったことは、正直に父親に話せばなんとか手を打ってくれるだろうと考える。
悲しくなる気持ちを抑える。逆に、何もないことは、心残りを作らないことだとプラスに考えることに、無理やり、する。
ファドラは、家を出た。
ティムは、そのことを、もちろん知らない。
ティムがこのことを知るのは、彼が仕事から帰ってきて「ただいま~」という挨拶をし、その挨拶に返事が来ることがなく、疑問に思って家の中を調べ回った時。そして、その時に、書置きを発見し、読んだとき。
そのとき、ティムは──。




