第10話
ファドラが婚約を目前に控えたある日の夕方。
彼女に訪問しに来た人物は意外な人だった。
ずっと忘れようとした名前。ずっと忘れようとしたあの人。
使用人が、その名前を口にしたとき、まず、何よりも、驚いた。予想外。それは、ファドラの思考の外にあったから。そして、次に感じるのは、嬉しさ。
嬉しさ故か、それとも、驚き故か、自然と目頭が熱くなる。
けれども、ティムがここに何をしに来たのかということについては、まだ分からない。喜ぶべき事態なのか、それとも、悲しむべき事態なのか、そのどちらかなど予想できる余地もないのだ。
ともあれ、使用人に自室へと招き入れてくれという旨を伝え、待つ。
少しの間を空け、自室の扉が開かれる。表れたのはスーツ姿のティムだった。仕事帰りなのだろう。
そして、その表情は、ファドラのすべての不安をぬぐい去るような笑顔。ファドラを包みこんでくれるような笑顔だった。
ファドラは思わず駆け寄る。駆け寄り、そのまま、抱きつく。否、抱え込む。あわわと驚くティムだが、ファドラに埋もれ幸せそうに呟く。
「ただいま」
その声を聞き、しばらく続く抱擁の後、ファドラはようやくティムから身体を離す。ひたすら恥ずかしそうにするティムを見て、自分まで少し恥ずかしそうになりながら、口を開く。
「久しぶり、ティム君」
「久しぶり、ファドラ」
長い月日が流れていた。一か月。二人が一緒に住むまでは、さして長い月日でもなく、なんともなく空くことのあった日数。けれども、今は違ったのだ。その時間的隔たりも、空間的隔たりも、二人にとって違和感のある状態になっていたのである。
「ファドラ、話したいことがあるんだ」
先に本題を口にしたのはティム。ファドラは、ようやく、目の前にティムがいるんだという事実を受け止め始める。
ティムは、笑顔で、安心させるように、けれども、強く眼差しをファドラにへ向けて言う。
「結婚を前提に付き合って欲しい」
その言葉は、まっすぐにファドラへ届き、胸を高鳴らせ、心を歓喜させ、脳を震えさせた。しん、と空気が凍り、すぐに溶ける。そんな鋭く心を射貫く言葉。思う感情は、嬉しい。そして、驚き。
「で、でも──」
でも、そんなこといったって、私には婚約者が。そう言おうとするファドラの口をティムは塞ぐ。
背伸びしたその頭の位置は、ちょうどファドラの頭の位置と同じ位置。
ファドラの塞がれた口には、ティムの口。
ほんの少しの時間だった。口づけとも言えないような、わずかな時間。
すぐに離れて、ティムは再び先ほどまでファドラの口にあったその口を開く。
「ファドラの純粋な気持ちが聞きたい」
ティムはでももだっても望んでいない。お前が望むのなら全て叶えてやる、という強い目。もちろん、もう叶っているからこそこの場に来ているのだが、ファドラはまだそのことを知らない、知るよしもない。故に、求められる自分の意志。
そう、求められているのは自分の気持ちなのだ。自分がどうしたいか。父親がどうだ、とか、サラマンダー家がどうだ、ということじゃない。自分がどうしたいかということ。ティムは最後に私の気持ちを確かめに来ただけなのかもしれない、どうなるかなんてわからない。けれど、ファドラの思う答えは一つ。
「私は……」
これまで、思い悩んで、忘れよう、違う道を行こうと諦めようとした思い。
「私は、ティムと一緒にいたいっ」
潤む瞳はティムの目をまっすぐに見て。まだ近すぎる二人の顔の距離をひたすらに小さくせんとしている。それを聞いて、安心したのか、ティムはへへと軽く笑い、こわばっていた表情は緩み、笑顔が戻る。
そして、告げる。ファドラが去ったのち、自分がどのように行動してきたかを。
「──だから、僕は、ファドラと結婚できる。もちろんまだ確定という訳じゃない。でも、少なくともファーフニル家が、サラマンダー家との連携を強化する必要は薄くなったってこと」
難しいことはファドラには良くわからなかったが、少なくとも、ティムが自分のために壮絶な頑張りをしてくれたということは良くわかった。それは、ただひたすらに、嬉しい。胸の中が熱くなり、どうしてよいのかわからなくなるほどに。
「ファドラ? 大丈夫? あ、それで、明日からまたうちに住んでいいって話なんだけど」
「えっ!?」
「うん、だから、今度は自分の持ち物で必要なものはちゃんと持ってきてね。あ、でも、使用人さんとかは連れてきちゃダメだよ」
にこにこと笑いながら話すティム。どうやら、色々と話をしてくれていたようだが、ほとんど聞き流してしまっていたらしい。
ともあれ、明日からまたティムの家に行けるという事実は、まぎれもなく真実。
「じゃあ、僕は、明日仕事あるし、今日のところはもう帰るね。明日はきちんと業者にも頼んであるし、家出じゃなく来れるね」
ティムはそう言い残すと、帰っていった。
起きたことの余韻に浸り、しばらくぼーっとしているファドラは、明日のことを思うとなかなか眠ることが出来なかった。
翌日。
引っ越しは可及的速やかに行われた。両家認めたうえといえども、仮にも男女の二人暮らしであり、ファドラはギリギリ未成年である。あまり公に知られてうれしいことではないというのが両家の思いだ。
両家当主とも、認めはしたものの、ティムは一人暮らしでずっと生活しているから良いものの、ファドラ側は非常に心配されていた。主に、ティムに迷惑をかけないかという点で。
その点は、ティムが責任をもってなんとかしますと主張し、なんとかこの生活を勝ち取ったのだ。功績は全てティム一人によるものといっても過言ではない。ティムが立派な人間だということについては、両家ともに見解は一致していた。それゆえ、ティムには今後より一層仕事の方にも精を出してもらいたいという思いもありファドラ一人の世話をティムだけに任せるということについては、あまり納得できないようだった。
ゆえに──
「お久しぶりです、ファドラ様」
ティム宅の隣の部屋に同時に引っ越してきたのは金髪長身の男、アルトゥールだった。
「ひっ……!」
引っ越しの作業が大方完了し、いざティム家へ入室しようとしていたところで、笑顔でさわやかにあいさつしてくるアルに、ファドラは最大限の警戒心をもって、扉の影に隠れる。
「そんなに怯えなくても……女狐め」
最後にぼそりと呟かれた言葉がうまく聞きとれなかったが、何かとてつもないことを言われたような気がして、そそくさとその場を立ち去り、ティムの家、かつて自分がいたスペースに逃げこうもうとするも、閉じようとした扉につま先を入れこまれて閉じられない。
それでも無理やり閉じようとする異常に怯えたファドラだが、アルはそんなことを気にしない。
「そんなに怯えないでくださいよ、ね!」
両手で一生懸命締め出そうとしたが、さすがに女一人で男の腕力に適う訳がなく、ひょいと扉は簡単に全開になってしまう。アルはファドラから見ると不気味な笑顔──アル本人は腹の中にあるどす黒い何かを見せないための最大限の営業スマイル──を顔に張り付け、ファドラを見下すように見ながら口を開く。
「悔しいですが──」
と。そして、小さく、続ける。
「あなたはティム様が幸せになるために必要な人です。だから、私はもう排除しようなどということは画策しません。これは、お約束致します。そして、先日、無礼な態度を取ってしまったことをお詫びいたします」
アルはそういうと頭を下げた。
ファドラは拍子抜けする。大きな男が目の前で自分に頭を下げている。そして、自分は、およそ、頭を下げられるようなことをされたとは思っていなかった。
「いえ、いえ、あの、そんな。頭を上げてください、大丈夫ですから……」
その後、数秒。アルは頭を上げる。
「えっと、あの……」
戸惑うファドラだったが、その必要はなかった。
「ですが!」
先ほどの張り付いた笑顔が消えて、への字に口を結んでいるアル。
「私はあなたを認めた訳ではありませんからっ!」
何故か頬を染めて、それだけ言い放つと、隣の部屋へと入っていってしまった。
ひとまず荷物などをかつての自分の部屋だったところへ運び入れる。かつて自分の部屋だった部屋は、特に変わりばえなくそのままだった。懐かしい空気に思わずうっとりする。
ふぅと一息ついて──座る。
「ん~」
背伸びして、眠気に襲われる。今日はつかれた。荷物の運び入れの大半は業者の人に行ってもらったが、やはり、疲れるものは疲れる。
ファドラはうとうとしながら、テレビを見ながら思い直す。
部屋にはわずかにティムの残り香。以前自分がいたところに、またティムがいて、そして、今、自分がいる。最後に、きっと、いるのは二人。
そのために、今自分ができることはなんだろうか、と思う。
ティムは、今この状況を作ってくれるために、およそ考えうる限りの最大の努力をしてくれたに違いない。具体的に、どのようなことが行われたのか、その詳細は分かっていなかったが、これまでに築きあげてきたものだけでなく、ティアマト家としての力も使い、全力を尽くして今日を築いてくれたのだ。
あるのはひたすらな感謝。
そして、嬉しさ。
自分にできることを考える。
かつては、ただただ嫌だったからやらなかった。面倒だったからやらなかった。仮に、ティムのために家事をやろうと思っても、それは、あくまで、してあげることに過ぎない。だから、前ここにいた時に、家事をやろうとしたとしても、結局はティムのためなのだ。
今はどうか。
違う。
気持ちが違う。自分がしてあげたいからする。それは義務ではなく、権利の行使。
ファドラは、よし、と息巻くと、台所へ向かう。もう何時間かしたらティムが家に帰ってくるだろう。それならば、まずしてあげたいことは何か。
「やっぱり、アレだよね……!」
そう、アレなのだ。
かくして、振り返りの結果、ファドラは料理を開始する。
そうこうしてファドラが料理のような試みをすること数時間。日は沈み、ティムは帰路につく。
自身の案件とは別に、サラマンダー家関係の案件を多く抱えるティムだったが、いつも以上に手際よく仕事を片付け、自宅玄関の前へ。
ちなみに、アルは本日引っ越しのためお休みだ。彼は有意義に過ごしているだろうか、ファドラと変ないざこざを起こしていないだろうか。それは置いといて、自宅のドアを開ける。
迎えるは、何故かエプロン姿で涙目のファドラ。
戸惑うティムに、ファドラは泣きそうになりながら言う。
「おかえりなさい! お風呂にする? 私にする? それとも……」
なにか違う。
「え、えっと、僕はいっつも、ご飯食べてからお風呂なんだけど」
状況が理解できないので、とりあえずいつもの習慣を報告する。選択肢になかったが、大丈夫だろうか。
「む、むりです」
大丈夫ではなかった。
「え」
とりあえず泣きそうになっているファドラの手を引っ張り、問題のありそうな台所へと向かう。ティムが目にしたのは、なるほど、確かに、何かファドラが頑張ったらしい痕跡。事故の後。卵を使おうとしていたのだろうが、フライパンに油をひかなかったのか黒いものとわずかに黄色、というより、焦げ付いた橙が残るフライパン。
そして、調味料の配分を間違えたのか、ボウルに入っている黒い液。放置されているということは、間違えているということに気づいて途中でやめたのか、それとも、タイムアウトか。ともあれ、これは、失敗したのだろう。したに違いない。
「失敗しました」
ごめんなさい、とぺこりと頭を下げるファドラの頭をよしよしと撫でると共に、色々と学んでもらわないといけないなと覚悟するティムであった。




