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アルディア王国撤退戦記  作者: 玉井タマタマルアー


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9/12

9話 五万人の計算

 5月10日、軍港ハーヴェスタの統合軍司令部。壁一面の地図には、エルデクとハーヴェスタの二つの港が赤く囲まれていた。海峡には、予定航路を示す細い線が幾本も引かれている。



 前日の9日、陸海空の統合軍司令部が設置された。本来指揮を執るべき陸海空の大将たちは、斬首作戦による戦死、行方不明、重傷を負っての意識不明であり、統合作戦に参加した経験があり、機動艦隊を指揮して陸海空の部隊を扱ったことのあるアレクサンダー・ヴァーレン中将に白羽の矢が立った。


 ヴァーレン中将は、会議室へ入るなり言った。


「数字を読み上げてくれ。」


 エルザ・ハルトマン大佐が立ち上がった。艦隊の兵站主任であり、今回の撤退作戦においてファルク少将の指揮下において船舶への燃料の補給などを担当している。


「撤退対象、五万人。その内訳は海軍歩兵一万二千、陸軍三万八千。現時点で確認できる船舶は、軍の輸送艦・支援艦8隻と徴用民間輸送船12隻。すべてが一度に入港できるわけではありません。輸送艦の追加があるかどうかは現時点で未定でありますが、各港で同じような救出作戦が行われているところを見ると望みは薄いでしょう。」


 ファルク少将が補足した。


「岸壁の長さ、荷役速度、負傷者の搬入、夜間の航路制限が重要になります。船が20隻あることと、20隻を同時に使えることは違います。」


「予定の救出数は?」


「四万三千人を目標としています。」


 会議室が静まった。誰もが、その差を暗算した。


「残る七千人は?。」ヴァーレンが尋ねた。


 ハルトマンは答えなかった。答えは資料にあった。だが、数字にして口に出すには重すぎた。


 ヴァーレンは続けた。


「最初から七千人を切り捨てる計画にはしない。四万三千は現時点での輸送見積もりだ。最後の便まで修正を続ける。」


「それでも、全員は無理かもしれません。」ファルクが言った。


「分かっている。だから、無理を無理と言える者をここに置いた。」


 彼は、資料の広がる机を見渡した。


「反対意見を歓迎する。だが、根拠のない希望は要らない。」


 海軍少将ハンス・エリクセンが、艦隊配置図を示した。


「航空母艦《アルディア》は東側の防空圏を維持します。防空駆逐艦二隻は《ヴァルキュリア》《フレイヤ》、船団の外縁で航空脅威を監視。フリゲート群は近接護衛と救難に回す。」


「敵潜水艦は。」ヴァーレンが問う。


「所在不明です。二隻の味方潜水艦で主要航路の前方を監視しますが、完全な安全は保証できません。」


 ケラー空軍少将が口を開いた。


「潜水艦については、我が空軍の対潜部隊の一部を海軍の指揮下に加えます。しかし、空軍の即応戦力は減っています。全ての便に同じ密度の上空援護は付けられません。」


「ならば、何を優先する。」


「混雑する入出港の時間帯です。洋上では艦隊の防空能力に最大限頼る必要があります。」


 エリクセン海軍少将は渋い顔をした。ヴァーレン中将が陸上で統合軍司令部で作戦の指揮を執る間、臨時で艦隊の指揮権を継承した。彼には、艦隊の保全という職責がのしかかっている。


「海軍に負担を寄せるのか。」


「寄せます。」


ケラーは答えた。


「それ以外に、空軍は飛行時間を増やす方法を持ち合わせていません。」


 ヴァーレンは二人を見た。


「いい。誰が何を負担するかが見えた。次へ進もう。」


 会議が終わった後も、リンデ大佐は輸送表を閉じなかった。四万三千人という目標は、成功の数字として聞こえる。だが五万人との差を引けば、七千人が残る。数字は、引き算を拒まない。


「眠らないのか。」とヴァーレンが尋ねた。


「船の回転率を見直しています。」


「休まなければ計算を間違える。」


「休んでいる間に、港で誰かが死ぬかもしれません。」


 ヴァーレンはしばらく黙った。


「私も同じことを考えている。だが、疲れた頭で作る命令は、もっと多くの人を殺す。」


 リンデは鉛筆を置いた。窓の外では、対空警報が遠くで鳴っていた。彼女は時計を見た。休めるのは四十分だけだった。それでも四十分、目を閉じることにした。


 その夜、民間フェリー《ノルドリヒト》の船長エマ・ヨルゲンセンは、乗組員を食堂に集めた。窓の外には、荷役中の軍用車両が見えた。


「私たちは軍艦ではありません。」


 エマは言った。


「この船は、もともと家族連れを運ぶための船です。」


 機関長が尋ねた。


「引き返す選択肢は?。」


「ある。徴用命令には、船の安全に重大な問題がある場合の申告手続きがある。」


「船長は申告しますか。」


 エマは答えるまでに少し時間を置いた。


「船体と機関は動く。乗組員は全員訓練を受けた。危険はある。でも、私たちが行かなければ、乗れない人がいる。」


 若い航海士が言った。


「乗客は軍人ですよね。」


「そうよ。でも、乗船したら私たちの乗客だわ。」


「この中には家族が居る者もいるでしょう。船長と言えども無理強いはしないわ。」


 誰も席を立つ者はいなかった。だが皆、明日の航海が怖かった。それでも、席を立つ者はいなかった。


 統合司令部の壁面表示に、ハーヴェスタへ向かう巡航ミサイルの警報が現れた。会議室にいた参謀たちは、一瞬だけ口を閉じた。ヴァーレンは机の上の輸送表を伏せず、当直士官に尋ねた。


「防空隊の状況は。」


「迎撃中です。目標は軍港周辺の施設に向けられた可能性が高いかと。」


 遠くで鈍い音がした。司令部の窓が震え、天井から細かい埃が落ちる。リンデ大佐は鉛筆を握ったまま、輸送船の一覧を見ていた。ミサイルが一発命中すれば、船腹だけでなく、港で働く人間も失われる。


「会議を中断しますか。」とクラウゼン少将が訊いた。


「中断しても、船が増えるわけではない。」とヴァーレンは答えた。


「ただし避難命令には従う。地下指揮室へ移る。」


 彼らは資料を抱え、階段を下りた。移動中にも無線報告が続いた。迎撃された目標、海上へ落下した破片、停電した倉庫。数字は変わり続けた。ヴァーレンは、戦争が兵站表の余白にまで入り込んだことを理解した。


 ヴァーレンは深夜、作戦室に一人残った。壁の数字は、消灯しても頭から離れない。五万人。四万三千人。七千人。


 彼は過去の航海記録を思い出した。若い士官だった頃、教官から言われたことがある。


『船長は海の状態を変えられない。だが、乗員がどの海へ出るかには責任を持つ』。


 ヴァーレンは鉛筆を取り、船腹表の余白に書いた。


『追加便の余地を毎日再計算すること。最終日まで、救出可能数を固定しないこと』。


 冷静な顔の下で、彼は自分の恐怖を認めていた。誰かを残す決断が、やがて自分の名と結びつく。そのことが怖かった。だが、それを理由に決断を他人へ渡すつもりもなかった。



 民間船長エマ・ヨルゲンセンは、徴用船の船長たちと長机を囲んでいた。商船の船長は軍人ではない。だが彼らは、軍艦が通る海域へ乗客を運ぶことになる。


「敵の対艦ミサイルが来たら、どうする。」と老船長が訊いた。


 海軍の連絡士官は、曖昧な言葉を選ばなかった。


「護衛艦が迎撃します。ですが、絶対の保証はありません。」


「つまり、沈むかもしれないと。」


 老艦長はつぶやいた。


「はい。」


 沈黙が落ちた。エマは窓の外を見た。軍港には、平時なら旅客を乗せていた船が並んでいた。


「乗せる人間には、その話をしない方がいいのかしら。」


「恐怖で混乱する可能性があります。」


 エマは首を横に振った。


「嘘をつく必要はない。乗る人たちは怖がるかもしれないけど、船が出ることも伝えるわ。」


 彼女は名簿の空欄に署名した。自分が署名することで、何千人もの運命が動く。その重さは、軍の階級章とは無関係だった。

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