10話 港を守る者
5月12日、午前五時。エルデク港の防波堤には、潮の匂いと焼けたゴムの臭いが混ざっていた。海軍歩兵第1師団長リンドホルム少将は、砂袋の陰から沖を見た。まだ船は見えない。灰色の空に、鳥が数羽飛んでいた。
「アレックスから連絡は?」
通信士が答えた。
「船団は出港済み。海峡の天候は回復傾向です。」
「そうか。」
リンドホルムは頷いた。
「ならば、岸壁を空けておけ。戦車を絶対に港内へ入れるな。乗船待機の兵と交錯する。」
隣にいたホルスト准将が言った。
「前線からの報告によると、敵の砲兵が港を射程に入れた可能性があります。」
「射程に入っているだろうな。」
「防御線を後ろへ下げますか。」
「船が来るまでは下げない。逆に船が来るまでに陸軍さんと共同で前線を上げなければならん。ただ、こちらの戦力は乏しいから難しいかもしれん。とにかく、命令があるまでは敵を追って前へ出るな。」
リンドホルムは、土嚢の向こうにいる若い兵士を見た。目の下に濃い隈があった。
「朝食は食ったか。」
「まだです、将軍。」
「食え。空腹の兵は勇敢でも判断を間違える。」
兵士は戸惑いながら敬礼した。
午前七時、港の東側で最初の砲弾が炸裂した。倉庫の屋根がめくれ、木箱が転がった。警報が鳴る。衛生兵が担架を持って走った。
リンドホルムは、地下指揮所へ入った。
「どこを撃たれた。」
「第三倉庫です。岸壁そのものは無事であります。」
「船舶誘導を止めるな。荷役班は分散させろ。」
2発目は、港外の道路へ落ちた。軍用トラックが横転し、積まれていた食料箱が道路に散った。運転手が這い出してきた。救護班が彼を引きずり、壁の陰へ運んだ。
敵の砲撃は正確ではなかったが、港の時間を奪った。荷役班は一度散り、集合し直さなければならない。船は岸壁に着いても、すぐに乗客を受け入れられない。遅れは次の船に積み重なる。
「敵は港を壊すより、遅らせたいんだ。」
ホルストが言った。
「そうだ。こちらが焦れば、向こうの勝ちだ。」
リンドホルムは時計を見た。
「負傷者の搬入口を一つに絞るな。第二倉庫の裏に予備を設けろ。ホルスト、指揮下の砲兵に対砲兵射撃を行わせろ。また、空軍さんに対地支援を要求だ。」
同じころ、ハーヴェスタではフレデリクセン少将が市街地の西端にいた。敵の偵察車両が住宅街の外縁まで近づいている。味方の歩兵は、瓦礫の間から短い射撃を加え、すぐに位置を変えていた。
「第三区画、弾薬が不足しています。」
「補給車は?。」
「道路が塞がっています。」
フレデリクセンは、工兵指揮官へ無線を入れた。
「道を一本開けてくれ。戦車が通れなくてもいい。担架と弾薬箱が通れば十分だ。」
工兵は破壊された路面を調べ、瓦礫の一部を手作業で除き始めた。ショベルカーは燃料がなく、動かなかった。
その日の午後、敵の装甲車両が前線近くの十字路へ進入した。味方の対戦車班が射撃し、先頭車両が炎を上げた。後続は停止し、歩兵が建物の陰へ展開した。短い銃撃戦のあと、双方が後退した。
敵の進撃は止まった。しかし、フレデリクセンの部隊も三人を失った。彼は報告書に、敵車両一両撃破と書かせたあと、戦死者の氏名を確認した。三人のうち一人は、二日前に配属されたばかりだった。
夕刻、二回目の船団がエルデクへ近づいた。遠くに艦影が見えた瞬間、岸壁にいた兵士たちから低い歓声が上がった。
リンドホルムは声を張った。
「走るな!押すな!負傷者から乗せろ!」
担架が動き始めた。軍医が名前を呼び、衛生兵が返事をする。歩ける兵士は列を作った。銃を肩にかけたまま、何時間も待つ者もいた。
リンドホルムは沖を見た。船が来た。だが、船が来るだけでは救出は終わらない。岸壁から一人ずつ、船の中へ移して初めて数になる。
彼は無線機を受け取った。
「アレックス、こちらエルデク。最初の船を受け入れた。」
『了解した、エリック』
少しの雑音のあと、ヴァーレンの声が続いた。
『最終便まで、港を頼む』
「任せろ。」
リンドホルムは答えた。『だが、最後には俺たちも乗せろよ』
『そのつもりだ』
短い返答だった。リンドホルムには、それで十分だった。
エルデクの北側にある倉庫街で、ホルスト准将の海軍歩兵は榴弾砲の音を聞いた。着弾のたび、屋根の鉄板が鳴り、岸壁の荷役員が身を伏せた。敵の前進部隊はまだ見えなかったが、無人機が港の上空を飛んでいるという報告があった。
「対砲兵レーダーの結果を元に反撃しろ!港にいる船を狙わせるな。」とホルストは言った。
「防空隊へ位置を伝えろ。荷役を止める判断はファルク少将に任せる。」
海軍歩兵の一個小隊が、前線の塹壕の陰から道路を監視していた。突然、遠くの建物の窓で銃口が光り、機関銃弾が舗装を削った。小隊長は兵士を壁の陰へ下げ、短い応射で敵の視線を引きつけた。兵士たちの目的は敵を追撃することではなかった。彼らの後ろでは、担架を載せたトラックが岸壁へ向かっていた。
やがて味方の自動迫撃砲車が、港外れの広場から煙幕弾を撃った。白い煙が道路を横切り、敵の観測を妨げた。荷役員たちはその隙に、最後の医療物資を船へ積み込んだ。
「煙が晴れたら、また撃たれるぞ。」と兵士が言った。
「船が出るまでここで我々が踏ん張るのだ。」と小隊長は答えた。
彼の声は強かったが、指は冷えていた。敵の銃弾より、自分が守るべき人々の数が怖かった。
ハーヴェスタでは、ファルク少将が深夜の岸壁を歩いていた。停泊する輸送船の船腹は黒く、甲板灯は最小限に抑えられていた。遠くの防空砲火が雲を照らすたび、船員たちは無意識に空を見た。
「負傷者の列が長すぎます。」と看護将校が言った。
「船内の通路を一方通行にする。歩ける者は最後に回して。」
「全員が納得するとは思えません。」
「納得しなくてもいい。それより、転倒して踏まれる者を出さないで。」
そのとき、海上から対艦ミサイル接近の警報が届いた。護衛艦の艦橋が短い発光を繰り返し、空へ迎撃誘導弾が昇っていった。やがて海面の向こうで爆発が開き、遅れて衝撃音が届いた。ファルクは岸壁に伏せた人々を見渡した。
「荷役を再開する。安全確認が終わった船からだ。」
誰も彼女を勇敢だとは言わなかった。彼女も勇敢であるつもりはなかった。ただ、船が出なければ港は墓場になる。それだけは分かっていた。
港の整備班は、破損したクレーンを夜通し直していた。昼のミサイル攻撃で電源が落ち、荷役が止まっていたのだ。僅かな明かりの中で整備主任は油で黒くなった手を拭い、若い作業員に言った。
「ここが動かなければ、負傷者のベッドも積めない。」
若い作業員は、海軍歩兵の射撃音が聞こえるたび肩をすくめた。自分は銃を持っていない。だが、このクレーンを動かすことも戦争の仕事なのだと、初めて理解した。
午前三時、モーターが低く唸った。吊り具がゆっくり持ち上がる。周囲の作業員から小さな歓声が上がった。誰も拳を振り上げなかった。音を立てれば敵に見つかるかもしれないからだ。
クレーンが最初に吊ったのは弾薬ではなく、野戦病院の医療箱だった。整備主任は、その箱が船の中へ消えるまで見送った。




