11話 最初の千人
5月14日、午前六時。
乗船口の前で、若い下士官が名簿を読み上げていた。兵士は次々に手を上げるが、返事のない名前もあった。下士官は同じ名前を三度呼び、鉛筆で小さな印をつけた。
「あとで来るかもしれない。」と隣の兵士が言った。
「そうだな。」
下士官は答えた。しかし、港の外では迫撃砲が鳴っている。あとで来るという言葉が、どれほど頼りないものか分かっていた。
《ノルドリヒト》の船倉へ入る兵士の一人が、乗船口で振り返った。「俺の小隊長は、まだ向こうにいます。」下士官は目を伏せた。「名前を教えてくれ。」
兵士は名前を言った。下士官は名簿の余白に書いた。そこに名前を残すことしか、今の彼にはできなかった。
民間フェリー《ノルドリヒト》の車両甲板は、軍靴の音で満たされていた。その床には休む兵士たちに少しでも柔らかい寝床をと大量のダンボールが敷かれていた。乗船した兵士たちは壁に背を預け、肩を寄せ合って座っていた。誰も大きな声を出さない。隣の者の寝息と、船体を伝わる機関の振動だけが聞こえた。
エマ・ヨルゲンセン船長は、船橋で乗船名簿を確認していた。
「一便目、3百人。うち負傷者126人。」
航海士が言った。「これ以上は危険です。」
「分かっている。追加乗船を止めて。」
岸壁では、まだ乗りたがる兵士たちがいた。彼らの視線を受けながら、乗船口の水兵は腕を広げた。
「次の便があります。ここで待ってください。」
「次が本当に来るのか!」誰かが叫んだ。
水兵は答えられなかった。エマは船橋の窓からその姿を見ていた。彼女にも確信はない。それでも、出港しなければ次の便は始まらない。
「離岸準備。」
船が岸壁を離れると、兵士たちの一部が甲板へ出た。故郷の海岸を見ようとしていた。煙に隠れた街を、最後まで見ている者がいた。
午前九時二十分、海峡の中ほどで警報が鳴った。
『上空に不明機。各艦、警戒』
船橋の無線がざわめいた。エマは操舵手に告げた。
「船団の針路を維持。急な変針はしない。」
「船長、爆発音が。」
遠くの海面に白い水柱が立った。護衛艦が防空射撃を始めたのだ。機関砲の連射が、船体を通して低く伝わる。
エマは甲板放送を入れた。
『乗船者の皆さん、船内へ戻ってください。通路を塞がず、乗組員の指示に従ってください』
兵士たちは互いに声を掛け合い、負傷者を支えた。狭い階段では、一人がつまずくと列が止まる。船員は手すりの位置を示し、歩けない者を担架ごと動かした。
《ノルドリヒト》の船倉には、数百人の兵士が肩を寄せて座っていた。換気扇の音に混じり、遠くで対空砲の連射が聞こえた。甲板の上を走る靴音が速くなり、船内放送が低く響いた。
『乗客の皆さん、指定された区画から移動しないでください』
若い兵士が隣の男に訊いた。「今のは何だ。」
「知らん。」
答えた男は、手の中の写真を折り畳んだ。船体が大きく揺れ、天井から埃が落ちた。対艦ミサイルが近くの海面へ落ちたのか、護衛艦の迎撃弾が爆発したのか、船倉では確かめようがなかった。
エマ船長は艦橋で、護衛艦からの指示を聞いていた。『進路を維持。速度を落とすな』
「分かった。」
副長が窓の外を指した。海上に白い水柱が立ち、続いて橙色の火球が現れた。エマは一瞬だけ目を閉じた。船長の仕事は危険を消すことではない。危険の中で、船を動かし続けることだった。
船橋では、レーダー画面の点が一つ消え、別の点が離れていった。敵機が撃墜されたのか、針路を変えただけなのか、エマには分からない。
『対艦ミサイル全機撃墜。警戒継続。船団は航行を維持』
護衛艦からの声が入った。
エマは、初めて息を吐いた。
セレン島の岸壁に着いたのは、夕方だった。乗船者は一人ずつ降り、衛生兵の案内で待機所へ向かった。負傷兵が担架で運ばれると、港湾作業員が静かに帽子を取った。
エマは最後の乗客が降りるまで船橋に残った。航海士が言った。「3百人、全員降りました。」
「船内をもう一度確認して。」
「確認済みです。」
「それでも、もう一度。」
彼女は自分でも車両甲板へ降りた。毛布と空の水筒が残っていた。壁際には、誰かが落とした家族写真があった。写真には、三人の子供が写っていた。
エマはそれを拾い、乗船記録の係へ渡した。
「持ち主を探して。」
係は頷いた。
彼女は港の向こうに停泊する船を見た。次の便の準備が、もう始まっていた。
夜、統合軍司令部ではハルトマン大佐が救出数を更新した。
「本日、船団全体で千人。予定より時間を要しました。」
ヴァーレンは頷いた。
「明日の四千人は可能か。」
「条件つきです。岸壁の損傷が増えなければ。」
「条件は明朝また確認しよう。」
彼は数字の横に、小さく線を引いた。千人。五万人から見ればわずかだった。だが、その千人は今夜、セレン島の地面で眠れる。
ヴァーレンは報告書を閉じた。「船長たちに伝えてくれ。よく帰ってきた、と。」
深夜、海軍歩兵の後衛班は、古い魚市場の角に身を伏せていた。敵歩兵が道路を渡ろうとするたび、小銃と軽機関銃の射撃が交錯した。魚箱は破片で裂け、潮の匂いに焦げた木の匂いが混じった。
「弾薬は?」と班長が訊いた。
「残り少ないです。」
「無駄撃ちするな。あの救急車が角を曲がるまででいい。」
兵士たちは頷いた。敵の姿が見えなくなると、銃撃は一瞬止んだ。道路を救急車が横切り、後部の窓から包帯を巻いた兵士の顔が見えた。彼は後衛へ敬礼しようとして、腕を上げられなかった。
班長は、その車が消えるまで見送った。次の瞬間、迫撃砲弾が市場の屋根を破り、床が跳ねた。兵士たちは互いの名を呼び、瓦礫の中から立ち上がった。戦闘は続いていた。だが、救急車は港へ着いた。それが今夜の勝利だった。




