12話 五月十五日の空
5月15日、午前五時三十分。セレン島の空軍基地で、ユリウス・ハーゲン大尉は飛行服の袖を引き上げた。整備員が機体の下から出てきて、親指を立てた。
「燃料、補給完了。機関系統、異常なし」
「昨日の振動は?」
「固定具を交換しました。地上試験では再現していません」
「ありがとう」
ユリウスは、整備員の名札を見た。彼は整備員の名前を覚えるようになっていた。空で自分を支えるのは、目に見える僚機だけではない。
エミリア・ノルド大佐が格納庫前で待っていた。
「ハーゲン。今日は船団の上空援護だ。撃墜数を増やす日ではない」
「承知しています」
「敵を追って護衛空域を離れたら、生きて帰ってきても私が叱る」
「生きて戻れれば、叱られます」
ノルドは一瞬だけ笑った。
「そのつもりで飛べ」
午前八時。海峡の上空には、低い雲が幾層にも重なっていた。ユリウスは二機の僚機とともに、輸送船団の東側を飛んでいた。海面には灰色の船影が並び、航跡が白い線になっていた。
『こちら管制。北東から複数目標。高度差あり。確認を要請』
『敵機と思われる。全機、警戒せよ』
「ハーゲン隊、了解」
ハーゲン大尉は、管制官の声を聞きながら雲を抜けた。遠方の敵機が二つの編隊に分かれ、海峡へ向かっていた。機上レーダーには、見慣れた記号が点滅していた。味方の輸送船団が、その先にいた。
『敵機が発射した。ミサイル接近』
警告音が高くなった。ハーゲンは僚機へ離脱を告げ、機体を大きく傾けた。レーダー誘導弾に対抗してチャフが散り、薄い金属片が太陽の光を一瞬だけ反射した。ミサイルは機体の脇を抜け、遠くで白い雲を作って破裂した。
安心する暇はなかった。別の敵機が高度を下げ、赤外線誘導のミサイルを放った。僚機の操縦士がフレアを射出する。眩い光点が後方へ流れ、ミサイルはその一つへ引き寄せられて海面の上で爆発した。
『一番機、まだ追われている!』
「見えている。海の上へ出ろ。船団の方へ引き込むな」
ハーゲンは答えた。彼の喉は乾いていた。敵機を撃墜できれば、戦果として記録される。しかし、いま大切なのは敵を船団から遠ざけることだった。
僚機の声が返る。ユリウスは速度を調整し、編隊を保った。敵は二つの集団に分かれた。一方は高度を維持し、もう一方は船団へ向かって降下し始めた。
「下の集団を優先。船団へ近づけるな」
最初の交差は数秒だった。空が一瞬、機体と閃光で埋まる。ユリウスは照準が合う短い間だけ射撃し、すぐに機体を傾けた。背後から曳光弾が流れ、翼の外を赤い光が通り過ぎた。
『二番機、被弾! 操縦は可能』
「高度を維持できるか」
『できます。燃料系統は正常』
「ならば、私の右後方へ。無理に追うな」
敵の一機が雲へ潜り、別の機体が船団へ向かった。ユリウスは追いかけたい衝動を抑えた。追えば、背後の空が空くし、味方艦の射線に出てしまう。船団の上には何千人もの兵士がいる。
管制官が新しい方位を告げた。別の友軍編隊が接近していた。
『増援が入る。ハーゲン隊、護衛線を維持せよ』
「了解」
そのとき、眼下の海面に水柱が立った。船団の先頭から少し離れた場所だった。爆弾が落ちたのか、艦砲の弾が海に入ったのか判別できない。だが、輸送船は航路を保っていた。
ユリウスは無線を入れた。「こちらハーゲン。船団は航行継続。敵の接近を阻止中」
戦闘が終わったのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。敵機は離脱し、味方の増援機が上空を引き継いだ。ユリウスの二番機は翼の一部を損傷していたが、基地まで戻れた。
着陸後、整備員が機体の傷を調べた。翼には破片が刺さり、塗装が剥がれていた。
「よく帰ってきましたね」
「機体が頑張ってくれた」
「機体だけじゃありませんよ」
ユリウスは返事をしなかった。代わりに、二番機の操縦士が無事に降りたのを確かめた。
ノルド大佐が近づいた。「船団は?」
「被害は限定的です。護衛艦が軽い損傷を受けたと聞きましたが、輸送は継続しています」
「よし」
「大佐、敵機の撃墜は確認できませんでした」
「それでいい」
ノルドは言った。「守るべきものを守ったなら、それが今日の戦果だ」
夜、ヴァーレンの机に報告が届いた。十五日の撤収者は四千人。空戦による損害は調査中。船団は予定より遅れたが、全便が帰港した。
ヴァーレンは窓を開けた。海から湿った風が入ってきた。
彼は、数字の下に一行だけ書いた。
『帰還者累計五千人。次便の安全確認を最優先』。
戦争の勝敗を決めるような華やかな言葉ではなかった。しかし、彼が今夜必要としていたのは、その一行だった。
【増補場面――甲板の防空戦】
護衛駆逐艦の艦橋では、対空戦闘指揮官が複数の目標を追っていた。対艦ミサイルが低い高度で接近し、その背後には敵機がいた。艦のレーダー画面には、海面反射の雑音と目標の記号が重なった。
「近接防御、準備」
艦長オスカー・リンドは短く命じた。迎撃弾が発射され、遠くの空で白い爆発が開いた。だが一つの目標が残った。近接防御火器が作動し、甲板が激しく震えた。曳光弾の列が海面すれすれを走り、接近していた飛翔体が火花となって散った。
破片が艦の外板を叩いた。水兵が倒れ、衛生兵が駆け寄る。リンドは一瞬だけそちらを見たが、すぐに次の報告を求めた。
「被害は後で聞く。いまは後ろの船を守る」
艦の後方には、何百人もの兵士を乗せた輸送船が続いていた。戦果報告書には『迎撃成功』と一行で書かれるだろう。しかし、艦橋の誰も、その一行がどれほど長い数分間だったかを忘れなかった。
【増補場面――空戦のあとに残るもの】
戦闘機が帰投した基地では、整備兵たちが滑走路の端に並んでいた。着陸した機体の一つは主翼の塗装が剥がれ、もう一つは尾翼に小さな穴が開いていた。ハーゲンは操縦席から降り、脚を伸ばした途端、膝が折れそうになった。
「大尉、怪我は?」
「ない」
「本当に?」
ハーゲンは返事をしなかった。手袋を外すと、指先が赤くなっていた。操縦桿を強く握りすぎたのだ。
遠くの海では、護衛艦が迎撃したミサイルの破片を捜しているという。戦果の報告書には、撃墜数と被害数が並ぶだろう。しかし、彼が忘れられないのは、無線の向こうで聞こえた僚機の息遣いだった。
夕方、輸送船団の一部が無事にセレン島へ着いたと報告された。ハーゲンは初めて笑った。敵機を落としたからではない。守るべき船が、海を渡ったからだった。
【増補場面――港の待機所】
港湾地区の学校では、教室ごとに部隊名が書かれた紙が貼られていた。黒板には、前日まで算数の問題が残っている。兵士たちは机を壁際に寄せ、床に座って順番を待っていた。窓を開ければ海が見える。しかし、海へ出る船はまだ来なかった。
レオンは負傷したヨナスの隣に座り、包帯の具合を確かめた。「痛むか」。ヨナスは首を横に振った。「痛むと言ったら、先に乗せてもらえますか」。レオンは苦笑した。「正直に言え」。
「痛いです。でも歩けます」
「それなら、衛生兵に見せよう」
廊下で突然、対空警報が鳴った。教室の兵士たちは一斉に伏せ、窓から離れた。遠くの港で迎撃ミサイルが発射され、空に白い筋が伸びた。続いて低い爆発音が響いた。黒板のチョークが床へ落ちた。
誰かが「命中した」と言い、別の誰かが「分からない」と答えた。レオンは、確かめられないことを確かだと言うな、と言いかけてやめた。いま彼らには、希望が必要だった。
警報が解除されると、教師用の机に置かれた花瓶が割れているのが見えた。誰も怪我をしていなかった。兵士の一人が破片を集め、机を拭いた。明日、この教室を使う子供がいるかもしれない。彼はそう考えたのだった。
【増補場面――海峡の夜】
輸送船の甲板から見る夜の海は、陸地よりも暗かった。灯火を落とした船団は、互いの影だけを頼りに進んでいた。甲板の隅で、ある兵士が故郷の写真を見ていた。写真には小さなパン屋が写っていた。店の看板は、もう焼け落ちたかもしれない。
「戻れると思うか」と隣の兵士が訊いた。
「分からない。でも戻りたい」
彼らの会話を遮るように、遠方で防空砲火が上がった。護衛艦の近くに水柱が立ち、輸送船の乗員が甲板から船内へ戻るよう命じられた。二人は写真をしまい、階段を下りた。
船倉に戻ると、誰かが低い声で歌を歌っていた。故郷の学校で習った歌だった。歌声は次第に広がり、やがてまた静かになった。敵のミサイルが来れば、歌は何も守ってくれない。それでも歌うことは、まだ自分が人間であると確かめる方法だった。【増補場面――敵側の計算】
ラーデン中将の前進司令部では、補給将校が燃料の不足を訴えていた。進撃の速度が上がるほど、後方の車列は長くなる。前線の戦車は敵の砲弾だけでなく、空になった燃料タンクにも止められる。ラーデンは報告書を机に置いた。
「敵の後衛は、我々をここに引きつけたいのだろう」
ブラント少将が頷いた。「追えば港に近づけます。しかし道路の損傷が大きい。無人機の映像では、橋梁の一部が破壊されています」
「映像だけで通行可能と判断するな。工兵の報告を待て」
参謀の一人が焦れたように言った。「時間を与えれば、アルディア軍は海へ逃げます」。ラーデンは静かに答えた。「無理に追って戦車を道路へ詰め込めば、こちらが砲撃の標的になる」。
彼は窓の外を見た。兵士たちが水を運び、衛生車が泥の道を通っていた。作戦図の矢印は、彼らの疲労を表さない。
「敵を侮るな」とラーデンは言った。「負けている軍隊が、必ずしも無能とは限らん」。
【増補場面――護衛艦の沈黙】
《ヴァルキュリア》の艦橋では、迎撃戦のあと、短い静寂が訪れていた。海面には漂流する破片が見え、艦の側面には小さな傷が増えていた。艦長リンドは被害報告を受け、負傷した水兵の名を確認した。
「彼の家族には、まだ連絡するな。医療班の診断を待つ」
副長は頷いた。艦長は手すりに手を置いた。自分の艦が無事であることを喜びたい。しかし、船団のどこかでは別の艦が傷ついているかもしれない。
通信室から、輸送船が予定海域を通過したとの報告が届いた。リンドは初めて表情を緩めた。「次の船団は?」
「夜明け前に出ます」
「ならば、今のうちに食事を取らせろ。砲も人間も、使い続ければ壊れる」
副長が去ったあと、リンドは海面を見つめた。戦争が終われば、彼はこの海を美しいと思えるだろうか。答えはまだ分からなかった。
【増補場面――二つの岸壁、二つの祈り】
エルデク港では、夜明けとともに新しい負傷者が運ばれてきた。担架を持つ兵士の袖は泥で黒く、顔には眠っていない者だけが持つ硬い表情があった。看護兵は名札を確認し、乗船予定表の欄に鉛筆で印をつけた。担架の上の若者が小さな声で尋ねた。「母に、帰るって言ってくれますか」。
「自分で言える」と看護兵は答えた。「船に乗ったら、通信の順番を取ってやる」
その約束が果たせるかは分からなかった。通信設備は混み合い、港の外では砲声が続いていた。だが若者は少しだけ目を閉じた。
一方、ハーヴェスタでは、民間船の乗組員が岸壁で出港前の点検をしていた。船長エマ・ヨルゲンセンは、救命胴衣の数を確認しながら、副長に言った。「船室を一つ空けておいて。歩けない人が増える」。
「定員を超えます」
「知っている。だから積荷を減らす」
副長は迷った。「食料も必要です」。エマは頷いた。「分かっている。何を降ろして、何を残すか、私が決める」。
海上から対艦ミサイルの警報が入ったのは、その直後だった。港内の人々が一斉に空を見上げ、護衛艦の迎撃弾が遠くへ伸びていった。白い閃光が雲の下で開き、数秒遅れて爆発音が届いた。
エマは無意識に手すりを握っていた。彼女の指先は白くなっていた。副長が「船長」と呼んだとき、彼女はようやく手を離した。
「点検を続けて。船は出る」
その言葉は、勇敢な宣言ではなかった。船長として必要な確認だった。
【増補場面――空を見上げない兵士】
レオンの小隊にいた若い通信兵は、空から聞こえる羽音が苦手になっていた。最初は鳥と無人機を聞き分けようとしていたが、何度も攻撃を受けるうちに、どちらでも身を伏せるようになった。
「空を見るな」と軍曹が言った。「足元を見ろ。ここには段差がある」。
通信兵は頷き、負傷兵の担架を支えた。道の向こうで自動迫撃砲の発射音が聞こえ、遅れて敵陣側に煙が立った。誰かが「味方の援護だ」と言った。通信兵は、煙の向こうに誰がいるのか考えないようにした。敵も味方も、同じように怖いのだろう。
港へ着いたとき、通信兵は初めて空を見た。雲の切れ間から日が差していた。戦争が始まってから、空を美しいと思ったのは初めてだった。
その日の夜、船団の航路図には細い鉛筆の線が一本加えられた。司令部の地図上では、線はわずか数センチだった。しかし海の上では、何時間もの暗闇と、眠れない当直と、故郷を思う何千人もの沈黙を意味していた。ヴァーレンは報告書を読み終え、机の端に置いた。成功という言葉はまだ使わなかった。船が港に着き、乗っている人間が全員降りるまでは、作戦は終わらない。彼はそう考えていた。




