8話 南へ
5月2日、ハーヴェスタへ続く国道では、軍用車両と避難民の車が一本の長い列を作っていた。車列は数百メートル進むと止まり、また進んだ。道路の両側には、置き去りにされた乗用車があった。燃料切れの車もあれば、持ち主が歩いて逃げた車もあった。
フリードリヒ・フォン・エーレンベルク少将は、地図に引いた青い線を指でなぞった。線は、守れる土地ではなく、時間を買うための地点を指し示していた。
「第二機械化師団は、東の高地から順次離脱。第六機甲師団は、追撃を抑える。第四歩兵師団は国道の西側を固める。」
参謀が尋ねた。
「閣下、全軍を港へ急がせる方が、損失は少ないのでは。」
「港へ着いても船がなければ、ただの標的になる。それに、避難民を置いて軍のみが撤退することは許されない。」
エーレンベルクは答えた。
「船が来るまでの時間を、我々が作らなければならない。」
作戦本部にいる者は誰も、その言葉を勇ましいとは思わなかった。時間を作るということは、後衛に残る者が必要だという意味だった。
午前9時、ラインハルト少将の戦車隊は、低い丘の陰から国道を監視していた。遠方に敵の装甲車が見えたが、敵もまたこちらを探していた。戦車長は、車内の息苦しい空気の中で乗員の顔を見た。
「ここで敵を全部止める必要はない。十分間だけ通さない。」
砲手が頷いた。主砲の発射音が車内に響き、車体が揺れる。敵の先頭車両に命中し、車列が止まった。敵は発煙弾を放ち、視界を遮った。双方の砲声が交互に続いたが、命中を確認できる時間はなかった。
無線には、後退する輸送車列からの報告が入った。『最後尾、橋を通過』
「ならば仕事は終わりだ。」
戦車長は答えた。砲手がまだ敵を追っているのを見て、彼は静かに言った。「撃破した数より、通した車の数を覚えろ。」
戦車が後退すると、さっきまでいた丘の頂上に砲弾が落ちた。彼らは勝ったのではない。ただ、必要な時間を稼いだ。
午前11時、第六機甲師団の前進指揮所。オットー・ラインハルト少将は、残存戦車の配置図を見ていた。
「稼働できる車両は?。」
「整備を終えたものを含め、師団内で二十六両です。別の八両は故障中。」
「補修できるか。」
「部品さえあれば幾らでもできるでしょう。」
ラインハルトは短く息を吐いた。部品があれば、という言葉はこの戦争で最も多く聞いた条件だった。
「使える戦車を三つに分ける。道路の出口を守り、敵がこちらの退却方向を見失うまで動かす。正面決戦はしない。」
若い戦車長が不満を漏らした。
「撃破できる敵を見逃すんですか。」
「お前の戦車は何発積んでいる。」
「主砲弾、残り十七発です。」
「ならば十七発の使い道を考えろ。敵の数を数えるな。味方が何台通れたかを数えろ。」
その日の午後、彼らは畑を横切る敵機械化部隊を発見した。最初に砲声を上げたのは味方戦車だった。敵の先頭車両が停止し、後続が左右へ散った。敵はすぐに発煙弾を撃ち、畑の向こうを白く覆った。
「撃つな、見えない。各自、サーマルに切り替えて撃て。」戦車長が命じた。
煙の奥から機関砲の連射が聞こえ、味方の装甲車の側面で火花が散った。車長は砲撃しながらの後退を命じた。戦車は畑の畝を砕きながら下がり、農家の石垣の陰へ入った。
敵を何両撃破したのか、誰にも分からなかった。しかし、国道の車列はその間に四キロ進んだ。それが、その戦闘の成果だった。
ハーヴェスタへ向かう車列の上空を、小型ドローンが横切った。最初に気づいたのは、補給車の助手席にいた兵士だった。
「鳥じゃない。止まれ!。」
運転手がブレーキを踏むより早く、前方の路面で爆発が起きた。先頭車のタイヤが裂け、積み荷が道路へ散った。後続の車両は次々に停止し、道路は一瞬で動かなくなった。ドローンの攻撃そのものより、車列の停止が恐ろしかった。動かない車列は、遠くの砲兵にとって格好の目標になる。
レオンは車外へ飛び降り、兵士たちに叫んだ。
「負傷者を道路脇へ! 車を離せ!。」
小銃の発射音が上がったが、空の小さな影を捉えられたかは分からない。レオンは撃つ兵士を責めなかった。ただ、彼らが空を見上げたまま動けなくなることを恐れた。
数分後、迫撃砲弾が車列の後方に落ちた。土煙と金属片が舞い、兵士たちは排水溝へ飛び込んだ。衛生兵は手袋を血で濡らしながら、足を負傷した運転手の止血を続けた。
「運べますか。」
「運ぶしかない。」
レオンは答えた。彼らは壊れた車を残し、負傷者を別のトラックに移した。戦争の地図では、道路の一本に過ぎない場所だった。そこには、名前のある人間が何十人もいた。
「通信機と医療箱を下ろせ。残りは持てるだけだ。」
兵士たちは荷物を選び始めた。ある者は予備弾倉を取り、ある者は濡れた毛布を捨てた。レオンは、後部座席に挟まっていた子供用の靴を見つけた。避難民を乗せたときの忘れ物だった。
「中尉、何ですか、それ。」
「さっきの親子のだ。」
「もう会えませんよ。」
「そうかもしれない。」
彼は靴をポケットに入れた。その夜、部隊は農業倉庫で休んだ。壁の向こうで砲声が途切れず続いた。レオンは靴を取り出し、泥を拭いた。いつか持ち主に返せると考えたのではない。ただ、何か一つでも戦争の外側へ持ち出したかった。
ハーヴェスタへ続く農道では、衛生兵のエルナ・シュミットが、道路脇の小屋を救護所にしていた。担架は足りず、負傷兵は扉を外した板の上に寝かされていた。迫撃砲弾が遠くに落ちるたび、天井の埃が降った。
「次の車はいつ来ますか。」と負傷兵が訊いた。
「来ます。必ず。」
エルナは答えた。正確な時刻を知らなかった。彼女が持っているのは、包帯と水と、まだ諦めていない声だけだった。
外でドローンの羽音がすると、兵士たちは息を潜めた。エルナは窓を塞ぎ、負傷兵の肩を抱いた。敵に見つかれば、救護所も攻撃されるかもしれない。だが負傷兵を置いて逃げることはできなかった。
夕方、輸送車が到着した。エルナは最後の患者を乗せてから、ようやく壁に背を預けた。手が震えていた。誰にも見せたくない震えだった。
ハーヴェスタの港湾司令部では、マリア・ファルク少将が船腹表を広げていた。
「到着した部隊は何人?。」
「予定より二千三百人多いです。負傷者が六百人。」
「宿営地は?。」
「岸壁周辺に設置するのが限界です。」
「岸壁に置くな。敵の空襲を受ければ、船に乗る前に死ぬ。」
ファルクは地図の内陸側を指した。
「学校と倉庫を臨時の待機所にする。乗船順は負傷者を優先し、歩ける者は呼ばれるまで移動させない。」
参謀が言った。
「兵士は不満を言います。」
「言わせなさい。生きて不満を言える方がいい。」
港の外では、トラックのブレーキ音と兵士の怒号が響いていた。ファルクは数字の欄を指で押さえた。輸送計画に書かれた一人は、紙の上では一人でしかない。しかし、その一人が船に乗れなければ、誰かの人生がそこで途切れる。




