7話 四月二十九日
2041年4月29日、午前4時20分。アーデルンの南東にある環状道路では、信号機がまだ赤と青を繰り返していた。車は一台も通らない。中央分離帯の花壇には砲弾の破片が刺さり、舗装の割れ目から水が噴き出していた。
街路の上に黒い煙が垂れ込め、壊れた電線が火花を散らしていた。レオンの小隊が交差点を離れた直後、上空で低い爆発音が続いた。地対空ミサイルが敵機へ向かって伸び、その光跡が雲の中へ消える。数秒後、別の光が市街の外へ落ちていった。撃墜したのか、囮を捉えたのか、地上の兵士には分からない。
小隊の無線機に、敵無人機の接近警報が届いた。屋根の上に小さな機影が見え、直後に手榴弾ほどの爆発が路面を叩いた。兵士たちは壁に伏せ、粉塵の中で互いの名前を呼んだ。
「ベルク、いるか!」
『います、中尉。足をやられましたが歩けます』
レオンは煙の向こうにヨナスの姿を見つけ、肩を貸した。敵の銃撃は断続的だった。連続する発射音と単発の銃声が重なり、誰がどこから撃っているのか分からない。
「応射は短く。後退路を守れ!」
レオンは命じた。目の前の敵を倒すことより、敵の機関銃が壁を削った。石片が顔を打ち、頬が熱くなった。レオンは血を拭う暇もなく走った。
レオン、壊れたバスの陰で地図を広げた。紙の端が血で濡れている。彼自身の血ではなかった。伝令兵ヨナスが、先ほど担架に載せられたときについたものだった。
「中尉、第二小隊からです。北の交差点に敵の装甲車両が三両。歩兵がついています。」
軍曹の声は枯れていた。徹夜で連絡を走らせ、喉を痛めていた。
「橋は?」
「工兵が通行不能にしました。歩行者なら渡れますが、車両は無理です。」
「民間人は残っていないか。」
「二軒、返事がありません。」
レオンは時計を見た。四時二十三分。あと七分で、上級司令部が指定した後退時刻になる。七分あれば家を確かめられる。だが、その七分が分隊を失わせるかもしれない。
「私と軍曹で行く。残りは煙幕の準備。反撃は最低限相手に乗せられるな、帰ることが任務だ」
軍曹は反論しかけたが、黙って銃を持ち直した。
通りの角を曲がった瞬間、機関銃弾が壁を削った。白い粉が二人の肩に降る。レオンは塀の内側へ身を伏せ、弾道の向きを確かめた。敵は彼らを正確に狙っているのではない。道路の入口を掃射していた。
「走るぞ。」
隣家の庭を抜け、二軒目の裏口を叩く。返事はない。窓から中をのぞくと、老夫婦が床に座り込んでいた。夫は片脚を抱え、妻は鍋を握ったまま動かなかった。
「王国軍です。退避をお願いします。」
「息子が帰ってくるまで待つ。」老人は言った。
「ここは間もなく戦場になります。」
「分かっている。」
レオンは、説得する言葉を探した。砲声が一段と近くなった。窓ガラスが震え、妻が鍋を取り落とし
た。
「息子さんの名前を教えてください。避難先で探します。」
老人は長い間、レオンの顔を見つめた。やがて、息子の名前と勤め先を言った。レオンは手帳に書き、老人の肩を支えた。
4時32分、彼らが交差点へ戻ったとき、後退時刻は過ぎていた。第二小隊の兵士たちが煙幕の向こうで待っていた。
「遅いですよ、中尉。」付いてくる軍曹が笑った。
「すまん。」
「二人増えたなら、いい遅刻です。」
その直後、北から低いエンジン音が響いた。煙の裂け目に、敵戦車の砲塔が見えた。砲身が旋回し、道路脇の倉庫へ向いた。
「伏せろ!」
発射音が腹に響いた。倉庫の壁が崩れ、粉塵が空を覆う。レオンは老婦人の頭を腕で守った。爆風の後、敵歩兵の短い叫び声が聞こえた。
味方の対戦車班が一発を放った。戦車の側面を貫通し敵戦車は沈黙した。後続の敵装甲車が停止し、砲塔をこちらへ向けた。撃たれる前に離れなければならない。
「後退!」
レオンたちは細い路地へ走った。振り返ると、王都の東の空が赤く染まっていた。夜明けではなかった。燃えているのだ。
午前六時、副都の地下にある危機管理室で、ヴェストマン首相は最後の通信を受け取った。
『東部防衛線、統一指揮不能。各部隊は既定の撤収経路に移行』
国防大臣ベルントが顔を覆った。国王フレデリク四世は、机の端に両手を置いたまま立っていた。
「アーデルンを放棄するのか?」国王が尋ねた。
「陛下。」首相は答えた。
「政府機能はすでにセレン島へ移しております。ここに残ることは、陛下を人質に取らせることになります。」
「市民は?」
「病院と避難所への支援は続けます。ですが、全員を連れては行けません。」
国王は長く目を閉じた。地下室の換気装置が低く鳴っていた。
「私の名で告げよ。残る市民を敵とみなしてはならない。降伏した兵士を臆病者と呼んではならない。」
ベルントが顔を上げた。
「陛下……」
「王都を失うことと、国民を失うことは違う。」
午前九時を過ぎるころ、王宮の旗は降ろされた。降ろしたのは儀仗兵ではなく、最後まで残っていた庁舎管理人だった。彼は布を畳み、濡れないよう上着の中に入れた。
同じ日の午後、アーデルン中央病院にヴァルデン軍の衛生将校が来た。
「軍医療部隊です。負傷者の確認を。」
クララ・ヴァイゲルは、彼の腕章を見た。知らない国の紋章だった。
「患者は国籍順には並んでいません。」
「それで構いません。」将校は言った。
「治療に必要な物資の優先順位を教えてください。」
クララは一瞬だけ驚いた。次に、備品の記録簿を差し出した。
「では、まず酸素が足りません。次に抗生剤。水道も不安定です。」
戦争は、病院の門をくぐった。しかし、その日、クララは誰の制服にも手術の順番を譲らなかった。
夕方、エミリアが窓辺で尋ねた。
「先生。王様は負けたの?」
「今日は、街を守れなかったの。」
「もう帰ってこない?」
クララは少女の肩に手を置いた。
「分からない。でも、私たちはここにいるわ。」
少女は小さく頷いた。遠くで鐘が鳴った。時刻を告げる鐘だったのか、火災を知らせる鐘だったのか、二人には分からなかった。
王都が陥落した日の夕方、クララは病院の屋上へ上がった。白い布を掲げるためだった。軍の標識を持つ建物でも、戦闘の混乱の中では砲撃を受ける。屋上の縁から見える街は、彼女が知っているアーデルンとは別の姿になっていた。
向かいの建物では、ヴァルデン軍の兵士が二人、負傷した仲間を引きずっていた。クララは迷った。敵の兵士を助ければ、味方の遺族に責められるかもしれない。だが負傷者の苦しみは、制服の色では変わらない。
彼女は階段を駆け下り、看護師に言った。
「担架を一つ。入口まで。」
若い看護師は躊躇した。「敵兵です。」
「患者よ。」
その夜、病院の廊下にはアルディア兵とヴァルデン兵が並んで寝かされた。互いに顔を背ける者もいた。クララは、その間を歩いて点滴を確かめた。彼女の仕事は戦争の勝敗を決めることではなく、明日の朝まで生きる人間を一人でも増やすことだった。
ヴァルデン軍の戦車部隊長コンラート・ヴァイス大佐は、王都東部の道路で前進停止を命じた。瓦礫の向こうから銃声が聞こえ、歩兵が壁の陰に伏せている。通信兵が言った。
「あと二百メートルで広場です。」
ヴァイスは答えた。
「何人いる。」
「報告によると、一個中隊です。」
戦車の外には、民間人の荷車が一台残っていた。老女が押している。戦車長に命令し。砲塔の向きを変えさせ、歩兵へ道を開けるよう命じた。その隙に、別の路地から小銃弾が飛んできた。装甲に当たる音が車内へ響いた。
「撃ち返しますか。」
「敵さんはどうやら対戦車兵器を持ってないようだ。ならば、味方歩兵に排除させる。砲撃は民間人が消えるまで待て。」
若い砲手は不満そうだった。だがヴァイスは、街を占領することと街を壊すことを同じにしたくなかった。彼の命令がどこまで守られるかは、彼自身にも分からなかった。




