6話 崩れゆく王都
4月19日、アーデルン中央病院。クララ・ヴァイゲルは手術室の前で手袋を外した。廊下には担架が並び、患者の家族が壁に沿って座り込んでいた。負傷者の数は増え続け、看護師たちは三交代を維持できなくなっていた。
「先生、また搬送です」
「何人」
「七人。うち二人は子供です」
クララはうなずき、処置室へ向かった。幼い少女が毛布にくるまっていた。顔にはすすが付き、片方の靴がなかった。
「名前を教えて」
「エミリア」
「私はクララ。痛いところはある?」
少女は首を振った。しかし、クララが手を伸ばすと、少女が強く袖をつかんだ。
「お母さんは?」
クララは答えを持っていなかった。救急隊員の記録にも、保護者の情報はなかった。
「今、探しているわ」
少女は小さく頷いた。クララは看護師へ目配せし、温かい飲み物を頼んだ。戦争の医療には、止血も手術も必要だったが、誰かの手を離さないことも必要だった。
そのころ、王宮では政府移転の会議が続いていた。ヴェストマン首相は、政府要人の避難対象者の一覧を読み上げる国防大臣の声を聞いていた。
「政府要員の移動は、今夜から開始できます。」
「病院と避難民の輸送は。」
「十分ではありません。」
首相は机を叩きたくなった。しかし、叩いたところで輸送車両は増えない。
「国民には、政府が逃げたと思われるでしょう。」ベルント国防大臣が言った。
「実際、逃げるのです。」首相は答えた。
「ただし、統治を続けるために。ここで全員が捕まれば、王国は明日から誰の命令で動くのですか。」
沈黙が落ちた。窓の外では、王宮の庭師が花壇へ水をやっていた。十数年来の習慣を、彼はまだ止めていなかった。
夕方、病院へ軍の連絡将校が来た。「市内の医療施設に、可能な範囲で退避を勧告します」
「可能な範囲とは、どこまでですか」クララが尋ねた。
「移動できる患者を優先して……」
「人工呼吸器を使っている患者は? 家族が見つからない子供は? 移送中に亡くなる人は?」
将校は答えに詰まった。クララは責めるつもりではなかった。彼も命令を伝えに来ただけで、車両も医師も増やせないことは分かっていた。
「移せる人から移します。」彼女は言った。
「でも、ここに残る人のために、私も残ります。」
将校は深く頭を下げた。
夜、病院の地下ではエミリアが毛布に包まって眠っていた。クララは少女のそばに座り、携帯用の明かりで診療記録を読み返した。地上から遠い爆発音が伝わるたび、天井の埃が少し落ちた。
「先生」少女が目を開けた。
「ここは安全?」
クララは一瞬だけ迷った。
「できるだけ安全にするわ」
それは、約束できることのすべてだった。
外では王都の灯が一つずつ消えていった。病院の地下に残った小さな明かりは、朝まで消えなかった。
【増補場面――王都の防空壕】
アーデルンの地下鉄駅は、臨時の防空壕になっていた。改札機は止まり、ホームには毛布と紙袋が並んでいた。上空を通る航空機の音が近づくたび、人々は一斉に天井を見上げた。列車が来るはずの線路には、もう何日も車両が現れていない。
「お父さん、空の上で何をしているの」
「飛行機が戦っているの」
「どうして私たちの上で?」
話しかけられた父親は、懸命に答えを探した。地図上では王都の防空は合理的な軍事行動だった。しかし地下の自身娘にとって、その合理性は何の慰めにもならない。
地上で二度、爆発が起きた。駅の照明が揺れ、人々が身を寄せ合った。娘は目を閉じ、父の袖を握った。母親は娘の耳元で言った。
「数を数えましょう。ゆっくり、十まで」
娘は震える声で数え始めた。十まで数え終えたころ、爆発は遠ざかっていた。父親は安心したふりをした。彼自身、次の爆発が来ない保証など持っていなかった。
エーレンベルク少将の司令部では、最後の地図が机に広げられていた。赤い線は都市の外縁まで迫り、青い線は港へ向かって細く伸びていた。参謀が報告した。
「師団管轄下の残存燃料では、すべての装甲車を動かせません。」
「動けない車両は?」
「破壊して放棄するしかありません。」
少将は目を閉じた。戦車も装甲車も、兵士たちが長い訓練を重ねて扱ってきた装備だった。戦うための道具を、自分たちの手で失う。それは単なる物資の損失ではなかった。
「兵士を優先する。車両は後で作れる。」
その言葉に、参謀はすぐには頷かなかった。少将は続けた。
「国が残れば、工場はまた動く。兵士の代わりは作れない。」
窓の外で、遠い空戦の爆発が一瞬だけ雲を照らした。彼らはまだ知らなかった。数週間後、その判断を繰り返しながら海峡を渡ることになるのを。
王都から後退する部隊の無線には、何度も同じ言葉が流れた。『港湾方面へ。部隊のまとまりを保て』。だが道路では、歩兵と整備兵と避難民が同じ列を作っていた。部隊のまとまりとは、旗や記章のことではなかった。隣の兵士の名前を呼び、返事があるか確かめることだった。
エーレンベルク少将は、最後の連絡車が出発するのを見送った。彼の副官が尋ねた。
「王都を捨てた責任は、誰が取るのでしょう」。少将は即答しなかった。
「勝てなかった責任は、指揮官にある。だから、生きて退く兵士に、その罪を背負わせてはならない。」
遠くで航空機の音がし、黒い煙の上を細い光跡が横切った。防空ミサイルが敵機を追っていた。少将は、地図の王都に引いた青い円を消した。鉛筆の芯が折れた。彼は折れた芯を拾わず、新しい鉛筆を取った。
次に守る場所は、もう決まっていた。
ラーデン中将の前進司令部では、補給将校が燃料の不足を訴えていた。進撃の速度が上がるほど、後方の車列は長くなる。前線の戦車は敵の砲弾だけでなく、空になった燃料タンクにも止められる。ラーデンは報告書を机に置いた。
「敵の後衛は、我々をここに引きつけたいのだろう」
ブラント少将が頷いた。
「追えば港に近づけます。しかし道路の損傷が大きい。無人機の映像では、橋梁の一部が破壊されています」
「映像だけで通行不可能と判断するな。工兵の報告を待て」
参謀の一人が焦れたように言った。
「時間を与えれば、アルディア軍は海の向こうへ逃げます。」
ラーデンは静かに答えた。
「無理に追って戦車を道路へ詰め込めば、こちらが砲撃の標的になる。」
彼は窓の外を見た。兵士たちが水を運び、衛生車が泥の道を通っていた。作戦図の矢印は、彼らの疲労を表さない。
「敵を侮るな」とラーデンは言った。
「負けている軍隊が、必ずしも無能とは限らん。」
ヴァルキュリアの艦橋では、迎撃戦のあと短い静寂が訪れていた。海面には漂流する破片が見え、艦の側面には小さな傷が増えていた。艦長リンドは被害報告を受け、負傷した水兵の名を確認した。
「彼の家族には、まだ連絡するな。医療班の診断を待つ。」
副長は頷いた。艦長は手すりに手を置いた。自分の艦が無事であることを喜びたい。まだ報告はないが船団のどこかでは別の艦が傷ついているかもしれない。
通信室から、輸送船が予定海域を通過したとの報告が届いた。リンドは初めて表情を緩めた。
「次の船団は?」
「夜明け前に出ます。」
「ならば、今のうちに食事を取らせろ。砲も人間も、使い続ければ壊れる」
副長が去ったあと、リンドは海面を見つめた。戦争が終われば、彼はこの海を美しいと思えるだろうか。答えはまだ分からなかった。
航空母艦の食堂では、夕食がほとんど手つかずのまま残っていた。敵の対艦ミサイル攻撃を迎撃し、臨戦態勢が解かれた後の夕食で乗員は食事が喉を通らず、冷めたスープが皿の底で固まっていた。ヴァーレンは当直交代の合間にそこへ立ち寄り、誰も座っていない長椅子に腰を下ろした。普段は士官用の食堂で過ごすのだがだが今日は違った海の上で過ごした年月は長かったが、戦争が始まった日の夜を経験するのは、初めてだ。
若い水兵が給仕台から戻り、提督の姿を見て足を止めた。
「閣下、何かお持ちしましょうか。」
ヴァーレンは首を振った。
「君は食べたか。」
水兵は曖昧に笑った。「まだです。」
「ならば、食べなさい。命令だ。」
水兵は困ったように敬礼し、皿を持った。ヴァーレンはしばらくその様子を見ていた。若い水兵が食べるたび、手が小さく震えていた。恐怖を感じない者だけが優秀な兵士なのではない。恐怖の中で必要なことを続ける者も、同じように優秀だった。
作戦室へ戻ると、リンデ大佐が新しい報告を差し出した。敵の巡航ミサイルが沿岸施設を攻撃し、国境付近では無人機による観測と砲撃が続いている。港湾設備の被害はまだ確定していなかった。
「この戦争は短く終わると思いますか。」とリンデが尋ねた。
「終わってほしいとは思う。」
「答えになっていません。」
ヴァーレンは海図を見た。
「短く終わると思い込むのは危険だ。明日も、その次の日も、船を動かせるようにしておく」。
リンデは頷き、補給計画の欄に赤い線を引いた。彼女の仕事は敵を憎むことではなく、艦隊に明日を与えることだった。




