5話 占領下の男
4月9日、アーデルン。パウル・リヒターは鉄道貨物駅の事務所で、午前中に到着した貨車の記録を整理していた。貨車には食料や工業部品が積まれ、戦争が始まってからは軍の優先輸送が増えていた。彼が扱うのは重量、出発地、到着時刻。数字ばかりの仕事だったが、数字は嘘をつかないこともあった。
その日の午後、彼は見慣れない輸送列車を見た。車両には目立った標識がなく、駅員は近づくなと命じられていた。パウルは窓から視線を逸らし、帳簿へ戻った。何を運んでいるかを確かめることより、自分が不自然な行動をしないことが大切だった。
帳簿を書き終えると事務室から出て次の仕事に向かった。外では駅の屋根の上を、低い羽音が通り過ぎた。小型の監視ドローンだった。パウルは帽子のつばを下げ、ほかの職員と同じように台車を押した。作業を終えて事務室に帰るとでは、連邦軍の保安兵が一人、帳簿をめくっていた。
「この列車の積荷は?」
「私の担当は連結作業だけです。」
「知らないのか。」
「知る必要のないことは、知りません。」
保安兵は笑わなかった。パウルも笑わなかった。帰宅すると、マルタが冷えたスープを温め直していた。
「今日も遅かったわね。」
「列車が増えた。」
彼はそれだけ答えた。パウルは、情報提供者になって以来、家に帰っても窓の外を確かめる癖が抜けなくなっていた。妻は窓のカーテンを閉めた。二人の間では、詳細を言わないことが、かえって恐怖を共有する方法になっていた。
「駅はどうだった。」
「忙しいよ。いつもより。」
「危ないことはしていないでしょうね。」
パウルは箸を置いた。
「何もしていない」
その答えは、まだ嘘ではなかった。自分や仲間から情報を集めた彼は王国政府へ送ることを考えていたが、決めていなかった。自分が知る小さな事実が役に立つとしても、妻を危険にさらす権利があるのか分からなかった。
「あなたは、何かを隠しているときほど丁寧になるのね」
彼は苦笑した。
「そう見えるか。」
机の引き出しには、メモ用紙があった。鉄道職員にとって珍しくないものだが、その一枚に記した数字が、敵の輸送時刻を意味することがあった。パウルは一枚を抜き、手のひらで折った。渡す相手が捕まれば、自分も妻も終わる。
「怖いなら、やめてもいいのよ」とマルタが言った。
「怖いから、やめたい」
彼は正直に答えた。
「でも、あの列車の先で誰かが死ぬと思うと、知らなかったことにはできない」
マルタは彼の手からメモを取り、封筒に入れた。
「ならば、明日の朝まで眠りなさい。寝不足の英雄ほど、簡単に捕まる人はいないわ」。
パウルは笑った。笑えたことが、少しだけ救いだった。
同じ夜、統合情報部のダール大佐は、机上の報告書に赤鉛筆で印を付けていた。占領の危機が迫る地域から、協力を申し出る市民が増えていた。だが、勇気だけで情報源を扱うことはできない。相手が何を知り、何を知らず、どのような立場にあるかを理解する必要がある。そこへ一人の民間協力者の存在が浮かび上がってきた。
「政府が前々から確保していた民間協力者です。」
部下が言った。
「鉄道関係者。符号は灯台。」
「家族は?」
「妻が一人。」
「なら、連絡を急がせるな。妻の存在を、単なる付属情報として扱うな」
部下は頷いた。
ダールは、机の上の写真を見た。駅の貨物ヤード。倉庫。線路の分岐。そこには軍人だけでは見えない戦争の姿があった。列車が止まれば、前線の燃料が止まる。食料が届かなければ、市民も兵士も飢える。
翌朝、パウルは駅へ向かう途中で、学校へ急ぐ子供たちを見た。まだ授業が続いているのか、と彼は驚いた。街は戦争の報道で満ちていたが、子供たちは鞄を背負い、遅刻を気にして走っていた。
彼は、その光景を守りたいと思った。何をすればよいかは、まだ分からなかった。ただ、帳簿に書かれた数字が、遠くの誰かにとって必要なものかもしれないと考え始めていた。
灯台は、この朝まだ灯っていなかった。しかし、闇の中で火をともそうとする人間は、すでにそこにいた。
クララの病院では、深夜に停電が起きた。自家発電機が始動するまでの数十秒、院内は懐中電灯の光だけになった。遠くでミサイルの着弾音が響き、天井から粉が落ちた。
「電気が戻らなければ?」と看護師が尋ねた。
「見えるところまで、手作業で続ける。」
クララは答えた。負傷した少年の手を握り、顔を近づけた。
「名前を教えて。」
「トーマス。」
「トーマス。あなたはここにいる。私たちもいる。落ち着いて過ごして。」
発電機が唸り、照明が戻った。看護師は安堵の息を吐いたが、クララはすぐ次の患者へ向かった。病院にいる限り、戦況図の矢印より、患者の呼吸の方が重要だった。
夜明け前、彼女は廊下の窓から市街を見た。焼けた屋根の上を、無人機の小さな灯が移動していた。誰が操縦しているのか分からない。どこから見ているのかも分からない。見られているという感覚だけが、病院の窓に残った。




