4話 空軍の代償
4月6日、午前6時45分。ユリウス・ハーゲン大尉の戦闘機は、薄い雲の層を抜けた。下には朝日に照らされた田園が広がっている。地上から見る戦争と違い、上空の景色はひどく美しかった。
『二番機、間隔を保て』
『了解。今日は静かですね』
僚機の操縦士は、まだ二十四歳だった。訓練校以来の付き合いで、地上ではいつも冗談を言い合っていた。ユリウスは笑いかけ、すぐに表情を引き締めた。戦場において油断は禁物であることを軍人になってから嫌というほど聞かされていたからだ。数分後、警戒管制機から敵編隊の情報が届いた。
『方位変更。高度差あり。複数目標』
ユリウス・ハーゲン大尉のヘッドセットに、機械的な警告が割り込んだ。機体の表示板で、敵の火器管制レーダーが自機を捉えたことを示す記号が点滅する。彼は唾を飲み込み、僚機の位置を探した。灰色の雲に機影はなく、無線の向こうに呼吸音だけがあった。
『二番機、左上方に敵影。距離が詰まる』
次の瞬間、空の一点が鋭く光った。空対空ミサイルが雲を裂いて近づく。ハーゲンは機体を傾け、速度と高度を変えながら、チャフを散布した。金属片が薄い雲のように後方へ広がる。警告音は消えなかった。操縦桿を握る手に力が入り、視界の端が暗くなった。
『回避を続けろ。こちらが敵機を引きつける』
僚機の声が聞こえた。ハーゲンは返事をしようとして、歯を食いしばった。衝撃が機体の後方を揺らした。ミサイルが至近で爆発しその破片が主翼を叩いたのだ。警告が一つ消え、別の警告が灯る。燃料系統の圧力が不安定になっていた。
敵を引き付けた僚機の方角へ、ミサイルが飛んで行くのをレーダーが捕らえていた。
『二番機、右へ!』
返答はなかった。代わりに、無線へ短い叫び声が混じった。
ユリウスが視線を戻したとき、僚機の後部から黒煙が伸びていた。機体はゆっくり傾き、雲の中へ落ちていく。脱出装置の作動は確認できなかった。
『二番機、応答しろ。二番機!』
管制官が割り込んだ。
『ハーゲン、追跡を中止。燃料と残弾を報告せよ』
「被弾した。操縦は可能。帰投を要請する」
言い終えた瞬間、彼は敵を一機も撃墜していないことに気づいた。それでも生きて帰るための仕事は、まだ山ほどあった。
彼は答えようとして、声が出ないことに気づいた。操縦桿を握る手が震えていた。敵を撃墜することを考えていた数分前の自分が、遠い別人のようだった。
基地へ戻ったハーゲンは、格納庫の前で整備主任に迎えられた。主任は破片痕のある翼を見て、口をへの字に曲げた。「これでは次の出撃は無理です」。ハーゲンは抗議しなかった。空で受けた衝撃が、いまになって腕の震えとして戻ってきていた。
隣の駐機位置は空だった。そこへ戻るはずの戦闘機が、まだ帰っていない。無線機からは捜索隊の交信が聞こえた。誰かが「脱出信号を受信」と言い、別の誰かが「位置が不確か」と答えた。
ユリウスは機体から降りられなかった。整備員が梯子を掛けても、彼はヘルメットを外すだけで動かなかった。エミリア・ノルド大佐が近づいた。
「ハーゲン。降りなさい。」
「二番機を……」
「報告は受けた。」
「自分が、もっと早く気づいていれば。」
ノルドは彼を見上げた。
「報告書を書く前に、水を飲め。」
彼女の声は厳しかった。しかし、その手には水筒があった。
ハーゲンは操縦服のまま椅子に座り、差し出しされた水を飲んだ。撃墜記録が一つ増えれば英雄になれる、と以前は思っていた。だがいま彼が望んでいるのは、空いている駐機位置に機影が戻ることだけだった。
数時間後の報告会で、ユリウスは敵機の進入方向、警報の時刻、最後に見た僚機の姿を一つずつ説明した。途中で何度も言葉が途切れた。ノルドは急がせなかった。
「敵機の数を確実に見たか。」
「二機は確認しました。三機目は、見た気がします。」
「ならば二機と書く。気がしたことは別欄だ。一緒にするなよ。」
ユリウスは頷いた。戦争は、曖昧な記憶まで確実な事実に変えてしまう誘惑を持っていた。
その夜、格納庫では整備員たちが黙々と作業を続けていた。戻った機体には小さな破片痕があり、燃料系統の点検が必要だった。整備主任は、傷ついた外板を指でなぞった。
「次の出撃までに直せますか」
ユリウスが尋ねた。
「直す」
整備主任はぶっきらぼうに答えた。
「だが、お前さんもその傷ついた心を直してこい。機体より時間がかかるだろうけどな。」
ユリウスは何も言えなかった。格納庫の奥には、帰還しなかった二番機の駐機場所が空いたままだった。
夜、捜索隊から生存者発見の報告が届いた。ハーゲンは笑ったが、すぐに顔を覆った。安堵もまた、体力を奪うのだと初めて知った。




