3話 燃える平野
4月4日、午前五時二十分。中央平野に霧が残るなか、レオン・ハルダー中尉の小隊は農業倉庫を臨時の防御拠点にしていた。建物の壁には収穫期の広告が貼られ、床には穀物の匂いが残っていた。昨日まで、ここは戦場ではなかった。
「弾薬を数えろ。負傷者は奥へ。水は残っているか」
レオンは短い指示を繰り返した。彼の部下は二十代前半が多かった。射撃訓練では優秀だった者も、敵の砲声が近づくと顔色を失った。彼らに必要なのは勇ましい言葉ではなく、次に何をすればよいかという具体的な命令だった。
偵察員が戻ってきた。
「敵の装甲車両が二列で進んでいます。先頭は偵察車2両、その後ろに戦車1両。」
「こちらの後退路は?」
「西側の農道だけです。」
レオンは地図に目を落とした。西の橋を越えれば、師団の次の防御線へ合流できる。しかし、倉庫の裏には避難できずに残った農家の家族がいた。
「民間人を先に出す。俺たちは後ろから動く」
「敵が来ます。」
「だから急ぐんだ。文句を垂れる暇があるなら、手足を動かすんだ。」
ヴァルデン軍第7機甲部隊のコンラート・ヴァイス大佐は、車列の先頭で双眼鏡を上げた。彼の部隊は予定より遅れていた。アルディア軍は決定的な会戦を避け、橋と道路を少しずつ壊していく。敵を撃破した報告は増えるのに、進軍距離は思うように伸びなかった。
「倉庫とその周辺の石垣に火点。歩兵の小部隊と思われます。」
「迂回できるか。」
「南側は湿地です。車両が沈む恐れがあります。」
ヴァイスは腕時計を見た。
「無理に突っ込ませるな。歩兵に確認させろ。砲兵には民家の位置を伝えろ。砲撃で吹き飛ばす。」
若い副官は驚いた。
「急進の命令が出ています。」
「敵部隊に足止めを喰らったり、車列を泥に沈めれば、急進どころではない。」
その判断が数十分の遅れを生んだ。だが、その数十分がレオンの小隊にとっては生死を分けた。
レオンの分隊は排水溝に身を伏せ、農道の向こうを見ていた。自動小銃の射撃音が乾いた拍子で続き、石垣から白い粉が落ちた。ヨナス・ベルクが泥の中を這ってきた。
「敵は十人です。こちらを見つけています。」
「数を言い切るな。見えたのが十人なら、十人以上いる。」
レオンは答えた。彼は部下の顔を見た。全員が若かった。誰もが訓練では優秀だったが、弾丸が頭上を通るたび、訓練場の時間とは違う速度で呼吸していた。
前方の小屋の窓が光り、機関銃が撃ち始めた。泥が跳ね、兵士の一人が叫んだ。肩を掠めた破片で血が滲んでいた。レオンは衛生兵に合図し、煙幕が広がるまで待った。反撃を急げば敵を撃てるかもしれない。しかし、負傷者を連れて帰る道を失う。
「全員、顔を上げるな。撃ち返すのは道を開けるためだけだ。」
石垣の向こうから、敵歩兵の影が見えた。レオンは銃を構えた部下の肩を押さえた。
「まだ撃つな。射程に入るまで待て。」
乾いた発砲音が畑を横切った。倉庫の壁が砕け、白い粉塵が舞った。小隊は短く応射し、すぐに位置を変えた。敵に人数を悟らせないためだったが、長くは続かない。屋根の一部が崩れ、奥で負傷兵がうめいた。
「後退!」
レオンは声を張った。
「負傷者から先に! 担架を落とすな!」
兵士たちは一人ずつ裏口へ走った。レオンは最後まで石垣の裏に残り、敵が倉庫へ入るのを見届けてから農道へ飛び出した。背後で大きな音がして、建物の屋根が落ちた。
レオンたちの部隊の後方に三台の装甲車が間隔を空けて停止していた。第4歩兵師団の支援中隊が運用する自動迫撃砲車両だった。車内の照明は暗く、照準手は観測班やレオン達から届く断片的な報告を待っていた。前線では味方歩兵が水路沿いに退却しており、その背後に敵の装甲戦力が迫っていると聞いている。
『友軍、農場内の白い納屋を通過。後方から敵降車歩兵が接近』
ドローン部隊からの報告に中隊長は砲撃の可否を迷った。地図上の線は明確でも、現地からの報告では農家も道路も土煙に覆われている。味方の位置が少しずれていれば、援護射撃が味方を殺すこととなる。
「確認を取れ。白い納屋の屋根はまだ残っているか。」
『残っている。分隊は現在農場を脱出し西の畑の中に撤退。民間人を伴ている。今、砲撃と煙幕を要求する。』
自動装填機が鈍い音を立て、車体が短く揺れた。迫撃砲弾は弧を描いて低地の向こうへ消えた。数秒後、道路脇に土煙が連続して立ち、敵の前進が止まった。視界が遮られ降車歩兵に被害がでる射撃だった。支援中隊は数回の射撃で位置を変えた。敵の反撃砲火が、先ほどまで車両のいた場所を叩いた。
車内で装填手が呟いた。
「あそこに、まだ人がいるんでしょうね。」
「いる。」
と中隊長は答えた。
「だから撃った。あそこにいる味方を帰すためだ。」
その答えが正しいのか、彼には分からなかった。砲撃のあとに残るのは、煙と土だけではない。
煙幕による撤退支援を受けることが出来た分隊は夕刻、師団の集結地点へ到着した。生き残った兵士の顔は泥で黒くなり、軍服は煙の匂いがした。
「中尉。」
部下のヨナス・ベルクが水筒を差し出した。
「倉庫の人たちは役所が開設した避難所に無事到着したようです。」
「そうか。」
「俺たち、勝ったんでしょうか。」
レオンは答えられなかった。道路も倉庫も失った。敵の進撃を止めたわけでもない。ただ、家族を逃がし、部下を次の防御線へ連れ戻した。
「今日は、生き残った。」
やがて彼は言った。
「それで十分な日もある。」
その言葉を、ヨナスは忘れなかった。レオンもまた、忘れなかった。
師団との合流から数日後、斥候任務の途中、平野の小さな教会の前で、レオンの小隊は敵の偵察兵と遭遇した。互いに百数十メートルの距離で立ち止まり、ほとんど同時に銃を構えた。先に発砲したのがどちらだったか、後で誰も思い出せなかった。弾丸が石段を砕き、鐘楼の窓が割れた。
ヨナスが低い塀に伏せ、レオンに叫んだ。「敵が二人、教会の裏へ!」
レオンは応射を命じたが、射線の奥に人影を見つけて手を上げた。白いエプロンをつけた女性が、地下室の戸口から顔を出していた。銃声に怯え、逃げる方向を見失っている。
「撃つな。民間人だ!」
味方の射撃が止まり、敵側も一瞬静かになった。レオンは身振りで女性を地下へ戻した。その間に敵兵は退いた。後で軍曹が言った。
「逃がしましたね」。
レオンは頷いた。
「ああ。でも、あの人は生きている」。
戦闘日誌には『敵小部隊と交戦、双方離脱』と記された。それ以上のことを書く欄はなかった。




