2話 偽りの北方
4月3日、午前七時四十分。ヴァルデン軍の中央総軍司令部情報室では、アレクサンドラ・ヴォルフ中佐が壁面の地図に細い赤線を引いていた。北方の山岳路には、実際の戦力よりはるかに多くの無線交信が発生していた。偽装された通信網と、目立つ場所を走る補給車列。空から見ればヴァルデン連邦の大軍が集結しているように見えるが、そこには防衛を目的とした小規模な部隊しか配備されていない。補給車列や戦闘車両はバルーンによって作られた偽物である。
「敵は北方の予備部隊を動かしたようです。」
部下が言った。
「『ようです』は止めなさい。確認された事実は、敵の通信量が変化したことだけ。」
ヴォルフは椅子に腰を下ろした。
「こちらが作った幻を、こちらまで信じ始めたら終わりよ」
その冷たい言い方に、部下は背筋を伸ばした。彼女は敵を欺くことを職務としたが、味方が都合のよい情報に酔うことを何より嫌っていた。
同じころ、アルディア軍第6機甲師団の司令部。オットー・ラインハルト少将は、北方へ移動せよという命令を読み返していた。
「敵主力が北にいるという根拠は。」
「航空偵察と通信傍受です。」
参謀が答えた。
「南の道路は。」
「国境警備隊が交戦中ですが、敵の規模は不明です。」
ラインハルトは舌打ちした。機甲師団の車両は、地図上の矢印のように自由には動かない。整備中の戦車があり、燃料補給中の車列があり、橋の耐荷重を確認しなければならない。命令を変えるたびに、先頭と後尾の距離は広がる。
「二個大隊を北へ。残りは中央に置く。命令に反する責任は私が持つ」
参謀が息を呑んだ。
「師団を分ければ、どちらも弱くなります。二兎を追えば手痛い損害を追うことになりませんか。」
「部隊間の距離を一時間前後で到達できる距離に固定する。全体としては防衛線が薄くなるが、全軍を間違った場所へ運ぶよりはましだ。」
午前九時過ぎ、南部の国道ではレオン・ハルダー中尉が小隊を率いていた。道路脇の林から見える橋には、避難民の乗用車が詰まっていた。荷物を屋根へ積んだ車、窓を開けて泣く子供、故障して動けなくなった小型トラック。道路の反対側では、アルディア軍の装甲車が後退していた。
「中尉、速やかに橋を爆破する命令が来ています。」
通信兵が言った。
レオンは双眼鏡を下ろした。橋の中央に、まだ十数台の民間車両がいた。
「まだだ。橋上の車を出す。」
「敵戦車が来ます。」
「分かっている。」
彼は部下を二組に分け、片方に交通整理を任せた。もう片方は道路脇の土手へ移動し、接近する装甲車両を警戒した。遠方で機関砲の短い連射が響いた。土手の草が揺れ、弾片が道路標識を裂いた。
「伏せろ!」
レオンは車の陰に身を投げた。耳の奥が高い音で満たされた。隣の兵士が泥に顔を押しつけながら叫んだ。
「橋の爆破は可能か!」
「まだ民間人がいます!」
「早く橋から車から出せ!」
数分後、最後の乗用車が橋を渡った。運転席の老人は、レオンに向かって何か叫んだが、砲声で聞こえなかった。レオンは手を上げて応え、工兵へ退避の合図を送った。
橋が落ちたとき、衝撃は足元から伝わってきた。鋼材が水面へ折れ、灰色の煙が谷を埋めた。敵の先頭車両は対岸で停止した。
「中尉これで何分稼げましたか。」
若い兵士が尋ねた。
「まだ分からない。」
レオンは答えた。
「だが、向こう岸の人たちが逃げれる時間は稼げた。」
その日の夕刻、ダール大佐は海軍機による航空偵察や敵無線傍受によって明らかとなった、中央方面への敵主力進出を示す断片的な情報をヴァーレンへ提出した。報告書の末尾には、慎重な文言があった。
『北方の敵活動は欺瞞である可能性。現時点で断定不可』。
「この評価を陸軍へ回せ。」
ヴァーレンが言った。
「遅すぎるかもしれません。それに陸軍の連中が海軍からもたらされた内陸部の情報を信じるかどうかわか。」
「それでも回す。情報が遅れたことと、黙っていることは別だ」
ダールは敬礼した。彼らが地図の上で疑問を解き始めたころ、中央平野ではすでに橋が燃え、道路には難民の列が伸びていた。
ヴァルデン軍の偵察ドローンは、農地の上を小さな影になって滑っていた。機体は鳥のように見えたが、鳥ならばあれほど規則正しく道路の上で旋回しない。アルディア軍の若い監視兵は双眼鏡を覗き、空の一点に照準を合わせたまま言った。
「撃ち落としますか。」
班長は首を振った。
「今ここで銃を撃てば、こちらの場所を教えるだけだ。まず屋根の下へ移れ」
数分後、砲弾が監視所の外れに落ちた。無人機が見たものと砲兵が撃ったものの間に、見えない線がつながっているようだった。監視兵は、双眼鏡を握っていた手の汗を拭った。敵がどこにいるのか分からないのに、自分の位置だけが知られている。その不均衡が、彼を何より怯えさせた。
別の地区では、偽の通信量を増やしたヴァルデン軍の部隊が、北側の道路へあえて車両を走らせていた。無線は饒舌だったが、燃料車と架橋車は南へ向かっていた。エーレンベルク少将はその報告を並べ、長く沈黙した。
「敵が見せたいものと、隠したいものに情報を分けろ。」
「北が主攻ではないと?」
情報将校が問い返す。
「まだ断言できん。ただ、北へ戦車を集める理由を、敵がこちらに説明しすぎている。敵は優勢であり我々は押されている。我が軍にはもう後が無い。ここで判断を間違うことはすなわち、亡国への切っ掛けとなる。」
彼は予備隊の半数を動かす命令を保留した。部下には優柔不断に見えたかもしれない。だが地図の矢印を動かすのは、紙の上では一秒でも、実際の道路では数時間を奪う。判断の誤りは、その時間を取り戻せなくする。
前線の砲兵陣地では、砲身の熱が冷えないうちに後退命令が届いた。砲班長は、泥濘の中に埋まった牽引車を見て舌打ちした。砲を運べなければ、破壊して離れるしかない。彼は長年扱ってきた装備を一度だけ撫で、部下に工具と記録簿を持たせた。
「砲はどうするんです」
若い兵士が尋ねた。
「帰れる者が帰る。砲は帰れない」
少し後方では自動迫撃砲が砲身が熱で垂れるのを恐れていないとばかりに射撃を行い、煙幕を張っていた。敵のドローンが上空を通り、数分後には砲弾が道路の外れに落ちた。兵士たちは車の陰に伏せ、次の着弾を待った。砲班長は時計を見た。たった二分が、人生で最も長い時間に思えた。
やがて煙が広がり、彼らは徒歩で林の中へ入った。若い兵士は振り返ったが、砲はもう見えなかった。
国境集落の夜、日が沈むと、銃声はかえって近く聞こえた。小学校の体育館では、避難民が床に毛布を敷き、子供たちが靴を脱がないまま眠っていた。窓を覆う段ボールが、遠くの爆風で細かく震えた。
レオン・ハルダー中尉は、水の入った紙コップを老人に渡した。老人は受け取らず、戸口を指した。
「向こうに犬がいる。鎖につながれたままだ。」
「今は外へ出られません。」
「人間が逃げるからって、あいつが自分で鎖を外して逃げられるわけじゃない。」
レオンは返事に詰まった。敵の偵察ドローンがまだ上空を飛んでいた。体育館の灯りは消してある。犬を助けに行けば、兵士だけでなく避難民も危険にさらすかもしれない。
夜半、砲撃が遠のいた隙に、地元消防団の男が裏庭を回って犬を連れ戻した。犬は怯えたまま老人の膝に顔を埋めた。レオンはそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。救える命の大小を、戦争が勝手に決めることに、まだ慣れたくなかった。




