1話 四月三日
2041年4月3日、午前三時四十七分
アルディア王国東部国境監視所第十九号の窓は、夜露に濡れていた。太陽は未だにその姿を見せようとはしていない。ニルス・オルセン軍曹は双眼鏡を下ろし、隣の通信兵に時刻を確かめた。遠くの道路に並ぶ光は、夜間工事の車両にしては規則正し、響くエンジン音もトラックのそれとは明らかに異なっている。音を響かせている車両群は三つの白い光が動き、その後ろに二つの赤い光が続く。さらに後ろにも同じ組があった。
「すぐに本部に照会しろ。演習の通告が来ているか。」
「ありません。昨日の夕方で、国境の向こうは演習終了のはずですが。」
一体どこの部隊だろうと通信兵が不思議がりながら受話器を取ったとき、卓上の無線機が耳障りな音を響かせる。顔色を変えた通信兵がすぐさま周波数を変えた、だがどの帯域にも砂利を撒いたような雑音が入り込んでいた。次の瞬間、北方の丘の稜線が白く瞬いた。
砲弾が落ちたのは監視所から二百メートル先だった。大地を穿ちその爆発の衝撃で窓ガラスが砕け、照明が落ちた。無線機を掴んでいた通信兵が椅子ごと倒れた。オルセンは床に膝をつき、非常用の有線電話へ手を伸ばした。
「こちら第十七号、砲撃を受けている。繰り返す、国境を越えた砲撃だ!」
返事はなかった。線が切れていた。先ほどの砲弾が電話線を切ったのか、敵工作部隊がすでに浸透して線を切ったのか。結論を出すことなく彼は予備電源の通信装置に切り替えたが、短い信号を送り終える前に二発目が監視塔の脚を叩いた。塔は斜めに沈み、鋼材が悲鳴を上げながら崩れていた。
その夜、オルセンの報告は完全な文章としては届かなかった。ただ「不明車列」「砲撃」「国境」という三つの断片が、複数の中継局に届いた。これらの断は、規定に沿ってすぐさま情報本部に挙げられた。
同時刻、王国東方海域。航空母艦の作戦室には、コーヒーと電子機器の熱が混じった匂いが漂っていた。アレクサンダー・ヴァーレン中将は、作戦盤に映る東部国境の監視拠点を見つめていた。味方を示す青色だった表示が、一つ、また一つと消えていく。
「通信障害か。」
オスカー・リンデ大佐が首を横に振った。
「障害は東部国境の七か所で同時発生。この事象を、気象によって説明することは困難です。事実、電子妨害の兆候も報告されています。恐らくは、ヴァルデン連邦軍によって占拠された可能性が高いかと。」
「中央の判断は。」
「国防省は、局地的挑発の可能性を排除しない、と。」
ヴァーレンは返事をしなかった。作戦盤の西側には人口三千万人を超える王国本土があり、その中心に首都アーデルンがあった。彼の職責は海上戦力の運用であって、国境の陸軍を直接指揮することではない。しかし、敵が大規模な侵攻を始めたなら、海軍が戦争から無関係でいられる時間は短い。
「艦隊を第二戦闘配置へ。航空隊は緊急発進の準備。今一度艦隊の各艦の位置を洗い直せ。」
当直士官が息を呑んだ。
「閣下、宣戦布告は確認されていません、ここは中央の判断を待つべきかと。」
「宣戦布告は橋を渡る戦車を止めてはくれない。何かがあってから備えるようでは手遅れとなる。」
中将は鉛筆を置いた。
「私の命令として記録しろ。誤報なら、責任は私が取る。」
午前四時二十三分。国境の東、ヴァルデン連邦第3方面軍の前進指揮所。ハインリヒ・フォン・ラーデン中将は、侵攻第一波の通過を示す報告を受けていた。若い参謀は成功を確信した顔で言った。
「先頭の機甲部隊が国境を越えました。抵抗は散発的です。」
「それは最初の一時間の話だ。これからも上手くいくとは限らん。」
ラーデンは地図から顔を上げなかった。
「道路の容量は変わらん。燃料も弾薬も、勝利の知らせだけでは届かない我が輜重兵が運ばねばならんのだ。」
彼は部隊の進路に沿って指を動かした。アルディア軍が主要な橋を爆破すれば、機甲部隊の進撃は数時間止まる。数時間あれば、敵は次の防御線を作れる。作戦の成功は速度に依存していたが、速度だけを追えば補給が破綻する。
「架橋部隊と戦闘工兵を先行させろ。負傷者の後送経路を確保する。都市に入る部隊には民間人の保護を徹底させろ。」
参謀は頷いた。しかし、命令が前線の末端まで届くかどうかは、ラーデンにも保証できなかった。
午前五時五分。アーデルン中央病院では、クララ・ヴァイゲルが夜勤の記録を閉じようとしていた。救急搬入口へ最初の車両が到着したのは、その直後だった。担架に横たわる国境警備隊員の軍服には、乾いた血と土が付いていた。
「砲撃で負傷しました。体の中に幾つかの断片があります。」
付き添いの衛生兵が言った。
「前線から、まだ何台も来ます」
クララは手術着に着替え、手袋を引き上げた。
「外科を起こして。血液の在庫を確認。患者の名前は後でいい、先に呼吸を見ます」
遠くの街では、朝の新聞配達の車が走り始めていた。王国の人々の多くは、まだ眠っていた。病院の蛍光灯の下でだけ、戦争はすでに現実のものになっていた。
午前五時三十一分、第一迎撃管制所。最初の警報は、音ではなく画面の色で始まった。航空管制士のエルンスト・バウアー中尉は、東の空に現れた六つの輝点を数え、直後にその後方で膨らむ別の編隊を認識した。IFF信号は返らない。電子戦機らしい機影が高度を変えるたび、画面の一部ノイズに覆われた。
「第一区画、敵機多数。数は不明。繰り返す、数は不明。」
通信室では、夜勤明けの兵士が湯気の消えたコーヒーを持ったまま立ち尽くしていた。平時なら、管制所の報告には確認が三度必要だった。だがバウアーは、未確認のまま発進許可を求めた。返ってきたのは、ノルド大佐の短い声だった。
『こちら第一航空団。二機ずつ上げることを許可する。滑走路が生きている間に全機を散らさなけばならない。』
夜明けの滑走路を、二機一組の戦闘機が次々と轟音を残して走り去っていく。アフターバーナーの光が格納庫の壁を橙色に染める。発進した一番機の操縦士は、離陸直後に管制から敵影の方位を受けた。遠方で小さな火花が一つ瞬いた。味方の監視レーダーを狙った対レーダーミサイルだった。管制所の電源が一瞬落ち、予備系統が立ち上がるまで、すべての表示が暗闇に沈んだ。
「電源復旧。連絡用の回線は?」
「二本切れています。予備の一本だけです。」
バウアーは自分の指が震えていることに気づいた。報告の語尾を言い直し、航空隊へ必要な方位だけを伝えた。戦争は、勇壮な音楽も宣言もなく、一本ずつ消えていく通信回線として現れてきた。
午前六時十二分。王国空軍のユリウス・ハーゲン大尉は、格納庫の中にある機体へ走った。滑走路の端では整備員が最後の安全確認をしている。指揮官のエミリア・ノルド大佐が無線で言った。
『大尉、今回の任務は敵機を追いかけることではない。味方の上空を守り、必ず帰ってくることだ』
「了解」
ユリウスは短く答えた。若い彼には、これから始まる空戦への恐怖はなかった。胸の奥にあったのは恐怖より、ついに自分の技量を証明する日が来たという興奮だった。
愛機に乗り込み、点検を済ませるとエンジンの回転を上げる。滑走路の白線が後ろへ流れた。車輪が地面を離れたとき、朝日はまだ雲の向こうだった。
午前六時四十二分、北部高速道路。装甲車の車内は、乾いた金属と濡れた戦闘服の匂いがした。フレデリクセン少将の前衛連絡班は、道路脇の給油所を臨時の指揮点にしていた。北方の丘から発射されたロケット弾が、遠くの工場地帯に落ちる。衝撃が遅れて伝わり、天井の蛍光灯が揺れた。
「道路を閉じるのか」と市警の巡査が訊いた。
「軍用車のためではない。民間車を砲撃区域へ入れないためだ」
連絡将校は答えた。そこへ配達用の小型トラックが急停車し、運転手が飛び降りた。
「兵隊さん妻が向こうの病院にいるんです。通してください」
巡査は何も言えなかった。連絡将校は、運転手の必死の嘆願に黙って地図の余白に迂回路を書いた。安全を保証できない道だった。それでも、何も示さず追い返すよりはよかった。
ほどなく、空を裂く音がした。上空で巡航ミサイルが低い雲の切れ間から現れ、道路沿いの通信中継施設へ突き刺さった。爆発は白い閃光となってから、黒い煙へ変わった。道路の車が一斉に停止し、誰かがクラクションを鳴らし続けた。連絡将校は、動けなくなった巡査の肩を掴んだ。
「ここで立っていたら、次の一発で全員死ぬ。車を動かせ。」
彼自身も恐怖で膝が冷えていた。しかし、そのことを説明している暇はなかった。
午前七時、国境の町では新聞配達の自転車が路肩に倒れたままだった。配達員は避難所の入口で、まだ温かい新聞を握っていた。紙面には、昨夜の議会討論と春の花市の案内が載っている。誰もが昨日までは、今日も昨日の続きだと思っていた。
町役場の職員は、戸籍簿と住民台帳を箱に詰めていた。軍の連絡将校は「早く避難してください」と言ったが、職員は箱を手放さなかった。
「家を失った人が、どこに帰ればいいのか分からなくなるでしょう。」
将校は答えず、自らも箱を抱え自分の車へ運んだ。
街路の先で再び砲声が鳴った。彼らは頭を低くして走った。戦争は兵士だけの出来事ではない。生まれた日、結婚した日、亡くなった日を記した紙を、誰かが守ろうとする出来事でもあった。
同じ空の下で、陸軍の兵士は塹壕へ飛び込み、海軍の水兵は隔壁を閉め、病院の医師は手術台へ向かった。
誰も、四年半近く続く戦争の最初の朝だとは知らなかった。




