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許されない恋

(んっ……。ここは……?)

 体に伝わる感触から、アスファルトの地面ではないことに気がつくと、俺は重たい瞼をゆっくりと開けた。

(えっ……!)

 目を開けると、目の前には瞳を閉じた東谷の顔があり、俺の心臓は途端に跳ね上がった。

「あず……ッ」

 思わず東谷の名前が口から飛び出しそうになり、俺は慌てて口元を手で押さえた。

 おかげで東谷は俺の隣で、静かに寝息を立て続けていた。

(ね、寝てる……んだよな?)

 眼鏡が外されていてよく見えなかったため、俺は東谷へそっと顔を近づけて、寝ているか確認した。

(寝てる……しかもぐっすり……)

 規則正しい寝息のまま、東谷は俺が顔を近づけても目を開けることはなかった。

 長い睫毛に鼻筋の通った顔。

 ツヤのある唇。

(たしか三年前の最後に会った日も、こんな寝顔で寝ていたな……)

 ベッド脇のサイドテーブルに置かれた、スタンドライトの明かりに照らされる東谷の寝顔。

 その顔は時が止まっていたように、三年前となにも変わっていなかった。

(おっと……)

 俺は東谷の頬へ、無意識に伸ばしかけていた手を止める。

(何してんだよ、俺……。また同じ過ちを繰り返すつもりか?)

 そう自分に言い聞かせた俺は状況を確認するため、ベッドから静かに上体を起こすと、辺りを見回した。

(たしか、俺が道端で倒れかけたら急に東谷が現れて……。そうか、そのまま気を失ったのか。それで、東谷が運んでくれたってところか……)

 どうやらここは東谷の部屋ではなく、ビジネスホテルのようだった。

 セミダブルのベッドの他に机とテレビ、小型の冷蔵庫とスーツケースだけが、部屋に置かれていた。

(そうだよな。あの部屋はきっと解約したよな。それに、こっちにはプロジェクトのためで一時的な滞在なんだから、部屋は借りずにビジネスホテルで過ごすよな。そう、一時的に……。だから、プロジェクトが終われば……)

 自分であの日終わらせたはずなのに、また東谷に会えなくなってしまうと思うと、俺の胸は酷く締め付けられた。

 同時に涙が溢れそうになり、そんな自分に嫌気が差す。

(……勝手だな。大体、会いたいとか会いたくないとか、それ以前の問題だろ。俺にはそんなことを考える権利さえないんだから……)

 自分勝手な考えに胸の中で重たい溜め息をつくと、俺は外された眼鏡を探すため、もう一度辺りを見回す。

(あった)

 サイドテーブルに置かれていた眼鏡を見つけて手を伸ばすと、何かが枕の上にポタリと落ちた。

(冷却シート……? 俺、熱があったのか……)

 身体の異変は怠さくらいしか感じないが、どうやらここに連れて来られたときには熱があったようだ。

 東谷は俺のおでこに、わざわざ冷却シートを貼ってくれたらしい。

 それだけでなく、部屋に備え付けのナイトウェアにまで着替えさせてくれていた。

 しかも、ご丁寧に袖の余った部分は折り畳んであった。

(ほんと、なんていうか……)

 三年前と変わらない東谷の優しさで胸がいっぱいになり、思わず笑みが溢れてしまう。

 俺は剥がれ落ちた冷却シートを、おでこにそっと貼り直した。

(あっ……!)

 ふと思い出したように俺は不安に駆られ、慌てて首元に手を当てた。

(よかった。こっちは剝がれてない)

 番の噛み痕を隠すための絆創膏がそのままになっていることに、俺はそっと安堵した。

 だが、すぐに意味がないことを思い出し、静かに心の中で深い溜め息をついた。

(いや。もう何もかも東谷には知られているのに、いまさら噛み痕隠しても意味がないだろ……)

『それは……番のところに、ですか?』

(ずっと忘れて……いや、逃げていたのに……)

 俺の、嘘で固められた汚いところ。

 なにもかも全部、東谷に知られてしまった三年前のあの日から、俺はずっと逃げていた。

(なぁ、東谷……。お前はなんのために戻ってきたんだ? 仕事のため、なんだよな? 俺のことなんて忘れてたんだろ? あんなに傷つけたのに……どうして俺にこんな、優しくするんだ……?)

 答えの返ってこない質問を、俺は東谷の寝顔を見つめながら、そっと心の中で問いかけた。

 

 

 



(なんとか終わった……)

 将人のプレゼン資料を昼休み前までに完成させ、俺は急いで社内メールにデータ添付をして将人に送った。

(また、嫌味を言われるんだろうな……)

 やっと終わったものの、朝イチという期日を守らなかったことで、将人に責められるのは目に見えていた。

 俺は溜め息とともに、ノートパソコンを静かに閉じた。

(さすがにちょっと疲れたな。ほとんど寝てないし、休憩するか……)

 夜明け前、ぐっすりと眠っていた東谷を起こさないよう、俺はビジネスホテルの部屋を後にした。

 そして、始発で家に帰った俺は、着替えとシャワーを済ませると早々に出社した。

 出社したのは、もちろん将人のプレゼン資料作成のためだったが、朝イチと言われた締切に到底間に合うはずもなかった。

 そのため、昼までには送ると将人へ事前にメールをしたが、その後将人からの返信はなかった。

(怒ってる……としても、もう完成して送ったわけだし。今度会ったとき、嫌味を言われるくらいだろ)

 俺は気持ちを切り替えようと、静かに息を吐き出した。

(そういえば、東谷にちゃんとお礼言えなかったな……)

 眠っている東谷の枕元に、目を覚ました時に驚かないようにと、一応メモ書きだけは残してきた。

 だが、助けてもらった上に介抱までしてくれたことを、俺はもう一度メールでお礼を伝えようと思った。

「あっ……」

 しかし、机に置いていた仕事用のスマホを手に取ると、東谷の連絡先が入っていないことを思い出す。

(そっか。東谷が転勤になって、削除したんだった……)

 手に取ったスマホを机の上に伏せた状態で戻すと、凝り固まった体をほぐすため、俺は腕を前に伸ばした。

(結局、東谷との関係なんてこんなもんだってことなんだろうな……。って、違うだろ。なに連絡しようとしてんだ? 自分の立場考えろよ……)

 気持ちを切り替えて通常の仕事に取り掛かろうと、俺は机に置かれていった書類に手を伸ばす。

(うっ……)

 手を伸ばした先に積み重ねてあった書類には、よく見ると今日中の付箋が大量に貼られていた。

(これから通常作業に戻るとしても残業は決定だし……。とりあえずコーヒーでも買ってくるか……)

 俺は書類の山に手を伸ばすのをやめて、休憩室の自販機へ向かおうと立ち上がる。

 だが、少しばかり血の気が引く感覚を覚え、俺はもう一度椅子に座り直した。

(そういえば、昨日の昼からなにも食べてないや)

 また倒れても困ると、俺はデスクの引き出しを開けて中を探った。

(なんか胃に入れられるもの……なんてないか。お菓子とか栄養補助食品なんか食べないもんな……)

 小食で間食をする習慣もなかった俺の引き出しには、書類と文房具しか見当たらない。

 仕方なく引き出しを戻そうとするが、奥で何かが挟まってしまったようで、元に戻らなかった。

「なんだろ? なんか固い……」

 挟まっていたものを引っ張って取り除いてみると、それは昨日、慌てて放り込んだキーホルダーだった。

(これ……。東谷が初めて本社出張に行った時、俺におみやげだって買ってきてくれたんだよな……)

『こーれ。勇利先輩におみやげです』

『おみやげ……。おみやげでこういうものが売っているのか?』

『あれ? 勇利先輩はあまり旅行とかしない方ですか?』

『あっ、ああ……。修学旅行も行かなかったか……ら……』

『そうなんですね。じゃあ、俺がまた次の出張に行ったら買ってきますよ。それでいつか二人で、全部の都道府県分集めましょうね』

(あれからすぐ、東谷の本社転勤が決まったから、受け取れたのは一個だけだけど……)

 俺はキーホルダーを手に取り、自分の顔の前にぶら下げた。

(こんなもの……。未練がましくとってあるのがいけないんだ……)

「……ッ」

 ふと、急に思い立った俺は、急ぎ足でキーホルダーを握りしめたまま廊下に向かった。

 そして、廊下に置かれたゴミ箱の前に立つと、手をゴミ箱の上に伸ばした。

 握りしめた手を緩めれば、キーホルダーは簡単にゴミ箱に入る。

 それなのに俺は、手の力を緩めることができなかった。

『俺、いつか勇利先輩と出張……いや、旅行に行きたいなー。綺麗なとこ一緒に見て、うまいもの食べましょうね』

『ば、バーカ。何言ってんだよ。』

 あのとき、たとえ社交辞令だったとしても、初めて誰かにそんなことを言われた俺は、嬉しくてたまらなかった。

 いや、違う。

 東谷に言ってもらえたから嬉しかったんだ。

 おみやげも、東谷が俺のために買って来てくれたから嬉しかったんだ。

 かけがえのない東谷との思い出をやっぱり捨てられないと、俺はキーホルダーを握りしめたまま振り向く。

 すると目の前に、不機嫌そうな顔をした将人がいつのまにか立っていた。

「将人……」


「こんなとこで油売ってんなら、暇だよな? ちょっとついてこいよ」

 眉を顰めて明らかに不機嫌である将人に、キーホルダーを握りしめた手を掴まれてしまう。

「将人、ここ会社だぞ。場所を考えろよ」

 俺は小声で抗議しながら、誰かに見られていないか辺りを見回すが、運良く廊下には誰もいなかった。

 将人とは同期入社であったが、俺が将人の仕事を手伝っていることを疑われないよう、会社で極力接しないようにしていた。

 にも関わらず、社内で将人が俺のところに来るなんて、相当頭に血が昇っているとしか思えなかった。

(この状態の将人を刺激するのはまずい)

 俺は将人の機嫌を逆撫でして、昨日のようなことを言い出されるのが怖くなる。

 本当は掴まれた腕を今すぐ振り解きたかったが、将人の手を優しく包むように掴んで、ゆっくりと俺の腕から離れさせた。

「ごめん、仕事が溜まってんだ。もう戻らないと……」

 恐怖は決して表に出さないよう、俺は感情を隠しながら冷静に伝えた。

「なんだよ。俺のせいだって言いたいのか?」

「そういうわけじゃないよ……」

「そうだよなー。お前が朝には終わらせるって言ったから、俺は待ってやったのにさー。お前が時間守んねーで、サボったのがいけねーんだよなー?」

「それは……」

 サボったと責められ、本当はアフターピルの副作用のせいで調子が悪くなったからだと言い返したかった。

 だが、言い返したところで何も生まれないと思い、俺は言葉を飲み込んだ。

「だいたい、昨日はお前が調子悪いって言うから、俺は気を遣って早く帰してやったよな?」

(帰してやった? やることやって、置いていっただけだろ)

「……。そうだね……」

「なんだよ? プレゼンの準備遅らせて、俺への嫌がらせにするつもりだったのか?」

「だから、そういうわけじゃ……」

 このままでは埒が明かない上に、誰かに見られてしまうかもしれない。

 そう思った俺は、仕方なく廊下を見回して、空いている会議室がないか探した。

 だが目に飛び込んできたのは、一緒にいるところを俺が一番見られたくない相手だった。

「あっ! いたいた、勇利先輩。お昼これからですか?」

「あ、東谷っ……」

 コンビニのビニール袋を片手に持った東谷が、俺を見つけて手を振ると、嬉しそうに笑顔で駆け寄ってきた。

(まずい、見られた……)

 そんな東谷の笑顔とは裏腹に、番である将人といるところを見られてしまった俺は焦り、将人から一歩離れ俯いてしまう。

(落ち着け……。将人が俺の番だってこと、東谷が知っているはずがないんだから)

 そう自分に言い聞かせ、俺は速まる心臓の音を必死に落ち着かせた。

「あれ? 玉木さんもご一緒だったんですね」

 東谷は俺と将人が一緒にいることを、とくに不思議がる様子もなく笑顔を浮かべたままだった。

「おー、東谷じゃん。久しぶりだなー。あれ? たしか来週から出社じゃなかったっけ?」

「それ、昨日も勇利先輩に言われましたよ。みんな僕に会いたくないんですかねー」

「そんなわけねーだろ。営業部元エース様の凱旋なんだから。そういや昨日、コイツから会ったって聞いてたわ」

「へぇー……。僕と会ったことをですか?」

「そーそー」

「昨日……。そう、だったんですね……玉木さんが……」

 東谷は何か言いたそうに、俺と将人の顔を見比べた。

 俺には一瞬、真剣な表情を東谷がしたように見えたが、すぐにまた笑みを浮かべていた。

「お二人はお知り合いだったんですね。僕がこっちにいた時には、一緒にいらっしゃるイメージがなかったので、ちょっと驚きました」

「ど、同期なんだ! あ、あと、実は高校から大学まで一緒で……」

 嘘をついているわけでもないのに、番だと隠している後ろめたい気持ちから、俺は話し方が辿々しくなってしまう。

「そうだったんですね。あ、そういえば……」

 思い出したように何かを言いかけた東谷は、急に俺の耳元に顔を近づけてきた。

「酷いですよ。せっかくあの部屋で二人泊まれるよう手配したのに、何も言わずに帰っちゃうんですから」

「……! し、知らない。そんなの勝手にしたのはお前だろ!」

 東谷の揶揄う態度に狼狽えながら、俺は東谷から一歩後ずさった。

「なんだよ。俺がいるのに内緒話か?」

「いえ。久々に勇利先輩をランチに誘ったんですが、どうやら振られてしまいました」

「なんだ、昼飯まだなら俺を誘えよ。コイツと飯食ったって時間の無駄だぞ」

 将人に肩へ手を回され、指を差されながら笑われると、俺は思わず眉を顰めてしまう。

 だが、すぐに俺は作り笑いを浮かべた。

「ははっ……」

 人前で将人に蔑まされることは学生時代から慣れていたが、東谷の前でされたのは初めてだった。

 俺は恥ずかしさと情けない気持ちでいっぱいになり、顔を上げることさえできずに、乾いた笑いしか出てこなかった。

「昼は交流の大事な時間だって先輩に習わなかったのか? あっ、東谷の教育係はコイツだったけ? じゃあ仕方ないかー」

 将人は笑いながら、胸ポケットからスマホを取り出した。

「俺なら今からでも、お前のプロジェクトに参加できそうな優秀な奴を何人か集められるぞ。きっと、プロジェクトの役に……」

「謹んでお断りします」

(えっ……)

 はっきりと言い切った東谷の言葉。

 俺は驚いて俯いていた顔を上げるのと同時に、東谷に腕を強く引っ張られて、将人から離された。

 将人から引き剥がされるように引っ張られた腕から、痛いと感じるほど、東谷の手に力が込められているのを感じた。

(なんで……)

 突然の東谷の行動に、俺は理解が追いつかなかった。

 だが、引き寄せられて見上げた東谷の顔は真剣で、将人に向けるその目の奥には怒りを感じとれた。

(俺のために怒ってくれてる……?)

 そんなの勘違いだ。

 俺の思い上がりだ。

 言い聞かせるようにそう思うが、胸に湧き立つものを感じた俺は、東谷の真剣な顔を見つめ続けてしまう。

(俺のため……)

 しかし、将人がいることを思い出した俺は慌てて首を横に振ると、顔を背けるように俯いた。

「おいおい。冗談だって東谷も分かるだろ? そんな怒るなって。だいたい、コイツがこんなことで『俺に』怒るはずないんだからさー。なぁー?」

「……」

 将人はわざと『俺に』の部分を強調し、俺は下唇を噛み締めた。

 それはまるで、逆らうことなんて決して許されない関係だと分からせるために、俺へ言っているようだった。

(そうだって言わなきゃ……)

 いつものように、今までのように、将人の求める言葉を言うのは簡単だった。

 だが、相槌の言葉は喉に詰まっているかのように出てこない。

(言わなきゃ……。もし将人の機嫌を損ねたら……。そうなったら……)

 頭の中で真っ先に浮かんだのは、オメガだとバラされることよりも、東谷の立場が危ぶまれることだった。

(嫌だ……)

 そう思った俺は、意を決して手に力を込めた。

「お、俺……」

 言葉を続けようしたとき、まるで制止するかのように、掴まれていた腕が軽く引かれた。

(東谷……?)

「そんな冗談が言えるほど仲が良かったなんて知らなかったので、少し焼いちゃいましたよ」

 東谷は掴んでいた俺の腕から手をゆっくりと離すと、満面の笑みを浮かべて、将人から俺を背に隠すよう一歩前へ出た。

「けど、これから僕のパートナーになる人なんで、モラハラまがいのことはご遠慮いただきたいですね」

「はっ? パートナー?」

「えっ……」

(な、何言って……)

 突拍子もない東谷の発言に、俺も将人と同じくらい驚いてしまう。

「勇利先輩には今回のプロジェクトで、僕のサポートに入ってもらう予定なので」

「はっ? ソイツに? それ正気なのか?」

 将人の表情は俺の前に立つ東谷で見えなかったが、声色から信じられないと言った様子を感じ取れた。

「正気もなにも、勇利先輩はこの支社内でもっとも適正な人材だと思っています。では、僕たちはこの後大事な打ち合わせがあるので、これで失礼します」

 東谷は将人に軽く会釈をすると、急に振り向いて俺の手を掴んだ。

「行きましょう。勇利先輩」

「えっ? あ、東谷? ちょっと……!」

 強く掴まれた手が引っ張られ、俺は頭が混乱した状態で、東谷にただ付いていくしかなかった。

 

 

 

「あ、東谷っ!」

 東谷の耳に俺の声は届いているはずなのに、東谷は振り返ることなく俺の手を引いたまま、足早に先を歩くだけだった。

 そんな俺たちと廊下ですれ違う同僚が何人かいたが、誰も話しかけたり止めたりせず、東谷の顔を見てサッと目を逸らしていた。

 後ろを歩く俺から東谷の顔は見えなかったが、握り締められた手に込められる力から、東谷が怒っているのは明らかだった。

(俺、どうしたら……。それにさっきのって……)

『勇利先輩には今回のプロジェクトで、僕のサポートに入ってもらう予定なので』

(もしかして、東谷が目標だって言っていたことが……)

『いつか勇利先輩とデカい仕事やりたいなって』

(嘘だろ……。まさか、そのために戻ってきたっていうのか? 俺と仕事するために……?)

 正直、東谷が目標だと俺に話していたことを、覚えていてくれたのは嬉しかった。

 だが、俺がプロジェクトに加わっても、優秀な東谷の仕事を手伝えるだなんて到底思えない。

 何と言っても、周りが認めるはずなかった。

(将人だけじゃない。正気かってみんながそう思う。そうだよ、俺なんかができるわけ……。東谷に迷惑をかけるだけだ)

 そう思うなら、さっさと無理だと東谷に言えばいいものの、俺は黙って手を引かれ、東谷の後ろを付いていってしまっている。

(俺はずるい……。また、東谷に甘えてばかりだ。本当に諦めたいなら自分から突き放せばいいのに、それもできない。結局今もこうやって、東谷の手を振り解けないで……)

 握りしめられたままの手を俺はじっと見つめていると、急に東谷は足を止めた。

 足を止めた場所は会議室で、東谷は入口前に空室と書かれたプレートを会議中にひっくり返すと、ドアを開けた。

「……」

 何も言わない東谷に手を引かれながら会議室の中に入ると、ドアの閉まった音が静かに響いても、東谷は俺に背を向けて黙ったままだった。

 そんな東谷の姿に、俺はなんだか目の前にいるのが、俺の知っている東谷じゃない気がして急に怖くなった。

「東谷……」

 まるで東谷の存在を確かめるように東谷の名前を口にするが、返事はなかった。

 しばらくすると、急に天を仰ぐように上を向いた東谷は、息をゆっくりと吐き出すと、俺に向かって振り向いた。

 振り向いたその顔は、俺の知っている、三年前にずっと見ていた東谷の顔だった。

「すみません。感情を抑えられるほど、俺はまだ大人じゃなかったみたいです。勇利先輩に格好悪いところを見せてしまいました」

 コンビニのロゴが入ったビニール袋を持った手で首の後ろを掻き、少し照れたように笑う東谷へ、俺は必死に首を横に振った。

「格好悪くなんかない!」

 思わず大きな声が出してしまうと、東谷は首の後ろを掻く手を止めて驚いた顔をした。

「勇利先輩……?」

「格好悪いわけないだろ。だって俺の代わりに怒ってくれて……。俺の……」

 言いかけたのは、東谷に握られたままの手に力が込められたからだった。

 そこで俺は、手が握られたままだった事にやっと気が付いた。

「あっ……。東谷……手が……」

「手が……なんですか?」

「えっ……」

 まさか質問で返されると思いなかった俺は、なんと返事をしていいか分からず困惑してしまう。

「勇利先輩はこの手を……本当に離して欲しいんですか? 離していいんですか?」

(そんなこと……)

 本当はずっと握っていて欲しかったが、そんなこと東谷に言えるはずもなく、俺はそっと頷いた。

「……。そう、ですか……」

 握られていた手は、静かに離された。

「……」

 俺は重なり合っていた部分に熱が残っていることを感じると、東谷の体温が自分に残されたように思え、手をじっと見つめてしまう。

 だが、すぐに手の平の温度は下がっていってしまい、淋しさを覚えてしまった。

「やっぱり、離して欲しくなかったですか?」

「なっ……!」

 言い当てられ、俺は顔に出ていたのかと恥ずかしくなり、動揺して顔が赤くなるのを感じた。

 頬に熱がある感覚から、慌てて手の甲で東谷から顔を隠そうとしたとき、握りしめたままだったキーホルダーを手から零れ落としてしまった。

「あっ……」

 キーホルダーは手でキャッチすることができないまま、絨毯の敷かれた床にポタリと落ちた。

 俺は慌てて膝をついてしゃがみ、もう遅いと分かっていながらも、手の平でキーホルダーを必死に覆い隠した。

(机の奥で今日偶然見つけて……。いやいや、持ち歩いていた理由には……。でも、な、何か言わないと……)

 頭の中で、東谷にもらったキーホルダーを持っていた言い訳を必死に考える。

 だが、何も思い浮かばなかった俺は、とりあえず俯いていた顔を上げた。

「東谷、俺……」

 顔を上げた瞬間、重いものが床に落ちた音が急に響くと、何かに視界が遮られた。

 その音は、東谷の持っていたビニール袋から、お茶のペットボトルが床に転がり落ちた音だった。

 そして、視界を遮ったのは東谷の顔だと気付いた時には、まるで噛みつくように東谷の唇が重ねられていた。

(なんで……)

 俺の頭の中は、キーホルダーを持ち歩いていた言い訳を考えていたはずが、いつのまにか、東谷にキスをされている理由を考えている。

 そんなことを考えていたのは一秒、いやもっと短かったかもしれないが、頭の中は不思議と冷静だった。

 それはずっと何度も、もう一度こうされたいと考えていたからかもしれない。

 少し離されたと思うと、すぐに角度を変えてまた重ねられる唇。

 なんて幸せなんだろう。

 唇が重なっただけなのに、それだけで心が満たされ、胸がいっぱいになり、涙がこみ上げそうになる。

(離れないと……そうじゃないと……)

 このままでは胸の奥から沸き立つ気持ちに流されてしまいそうで、もしそうなったら、今度こそ後戻りする自信なんて俺にはなかった。

 そう思った俺は軽く東谷の肩を押すが、東谷の身体はびくともしない。

 今度はもっと強い力で押してみるが、その手は東谷に掴まれて、指先を絡めとられてしまった。

 手を握られていた時とは違い、指と指の間に東谷の長い指が挟まれる。

 それはまるで、ベッドへと押し付けられた感覚に似ていて、俺は腰に甘い疼きを感じてしまう。

 次第にゆっくりと唇が離され、東谷が俺の顔を確かめるように真っ直ぐ見つめたかと思うと、すぐに抱きしめられてしまった。

(ああ……。俺、今……東谷の腕の中にいる……)

 少し痛いと感じるほど強く抱きしめられると、まるで自分が東谷にとって、愛おしいものであるかのように錯覚しそうだ。

 離れていったはずなのに、重ねられていた唇と指先には、いつまでも東谷の感触が残っている。

 ずっと胸の奥底に仕舞いこんでいた感覚が呼び起こされるのと同時に、東谷への気持ちをもう一度認識させられた。

(好きだ……。好きなんだ……)

 忘れたフリをしていただけで、前と何も変わってなんかいない。

 むしろ、東谷からも同じ気持ちを求めてしまっている。

 東谷の背中に腕を回して俺も抱きしめたら、同じ力で返してくれるか試そうとしている。

 こんなことは許されない。

 言葉にすれば結果は分かってる。

 だからこそ、俺がその言葉を東谷に向かって口にすることは、決して許されない。

(素直に気持ちを伝えられたら……)

 俺の未来は明るく変わるかもしれない。

(けど、東谷は……)

 俺なんかが隣にいるより、もっと素晴らしい未来が待っているはずだ。

(こんなキズモノの俺が、東谷の手をとることなんて許されないんだ。そんなこと、三年前に気付いていたはずだろ)

 俺は東谷の腕の中で、必死に首を横に振った。

「東谷、ダメだ。離してくれ……」

「いやです」

 きっぱりと言い切られてしまい、俺はもっと強く首を横に振る。

「頼むから……。俺は……」

「玉木さんのものだから……ですか?」

(えっ……どうして将人の名前が……)

 そう思ったのと同時に、俺の番が将人だと東谷にバレていると気づき、俺は東谷の腕の中で激しく抵抗した。

「は、離してくれっ……!」

「離しません! ちゃんと話してくれるまで!」

 東谷は俺を抱きしめる腕へ、さらに力を込めてきた。

「勇利先輩の本当の気持ちを教えてください。三年前の俺は、勇利先輩を追いかける勇気……いえ、番さんから勇利先輩を奪う勇気がなかったんです。勇利先輩が番さんを選ぶなら仕方がないって、一旦は諦めました……」

 俺を抱きしめていた腕の力を、東谷は少しだけ緩めると、俺を真っ直ぐ見つめてきた。

 その目は今まで見たどんな目よりも、真剣だった。

「でも今日……。あの人の……玉木さんの勇利先輩に対する態度を見て、俺はどうしてもあなたの隣があの人だなんて許せなくなりました。俺、やっぱり勇利先輩のことが諦めきれないんです」

「東谷……」

「俺なら勇利先輩を幸せにします。悲しませたりしません。必ず大事にします。だから……」

「何言って……」

「好きです、勇利先輩。あの時から、今でもずっと……」

(好き……? えっ……?)

 まるで吸い込まれるように、東谷の瞳がどんどん近づいてくる。

 俺はハッとして、突き飛ばすように東谷の胸元を強く押し、東谷から身体を離した。

「やめてくれっ……!」

「勇利……先輩……」

「やめてくれ……無理だ……。俺はオメガで番がいるんだ。番は一生消えない。アルファのお前なら、これがどういう意味か分かるだろ?」

「分かりません! オメガだとか番がいるとか、そんなこと関係ないです。重要なのは勇利先輩の気持ちですよね?」

「関係ないはずないだろ! だって……」

 俺は言葉に詰まってしまい、右手で自分の胸元を強く押さえた。

 オメガだから。

 噛み痕があるから。

 番がいるから。

 今まで東谷に対しての気持ちにちゃんと向き合おうとしなかった理由が、東谷に全て関係ないと言われてしまった。

(俺はどうしたら……)

 本当は東谷と番になりたかった。

 噛み痕なんてない、綺麗なままで東谷に抱かれたかった。

 そもそも、オメガにさえ生まれてこなければ、こんなことで悩まずに済んだのに。

(普通に東谷と出会って、それで……)

 そんなこと考えても無駄だって分かっていたから、あの日最後だと思って東谷に抱いてもらったんだ。

 一生忘れない思い出にするって決めたじゃないか。

「もう一度聞きます。勇利先輩はどうしたいんですか?」

「俺は……」

「お願いです。少しでも俺に可能性があるなら、この手をとってください」

 東谷は手の平を上にした状態で、右手をそっと俺に差し出してきた。

(この手をとれば俺は……)

 胸元を押さえていた手の力を緩め、俺は無意識に東谷の右手に手を伸ばしかける。

 だがその時、昨日の将人の言葉が思い出された。

『俺がアイツより劣ってるって言いてーのか? 俺ならアイツを左遷にもクビにすることもできるのにか?』

(もし、この手を取ったことを将人に知られたら……)

 プライドを傷つけられたと、怒りのままに重役である父親へ頼んで、本当に東谷を左遷やクビにしてしまうかもしれない。

(そんなことになったら、俺は……)

 東谷のこれからの未来を、俺みたいなキズモノが壊すなんて絶対に許されない。

 俺は決心して、東谷へ伸ばしかけていた手に力を込めた。

(ごめん、東谷……)

 これから三年前のようにもう一度、東谷を傷つけることに、俺はどうしようもなく胸が締め付けられた。

 許されるはずもない恋をして、思わせぶりな態度をとって。

 こんな風に東谷から手を差し出させるように、仕向けた俺がいけないんだと自分に言い聞かせた。

(俺が……俺が終わりにしなくちゃ……)

 俺は東谷から差し出された手を跳ね除けるように、手の甲で勢いよく叩いた。

「勇利先輩……」

 叩かれた手を見つめ、驚いた表情していた東谷がすぐに眉を下げ、淋しそうな目で俺を見つめてきた。

(そんな目で俺を見ないでくれ……)

 決意が鈍りそうになる自分を、俺は奮い立たせるように東谷を睨みつけた。

「いいかげんにしろ。アルファのくせに、一回寝たくらいで勘違いするな。はっきり言って迷惑だ。俺の番は将人……玉木将人だ」

「……。体調があんなに悪そうな勇利先輩を一人にして、蔑むようなことを言う人を番として愛しているとでも、勇利先輩はおっしゃるんですか?」

(やっぱり、昨日のは偶然じゃなかったのか……)

 俺は呆れたようにわざと大きめな溜め息をつくと、会議室内に置かれた長机へ手を着いて、身体を寄り掛からせた。

「なんだ。昨日、俺のことずっとつけてたのか? でも、ホテルに入るときも出るときも、俺一人だったはずだけど? どうして番が将人だってわかったんだ?」

「……。たしかに玉木さんの姿は見ていなかったんですが……。さっき、俺と会ったことを『昨日』話したと言っていたので……」

『そういや昨日、コイツから会ったって聞いてたわ』

『へぇー……。僕と会ったことをですか?』

『そーそー』

(たったあれだけの会話で、将人が俺の番だと気付いたのか……。やっぱり頭が切れるヤツは違うな……)

 俺は軽く天井を仰ぎ、もう一度溜め息をついた。

(将人を愛してるなんて嘘、東谷は信じないだろう……。それなら……)

 ネクタイの結び目を指先で緩め、俺は自分のワイシャツのボタンを三つほど外した。

「じゃあ、俺と将人が何してたかなんて、もう子どもじゃないんだから分かるよな?」

 首の後ろに手を伸ばし、いつも噛み痕を隠すために貼っている大判の絆創膏をゆっくりと剥がすと、俺は東谷に背中を向けた。

「これ、なんだか分かるよな?」

 後ろ髪を掻き上げ、反対の手でワイシャツとアンダーシャツの襟元を引っ張ると、俺は東谷に首元の噛み痕を見せつけた。

 発情を引き起こすために、今まで数えきれないほど将人に噛まれた俺の首元。

 そこは無理やり付けられた最初の噛み痕以外にも、幾重にも噛み痕が赤く残っている。

「それは……」

「全部、将人につけられたものだ。昨日のなんて、歯形がはっきりと残ってるだろ?」

 俺は生々しい噛み痕を、鼻で笑いながら形をなぞるように指先で撫でてみせた。

「さっき、お前は俺に将人を愛してるかってきいたな。答えは簡単だ。ノーだよ」

「えっ……?」

 慣れた手つきで絆創膏を貼り直し、服を整えながら振り向いた俺は、東谷をじっと見つめた。

 見つめた先の東谷はあからさまに、納得していないといった表情を浮かべていた。

「なんだよ、番は必ず愛し合ってないといけないのかよ?」

「いえ、そういうわけじゃ……ッ!」

 俺は東谷のネクタイを引っ張り、無理やり東谷の顔を俺に近づけさせた。

「俺と将人に恋愛感情はない。お互いの利益が一致する、ただそれだけだ。それとも、アルファとオメガの番なんて、主従関係しかないって思ってたか?」

「いえ、そんなことは……。でも、それなら……!」

「なんで手を取ってくれないんだって言いたそうだな。それも簡単だ。俺に利益がないからだよ」

 東谷のネクタイを掴む手を緩め、俺はまるで飽きて捨てるように、東谷のネクタイから手を離した。

「利益が……ない……」

「そうだよ。三年前、何かが変わるかと期待してお前に抱いて欲しいと頼んだ。けど、何も変わらなかった。あのときも言ったよな? 足開いてても虚しいだけだったって」

 顔を逸らし、俺は呆れたように深い溜め息をついた。

「……! それは……。でも、あのときは番さんを愛しているからだって、おっしゃってましたよね? なんでそんな嘘、俺についたんですか?」

 東谷は両手で必死に俺の肩を掴むが、俺は顔を逸らしたままゆっくりと首を横に振った。

「どうでもいいだろ。そんなこと」

「どうでもよくありません! だって……」

 掴まれた肩を掴む手に力が込められるが、俺はもう一度首を横に振った。

「さっき見せただろ、番の噛み痕……。俺は高校の時、従兄弟である将人に無理やり噛まれて番になったんだ。俺と母さんを捨てた父親に、金と引き換えにな。将人に番を作って、ラット化を起こさないようにってさ」

「……! ま、待ってください。なんですか、それ……。そんなこと許されるわけ……」

「もちろん許されることじゃない。でも、俺も共犯なんだ」

「何が共犯なんですか! だって、勇利先輩は無理やり……」

「確かに最初は無理やりだった。でも、そのあとも抱かれ続けているのは俺の意思だ。俺が選んだ道だ。誰にもとやかく言われる筋合いはない」

「どうしてですか? どうして、そんなっ!」

 必死に俺の肩を掴んで揺らす東谷の目の奥から、俺に対する憐みの色を感じ取ると、俺は静かに俯いた。

(そんな目で見られたくなかった……。だから……知られたくなかった)

 俺は目を閉じて、そっと息を吸い込んだ。

(さようなら、東谷。どうか……今度こそ俺のこと、ちゃんと嫌いになってくれよ……)

「将人を抑制剤代わりにしてるからだよ。俺がオメガだと隠して生きていくために」



「もう分かってるよな? 俺がこの会社で第二次性をアルファだって偽っているのを。俺は国にもオメガだと申請していないんだ。オメガだとバレたらこの会社で……いや、他の会社でも、まともに働くことさえ許されないからな」

「そんなこと……。勇利先輩ほど優秀なら、ちゃんと申請すれば……」

「正直にオメガだと申請すれば発情期休暇がもらえるって? そんな建前の福利厚生に今まで申請した奴がいたか? そもそもオメガだって公言してるやつ、派遣でも採用したことないだろ」

「それは……」

 アルファばかりがこぞって集まるこの会社に、オメガは必要ない。

 たとえ東谷がそう思っていなくても、会社や社会にとって、オメガは必要ないのだから。

「でも、勇利先輩ほど優秀なら……」

 必死にフォローしようとする東谷に、俺は深い溜め息をついた。

「期待してもらっているところ悪いんだが、俺は将人のコネを使って入社したんだ。将人の親父が、ここの重役なんだよ」

「えっ……」

「残念だったな。優秀な先輩じゃなくて。でも、だから俺がここで働き続けるためには、アルファだと偽り続けなければいけないんだ。抑制剤を飲まずに発情期を抑えるには、番の将人に噛まれて性欲を発散しないといけない。そうやって今までやってきたんだ」

「そんな……」

 想像もしていなかったことを聞かされたからなのか、東谷は声を震わせていた。

 そんな東谷に、俺は呆れるように鼻で笑った。

「ふっ……。優秀なアルファである東谷には、理解できないよな? でも、そうでもしないと、オメガの俺は普通に暮らせないんだよ。だから番じゃないお前は、俺の役には立てない。必要……ないんだよ」

「必要……ない……」

 東谷は俺の言葉に、酷くショックを受けた様子を一瞬見せた。

 だが、すぐに何かを求めるように、俺の肩を掴む手に力を込めると、俺の目を真っ直ぐ見つめてきた。

 俺にはその目が、全部嘘だと言って欲しいと訴えかけているように思えた。

(嘘だと言って欲しいよな。でも、ごめんな……。これは全部本当なんだ。お前が憧れてくれた先輩はこんなにも……いや、もっと汚いんだよ……)

 無理やり番にされたにも関わらず、その相手に縋ってまでオメガだということをひた隠す。

 コネ入社なのに東谷の先輩面して、将人から抱かれ続けた身体で東谷に抱いてもらって。

 そのうえ、こんな俺のことを好きだと言ってくれているのに、傷つけているなんて。

(ごめんな……)

 謝って許されることではないと理解しつつ、俺は心の中で東谷に謝ると、後ろめたさを必死で覆い隠すように笑みを浮かべた。

 すると、俺の表情から何かを感じ取ったのか、東谷は俺の肩から手を離すと、片手で自分の顔を覆い隠した。

「そうだったんですね……。必要ない……。そうですか……。俺では勇利先輩の役に立てないし、むしろ俺の存在は邪魔ってことなんですね……」

(違う……本当は……)

 俺の胸は潰れそうなほど締め付けられ、本当の気持ちを伝えたくなる。

 だが、伝えたところで意味がないと必死に自分へと言い聞かせて抑えつけた。

 そして、ひた隠すように、嘘の安堵の笑みをまた東谷に浮かべて見せた。

「あっ、ああ。そうだよ……。やっと、わかってくれたか」

「そう……ですか……」

 そう静かに呟き、今度は口元を隠す東谷の手の指先が、微かに震えていることに気が付いた。

(ごめん、ごめんな……。東谷は何も悪くないのに、こんなに苦しめて傷つけて……。そんなことをしていい資格なんて、俺にないのに……)

 東谷には負の感情など、一切何も感じて欲しくない。

 本当なら傷つけたくなんかない。

 ただ俺を嫌いになって、軽蔑して欲しいだけなのに。

 俺を好きだなんて一瞬でも思ったことをバカらしいって、笑ってそう思って欲しいから。

(そうだ……)

 俺は慌てて思いついたことを口にする。

「ま、まあ。セフレくらいなら、なってやってもいいけど? 将人には内緒だけどな」

「勇利先輩……」

「俺、将人から金も貰ってるんだ。お前も俺としたいなら、い、今すぐここで将人みたいにしてやるよ。跪いてお前のものを……。だから、お前もちゃんと金払ってくれよな」

 俺はわざと将人の名前と金という言葉を何度も口に出しながら手を伸ばし、東谷のベルトに手を掛けた。

 こんなことをする相手に、東谷ならどうするか分かりきっていながら。

「……。すみません。もう、分かりましたから……。もう……」

 ベルトに掛けていた手を、そっと東谷に包まれるように掴まれると、ゆっくりと外された。

(ほら、やっぱりな。東谷は正しいからきっとこうする。分かってた、分かってたよ……)

 分かっていながら、こんな試すようなことをする自分自身に心底呆れる。

 汚い下等生物を蔑む目で、俺の手を叩いて欲しい。

 そう思っていながらも、そんなことはしないと、どこかで東谷の優しさに甘える自分がいる。

(どこまで最低なんだ俺は……。それなのに……)

 沈痛な面持ちで見つめてくる東谷に耐えきれず、俺は思わず俯いてしまった。

(お願いだから、そんな目で俺を見ないでくれ……。頼むから……。俺には……。俺には……)

 俯いた視線の先に、床へ落としたままになっていたキーホルダーを見つける。

(ああ……。もう、これを持っている資格も俺にはないか……)

 俺は前屈みになり、足元に落ちたままのキーホルダーを指先で摘み取ると、東谷に差し出した。

「これ、返すな。今日机の中で偶然見つけて、邪魔だから捨てようとしてたんだ」

「捨てようと……。そう……だったんですね……」

 差し出されたキーホルダーを手の平で受け取ると、東谷はまるで悔しそうに強く握りしめ、顔を逸らして俯いた。

(ごめんな、東谷……)

 何度も心の中で謝るが、東谷の辛そうな姿をもうこれ以上見ていられず、俺は踵を返す。

「じゃあ、俺はそろそろ戻るわ。そうそう、俺をプロジェクトのパートナーになんていうのも、なかったことにしてくれよ」

「ま、待ってください。それは無理です!」

 ドアに向かって俺は足早に歩き出すが、東谷に腕を掴まれて足を止めてしまった。

「は? 俺じゃなくても別にいいだろ?」

 顔を見ることができないまま、掴まれた腕を振り払おうとするが、東谷は決して離してくれなかった。

「いいえ。今の俺には説得力ないかもしれませんが、勇利先輩にお願いするのは、今回のプロジェクトに勇利先輩のお力が必要だからです」

「俺にそんな力量あるはずないだろ。さっきも言っただろ。ここへはコネで入社したって」

「例えそうだったとしても、俺には必要なんです。勇利先輩、玉木さんの仕事……手伝ってますよね?」

 東谷に打ち明けていないことを言い当てられ、意表を突かれた俺は思わず振り向いて狼狽えてしまう。

「えっ……」

「やっぱり……そうだったんですね」

 俺の表情を見て東谷は察したように表情を曇らせたため、俺は慌てて首を横に振って否定した。

「そんなことしてない。だいたい、何をもって……」

「……。昨日、勇利先輩のパソコン画面が一瞬見えたんです。あれ、今回のプロジェクトに向けたプレゼン資料ですよね? 勇利先輩はエントリーさえしてない資料を、どうして作っていたんですか?」

「それは……」

 言い逃れができず、俺は言葉に詰まってしまう。

 すると、東谷は掴んでいた俺の腕から手を離すと、真っ直ぐ俺を見つめた。

「別にいいんですよ。玉木さんが成果を出されているのは、勇利先輩が手伝いをしているからだってバラしても……。または、本人へ直接聞きに行くか……」

「……。俺を脅すのか?」

「今回の仕事を成功させるには、勇利先輩の力がどうしても必要なんだって理解して欲しいだけです。それに俺……。いえ、僕はずっと、新人研修の頃から勇利先輩と大きな仕事をするのが夢でした。だからお願いします」

 東谷は俺に向かって深々と頭を下げた。

(僕……か)

 二人っきりの時は一人称が『俺』だった東谷が『僕』と言い直したことで、東谷が俺に一線を引いたのだと悟った。

(ああ、終わったんだ……)

 自分からしておいて、ショックを受けるなんてお門違いも甚だしいのは分かっている。

 だけど、心にぽっかりと穴が開いたような淋しさは、東谷のことが本当に好きだったんだと実感させられた。

(何も始まっていなかったけど、せめて最後くらいは……)

「……分かったよ。今回のプロジェクトが終われば……。きっと、お前と会うのは、本当に最後だろうからな……」

(そう、今度こそ本当に最後にするから……)

 俺は一つの決心をして、東谷と最後の仕事をすることにした。

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