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四年前

 四年前の春、二十五歳になったばかりの俺は、新卒で入社してきた東谷の教育係を任された。

 それが東谷との、最初の出会いだった。

「東谷晧です。至らない点多々あると存じますが、先輩のお力になれるよう精進して参りますので! 先輩、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!」

「あ、ああ……よろしく……」

「じゃあ勇利くん。後は頼みましたよ。何度も言いますが、くれぐれもよろしく頼みますよ」

「あ、はい……」

 営業課全体朝礼での挨拶を終え、課長が東谷を俺のところに連れてきた。

 俺は正直、どう接したらいいかわからなかった。

 取り繕うための上面な笑顔ではなく、心からの満面な笑みを浮かべる東谷。

 俺に対して期待が込められているのが、嫌なほど伝わってくる。

(勘弁してくれよ……。俺、お前ほど優秀じゃないんだけど……)

 営業課所属でありながら、俺はいつも最低ノルマをこなすだけ。

 基本的には後方事務を中心に任されていた。

 なので、そんな営業成績もパッとしない俺に、なぜ今年から新人の教育係を任せてきたのか。

 俺には全く、意味がわからなかった。

(しかも期待の大型新人って……。本当は本社行きが決まっていたのに、入社辞退を恐れて本人希望の支社勤務にしたなんて、聞いたことないぞ。一体どんだけ優秀なんだよ)

 課長からそっと教えられた、目の前にいる東谷晧の入社裏事情を聞いていた俺は、不安しかなかった。

(だいたい、俺なんかについたら東谷の未来が……)

 何度もそう思って、俺は課長に教育担当変更を訴え続けた。

 だが、すでに決定事項だと変更は許されなかった。

(はぁー……)

 東谷の期待が込められた満面な笑みは、俺を居たたまれない気持ちにさせてくる。

(仕方ない……。いっそのこと、はっきり言っておこう)

 俺は顔を俯かせながら、正直な気持ちを東谷へ伝えることにした。

「東谷。悪いんだけど、俺についてもお前が勉強できることなんてないと思うんだ。だから、教育係を誰かに変わって欲しければ、すぐ課長に言ってかまわないから……」

「勇利さんって珍しい御苗字ですよね。これから勇利先輩とお呼びしてもよろしいですか?」

「……は?」

(コイツ、俺の話を聞いていなかったのか?)

突拍子もない質問をしてくる東谷に、俺は俯いていた顔を上げる。

(あっ……)

 思わず声が漏れそうになったのは、一瞬、胸の奥が高鳴ったからだ。

(キラキラしてる……)

 目がしっかりと合って、それでも俺を見つめてくる東谷の目は、とても輝いて見えた。

 百九十センチ近くある身長に、モデルのような長い手足。

 新入社員らしい清潔感のある短めの髪。

 目鼻立ちは整っていて、誰もが認めるイケメン姿。

 だが、そんな見た目はもちろんだが、俺は東谷の目に吸い込まれるような魅力を感じた。

(あの目に俺が映って……)

 胸の高鳴りが、もっと激しくなっていくのを感じ取る。

(なんて……)

「勇利先輩?」

「う、うわっ!」

 瞳を見つめているうちに、いつのまにか目の前に東谷の顔があった。

 俺は驚いて大きな声を出し、一歩後退ってしまう。

「すみません。どうかされましたか?」

「い、いや。ぼーっとしていただけだ」

「ふふっ。勇利先輩って、おもしろい方ですね。俺の教育担当が勇利先輩で、本当に嬉しいです」

 慌てたせいでズレた眼鏡を直す俺に、東谷はにっこりと笑いかけてきた。

(嬉しい……。って、何してんだよ俺。新人に見惚れたり、社交辞令に浮かれている場合じゃないだろ)

 期待をしてくれている後輩に、先輩としてあるまじきことだと反省する。

(よしっ)

 俺は慌てて姿勢を正して、東谷に背を向けた。

「と、とりあえずデスクと……社内を案内するよ」

「はい! よろしくお願いします、勇利先輩!」

(勇利先輩……か)

 俺はその響きに、温かいものが胸に広がっていくのを感じた。



「東谷くんはアルファっぽくないよね。よく言われないかい?」

 東谷の研修が始まって数日後、お得意さま訪問に東谷を同席させた。

 すると、そこの社長さんに、俺も東谷に対して抱いていた同じような印象を言われた。

「あはは。昔からよく言われます。誰かと競ったりとかが、苦手なせいかもしれません」

「へぇー。まあ、私もそっち派なんだけどね。みんながみんなそうじゃないけど、どうもアルファ特有のギラギラした目とか、自信満々というより、自意識過剰なところが苦手で。そういえば、その辺りは不思議と勇利くんにも感じないよね」

(それは……)

 答えは簡単だ。

 本当はアルファではなく、必死にアルファに擬態しているオメガだからだ。

 だが、お世話になっている人にも、もちろん東谷の前でも本当のことを言えるはずもない。

「僕もよく言われます。父と母も同じことを言われていたらしいので、遺伝かもしれませんね」

 笑顔を浮かべる俺の中で、嘘をついて騙しているという罪悪感が生まれる。

「でもまあ、それなら勇利くんと良いコンビになりそうだね。勇利くんは建築関係に詳しいから、すごくこちらも助かっているんだ。東谷くんも、これからを期待しているよ」

「そう言っていただけると嬉しいです。勇利先輩は僕の目標なので!」

「ハッハッハッ!それは逞しいね。いいね、勇利くん。慕ってくれる後輩ができて」

 嬉しそうに笑いながらガッツポーズをする東谷の姿に、社長は豪快に笑っていた。

「東谷。少し黙っていろ」

 俺は慌てて肘で東谷の脇腹をそっと小突いた。

「はーい」

「あははっ!やっぱり、名コンビになりそうだね君たち」

 社長は俺たちのやりとりを見て、また豪快に笑っていた。

(名コンビ……か)




「勇利先輩のお得意様は、みなさんいい方ばかりですね」

 東谷と俺は日が暮れてきた住宅街の道を、駅に向かって並んで歩いていた。

「そうだな。恵まれていると、自分でも思ってるよ」

 毎月課される営業ノルマは、正直決して簡単に越えられるものじゃない。

 それでも俺がなんとかクリアできているのは、困ったときに助けてくれる人が多いおかげだ。

「他の先輩方って、ドカッと大きな契約取ってきたりしますけど、やっぱり次に繋がらないことが多いですもんね。勇利先輩のお得意様を大事にして、こういった細やかなケアの積み重ねが、長く実を結んでいくんですね」

「……!」

 正直、営業ノルマを最低限こなすだけでは会社から評価もされないし、周りから無能だと罵られる時もある。

 なので、東谷の言葉は自分を認めてもらえたような気がして、胸が熱くなった。

「さっきのカタログ資料、先方の社長さん向けにフォントサイズ変えたり、横文字を避けたりして作り直してあるんですよね?」

「あ、ああ。よく気が付いたな。お元気そうに見えて、実は目があまり良くないからな。他の従業員の方も、お年を召した方が多いから、できるだけみんなが見てわかる資料を……」

 俺が話している途中で東谷が歩く足を止めたため、俺は慌てて振り返る。

「東谷?」

「俺……勇利先輩のそういうところ、本当に尊敬します」

「えっ……」

 真剣な顔で言われ、俺は戸惑ってしまって少し俯いてしまう。

「べつに、こんなこと……」

「いえ、本当に尊敬します。俺の担当が勇利先輩で幸せです」

(幸せ……)

 俺が顔を上げると、東谷は眉を下げて幸せを噛みしめるように笑いかけてきた。

(なんだよ、その顔……)

 今まで生きてきて、誰かにそんな幸せそうな顔を向けられたことがなかった俺は、どうしていいかわからず、胸の鼓動が高鳴ってしまう。

「バ、バーカ。俺を褒めてもなにも出てこないぞ。ほ、ほら。戻ってやることが残ってんだ。さっさと帰るぞ」

「はい!」

 東谷はまるで名前を呼ばれた大型犬のように、満面な笑みで俺に走り寄ってきた。

 その仕草は俺を慕っているように思え、つい口元が緩みそうになってしまう。

(東谷といると、自分という存在がこの世にいてもいいって思えてくる気がする……。本当に不思議なヤツだ)

 東谷の言葉に、俺は救われたような気がした。

 だが同時に、先程の社長に対してと同じように罪悪感が生まれる。

(ごめんな、東谷。本当の俺は、お前の先輩に……教育係に相応しくないんだ……)

 俺は無意識に首の後ろに手を回して、噛み痕を隠すために貼っている大判の絆創膏の存在を、確認するように指先で撫でた。

(嘘つきでキズモノで……汚い……汚い存在なんだ……)



「あれ東谷? お昼食べに行かなかったのか?」

 東谷が仕事にも慣れてきて、別行動が多くなってきたころ。

 それでも大抵の日は、一緒にお昼を食べていた。

 だが、今日は俺の外出予定があったため、東谷には先に食べておくよう伝えてあった。

 それなのに、俺が戻っても東谷がまだ自席に残っていたため、俺は不思議に思い声をかけた。

「ほら、周り見てみろ。もう誰もいないぞ。集中していて気付かなかったのか?」

 正午を過ぎると、お昼をとるために休憩室や外へ、みんな一斉に向かう。

 そのため、営業課はこの時間、基本的に誰もいない状態になる。

 なので俺は、東谷が仕事に集中していて、周りの変化にも気付かずに残っていたのだと思った。

「あ、ええ。そうですね……」

「……?」

 なんだか歯切れの悪い東谷の返事に、俺は首を傾げた。

(そんな集中しなきゃいけない、急ぎの仕事を回した記憶はないけどな……)

 俺が出掛ける前に任せた仕事は、このあと使う会議資料の作成だった。

 といっても、十五時から始まる予定の会議資料だ。

 俺が出掛ける前に一通り目を通して、あとは誤字脱字の最終確認をするくらいだったはずだ。

 違和感を感じた俺は、東谷に一歩近づいた。

「なにかあったのか?」

「いえ、別に。勇利先輩はお昼まだですよね? 俺、もうちょっとやることあるので、先に食べてきてください」

 どこか東谷からよそよそしさを感じて、俺はふと、東谷のノートパソコンに目を向けた。

(あれは……)

 パソコン画面には、確認したはずの会議資料が映し出されていた。

「……。東谷、なんか俺に隠してないか? ちょっと貸してみろ」

「あっ!」

 俺は東谷のノートパソコンを奪い、画面が見えるように俺へ向けた。

「……。どういうことだ? なんで完成していたはずなのに、資料が途中までになってんだ?」

 画面に映っていたのは頼んでいた会議資料だった。

 だが、後半部分がごっそりと失くなっていた。

「実は……課長に呼ばれて、ちょっと席を外しているうちにデータが全部消えていて……」

「消えた? 一体どういうことだ? いや、消えたにしたって、バックアップはとってあっただろ?」

「それが、バックアップファイルまで消えちゃって……。どうやら俺が寝ぼけて保存するつもりが、削除してしまったみたいです。すみません。今、一から作り直しているので、あとでもう一度、最終チェックしていただいてもいいですか?」

「それはかまわないが……」

 ミスは誰にでもある。

 だが、東谷がそんなミスをするとは、俺には思えなかった。

 しかも、バックアップファイルまで消してしまうなんて。

「大丈夫か? もし疲れているなら、俺が引き受けるから早退してもいいんだぞ」

「いえ、大丈夫です」

「でも……」

「ご心配おかけして申し訳ないです。けど、自分のミスは自分で挽回させてください」

「……」

 東谷に真剣な強い瞳で見つめられながら言われ、俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。

「……。わかった。じゃあ、またあとでな」

 俺は東谷のことが気になりつつも、これ以上邪魔をしてはいけないと思い、一人で休憩室へ向かった。

 休憩室に着き、共有の冷蔵庫から、朝に入れておいた自前の弁当を取り出そうとする。

 だが、俺はふと手を止めた。

(東谷のヤツ、きっとこのまま昼飯食べないつもりだよな……)

 責任感の強い東谷の、自分のミスは自分でフォローしたい気持ちはよくわかる。

 俺も同じことが起きたら、きっと同じ判断をするだろう。

(そういえば……軽食なら、デスク内でも飲食が許されていたよな)

 そのことを思い出した俺は、一階のコーヒーチェーン店の存在を思い出す。

(カフェオレとサンドウィッチを買ってきたら、作業しながらでも食べられるよな。よしっ)

 俺は弁当を冷蔵庫に戻すと、そのまま急ぎ足でエレベーターホールへと向かった。

 

 

(うーん……)

 お昼どきのためか、エレベーターを呼んでも中々来なかった。

 そのため俺は、近くの窓からなんとなく、外の景色を眺めて待つことにした。

(カフェオレ、ミルクと砂糖多めにしてもらうか。たしか東谷、甘いもの好きだしな。うん。疲れたときにはやっぱり、甘いものだよな)

 そんなことを考えているうちに、エレベーターの到着した音がした。

 俺は慌てて振り向くと、エレベーターから二人組が降りてきた。

「ウケるよなー。今思い出しても笑えるわ。あんときの東谷の顔」

(えっ……?)

 エレベーターから降りてきたのは、同じ営業部の先輩たちだった。

「見た見た。東谷のヤツ、必死に辺り見渡しててさー。なんも見つかるはずないのになー」

(東谷の話? 一体どういう意味だ……?)

 話に夢中で俺の存在に気付かず、先輩たちは喫煙所に向かって歩いていってしまった。

「……おっと!」

 ドアが閉まりかけていることに気がついた俺は、慌ててエレベーター乗りこんだ。

「ふー、危なかった」

 誰もいないエレベーターで独り言を呟くと、俺は腕を組んで首を傾げた。

(さっきのは一体なんだったんだ? 笑えるって、一体……)

 一階に着き、コーヒーショップの順番待ちに並び始めても、俺はさっきの会話が気になって仕方がなかった。

(あの会話だと、なにか東谷のものを隠したのか? いや、社会人になって、そんなくだらないことするか? まぁ、仕方がない。これ買って帰ったら、東谷に心当たりがあるか聞いてみるか……)

 俺は嫌な予感と、胸騒ぎしか感じなかった。

 そんな気持ちを落ち着かせようと、俺は鼻からそっと息を吸い込んで吐き出した。

(いい香りだ。ん? そういえば、コーヒーと言えば……)

 コーヒーの香りが俺の心を少し落ち着かせると、先日あった出来事をふと思い出せた。

『うわっ! 何してんだよ東谷!』

『えっ、あっ! すみません!』

『コーヒーで俺の契約書台無しにする気か? やめろよな。そういう嫌がらせ』

『いえ。決してそんなつもりは……』

(たしか、机の上に置いていたコーヒーを、東谷が倒したって騒いでいたな。大事な書類を置いとくところに、飲み物なんて置くのが悪いんだろって俺は思ったけど。ん……?)

 俺はコーヒーを零されたと騒いでいたのが、さっきの先輩だったことを思い出す。

 すると、途端に胸が騒いだ。

(そういえば東谷って、俺じゃないヤツに資料提出すると、よく戻されてる気がしないか……?)

 作った資料の範囲が間違っている。

 そもそも指示通りに作ってない。

 やり直しと言われて席に戻ってくる東谷を、俺は何回か見かけたことを思い出す。

(俺に資料提出するときは、きちんと見直してくるし、ミスを指摘したことなんて、ほぼないのに……)

「次の方、どうぞー」

「あ、はい」

 ボーっとしてしまっていた俺は、店員さんの呼びかけで慌ててレジ前に立った。

「えっと、カフェオレをミルクと砂糖多めで一つと、ハムチーズサンド一つ。持ち帰りで」

「はい! かしこまりました! カフェオレはアイスで、ガムシロップとミルクを、お二つずつご用意するかたちでよろしいでしょうか?」

「あっ、はい」

「かしこまりした。それでは、カフェオレのアイス。ハムチーズサンドをおひとつですね。少々お待ちください」

 俺は丁寧で感じのいい店員さんの接客に感心しながら、出来上がりをレジ前で待った。

(そうそう。東谷って指示はメモとって、今みたいにきちんと復唱して確認するんだよな。だからミスも少ない。ん……? じゃあ、なんで間違えたりなんか……)

 俺は今まで考えもしなかったある可能性に気が付いて、背筋に冷たいものを感じた。

(もしかして、東谷はそもそもミスなんてしてないんじゃ……。言われた指示が、初めから間違ってただけじゃないのか?)

 あくまでも、俺の予想は可能性ではあった。

 だが、普段の東谷の行動や出来栄えを考えると、その可能性は極めて高いと思った。

(そういえば、さっき東谷が作っていた会議資料は、営業部全体の共有フォルダに保存してあったはずだ。だとしたら、東谷以外にも削除することは……)

 俺は一番納得できる答えに辿り着いて、思わず手が震えた。

「お待たせいたしましたー」

「あ、ありがとうございます!」

 会計を済ませ、紙袋に入れられた商品を受け取ると、俺は紙袋を握り締めて走り出した。

(どうして今まで気付かなかったんだ! くそっ!)

 俺が新人の時、ケアレスミスが多くて、よく先輩から怒られていた。

 だから東谷も、新人なんだから昔の俺と同じなんだと、勝手に思い込んでいた。

(バカだ、俺! 俺が一番に気付いてやらなくちゃいけないのに!)

 早く東谷に謝りたくて、俺は走ってエレベーターホールに到着する。

 だが、エレベーターホールは順番待ちの長い列ができていた。

(くそっ! こんなの待ってられるかよ!)

 俺は大人しく待ってなんかいられないと、すぐ横にあった非常階段の扉を開けた。

 そして勢いよく、階段を駆け上がった。

 普段運動なんてしない俺は、数階分上るだけで息が乱れ始めてしまう。

 だが、それでも必死に手すりへしがみつきながら、俺は階段を上り続けた。

「はぁ……はぁ……」

 本当は、順番待ちをしてでもエレベーターに乗ったほうが、早く着いたかもしれない。

(早くっ、早く……)

 でも俺には、じっと順番を待っている余裕は残されていなかった。

 それくらい、一分一秒でも早く、東谷のもとに向かいたかったのだ。

「ッハァ……ハァ……ハァ……」

 やっと営業課のあるフロアに辿り着いた俺は、膝に手をつき、乱れた呼吸を整えようとした。

 だが、すぐに首を横に振って自分を奮い立たせると、東谷の元へ駆けだした。

(東谷……! 東谷……!)

 今、東谷はどんな気持ちでパソコンに向かっているのか。

 考えただけで、俺は胸が締め付けられて泣きたくなった。

(ごめんな東谷! 俺……俺……)

「東谷ッ! ……ッ……ハァ……ハァ……ハァ……」

「勇利先輩? えっ? ど、どうしたんですか?」

 自席に座っていた東谷に、俺は息も絶え絶えな状態で駆け寄る。

 そんな俺の姿に、東谷は慌てて立ち上がって目を丸くした。

「あ、あずまッ……。俺っ……ッハ……ハァ……」

 話したいこと、謝りたいことがいっぱいあるのに、息が乱れて声にならない。

 俺は息を整えようと、膝に手をついた。

 そんな俺の姿を見て、東谷は俺の背中へ手を伸ばすと、優しく擦ってくれた。

「勇利先輩。ほら、大きく息を吸い込んで、吐き出してください」

「ッツ……すぅー……はぁー……」

 東谷に言われるがまま、俺は一度息を飲み込むと、大きく吸い込んで吐き出した。

「もう一度。今度はゆっくり吸い込んで……吐いてー……」

 背中を擦ってくれる東谷の手のスピードに、呼吸を合わせていく。

 俺は東谷のおかげで、ゆっくりと呼吸を整えることができた。

「もう、大丈夫ですかね? びっくりしましたよ。勇利先輩が走っているところなんて、初めて見たんで」

「俺だって、走ることくらい……」

「あっ。もしかして、俺にコーヒーを届けてくれようと必死になってくれたんですか?」

「ん……? そ、そうだ! コーヒー!」

 俺はコーヒーを買ったことも忘れて、階段を駆け上り、全速力で走ったことを思い出す。

 手元を確認すると、紙袋にカフェオレが染みてしまっていた。

「あ、東谷! 俺!」

 だが、そんなことより伝えたいことがあった。

 握り締めていた紙袋へ俺はさらに力を込めると、東谷に頭を下げた。

「えっ……? ゆ、勇利先輩? や、やめてくださいよ。一体どうしたっていうんですか?」

 俺の肩を掴んだ東谷の動揺が声で伝わってくるが、俺はそのまま頭を下げ続けた。

「俺が悪かった。教育係である俺が、真っ先に気付くべきなのに……!」

「……!」

 俺が何を言いたいのか察したように、東谷が息を飲んだのを感じた。

「や、やめてくださいよ、勇利先輩。どうして勇利先輩が頭を下げるんですか? 勇利先輩はなにも悪いことしてないじゃないですか。お願いですから顔を……顔を上げてください……」

「東谷……」

 切なる願いのような東谷の声に、俺は慌てて顔を上げた。

 目が合った東谷の顔は、酷く傷ついた顔をしていた。

「東谷、俺……」

「……。あーあ、勇利先輩には知られたくなかったのにな……。失敗したな……」

 頭の後ろを掻きながら、今度はまるで悪戯がバレた子どものように笑みを浮かべる東谷。

 その笑顔は、俺には無理して笑っているようにしか見えなかった。

(っく……)

 胸の奥を強い力で握り締められたように、俺は息が詰まるのを感じた。

「東谷……お願いだから、俺の前で無理に強がるのはやめてくれ。会議資料を削除したのは、東谷じゃないんだろ? 誰かにやられたんだろ? 今までだって、東谷はなにもミスしてないんだろ?」

「……!」

 東谷は一瞬驚いたように目を見開いたが、なぜか目を細めて幸せそうに笑った。

「勇利先輩……。どうしよう……俺、すごく嬉しいです。俺を信じてくれて……。信じてもらえるって、こんなに嬉しいもんなんですね」

「東谷……」

(信じてもらえるのが嬉しいって……。それって、今まで信じてもらったことがないような口ぶりじゃ……)

 俺は東谷の言葉に、どうしようもなく切ない気持ちになったあと、怒りを覚えた。

「……! くそっ! こんな嫌がらせ、許されるはずがない。今までのも全部だ!」

 自分も学生時代や入社したばかりのころ、アルファらしくないと目立ってしまった。

 そのせいで、難癖をつけられたり、嫌がらせをされることもあった。

 けれど俺は、オメガだとバレてはいけないと、穏便に過ごすため受け流してきた。

 しかし、今まで感じたことのないような、胸がムカムカする湧き立つ怒り。

 俺はとても、抑えられそうになかった。

「ちょっと待ってろ」

 カフェオレが中で零れて湿ってしまった紙袋を、俺は自分のデスクに音を立てて置いた。

「俺が直接文句言ってくる!」

 喫煙所にまだいるであろう先輩たちへ、俺は文句を言いに行こうと息まき、東谷へ背を向けた。

「ま、待ってください!」

 だが、一歩踏み出したところで東谷に手首を掴まれ、止められてしまった。

「なんで止めるんだ、東谷!」

 俺は勢いよく振り向くと、東谷は真剣な顔で首を横に振っていた。

「いいんです。これくらいのこと、慣れっこなんで」

「慣れっこって……」

(それってどういう……)

 東谷の言葉を理解するために、頭を使ったせいかもしれない。

 俺は自然と少し怒りが収まって、冷静さを取り戻した。

「すまない……。その、取り乱して……」

「いえ……」

 東谷の手はそっと離れていったが、手首には手の感触がしっかり残っていた。

 俺は思わず手首を見つめるように、黙って俯いてしまう。

 すると、東谷が俺の頭にそっと手を置き、ゆっくり撫で始めた。

「……!」

 今まで誰かにそんなことされたことがなく、俺は驚いて俯いていた顔を上げる。

 目が合った東谷は、慌てて手を引っ込めた。

「す、すみません。つい……。上司にすることではなかったですね」

「いや……うん……」

 本当は、もっと撫でていて欲しかった。

 だが、そんなこと素直に言えるはずもなく、俺はまた顔を俯かせてしまう。

「……。勇利先輩が俺のことで必死になってくれて……死ぬほど嬉しいです」

「東谷……」

「昔からそうなんです。アルファとしてだけでなく、人よりちょっと秀でたものがあるみたいで……兄弟だとか、友達から妬まれることが多いんです。こんなこと……本当は慣れたくないんですけどね」

(東谷が妬まれる? そんなことって……)

 こんなに素直でイイやつが、そんなことあるはずがない。

 そう一瞬思ったが、この世界は弱肉強食だ。

 しかも優秀なアルファばかりが集まれば、能力にほとんど差がなくなる。

 そんな中で突出した存在は、目障りでしかないのだろう。

 俺が顔を上げると、東谷は少し困った顔をしていた。

(さっき、兄弟もって言ってたよな。じゃあ、東谷に家族でさえ味方はいなかった……のか……)

『信じてもらえるって、こんなに嬉しいもんなんですね』

 そういって幸せそうに笑った東谷の顔が、頭の中で思い出される。

「……ッ」

 俺はもっと早くに気付いてやれればと、悔しさから唇を噛み締めた。

「東谷ッ! 俺……!」

 謝ろうとした俺に、東谷はそっと首を横に振った。

「俺のために怒ってくれて、ありがとうございます。でも、大丈夫です。それだけで十分です。俺はこんなことで潰されたり、絶対しないんで」

「東谷……」

 東谷の目はまた輝いているように思えた。

 初めて挨拶をしたときのように、俺にはとても眩しいものに思え、吸い込まれそうになる。

「俺、この会社でなにかしたくて入社したわけじゃないんです。けど、やっとやりたいこと見つけて……人生で初めて夢が持てたんです」

「夢……?」

「はい。いつか勇利先輩とデカい仕事やりたいなって」

「えっ……?」

(俺と……?)

 キョトンとしてしまった俺に、東谷は嬉しそうに笑った。

「勇利先輩には本当に感謝しています。だから一日でも早く独り立ちして、勇利先輩が俺の担当であったことを評価されて欲しいんです。優秀な勇利先輩が周りからきちんと評価されるために、その評価がきちんと残る仕事を、いつかやりたいんです」

(それって……)

 俺のためにと思ってしまうのは、自意識過剰かもしれない。

 それでも、俺は嬉しくて胸が熱くなった。

「東谷……」

「俺のこと信じてくれて、本当にありがとうございます。俺、絶対あの人たちを見返してやるんで! だから俺のこと、見ていてください!」

(あっ……)

 ガッツポーズをする東谷に力強い目で見つめられて、俺は胸に湧き立つものを感じた。

 俺のために頑張ろうとしてくれて、俺のことを認めてくれる東谷。

 本当に嬉しくて、仕方がなかった。

 だが、同時に俺は、自分の奥底に秘めていた感情に気が付いてしまった。

(俺……東谷のことが……)

「東谷、俺……」

 俺は慌てて、口元を片手で覆い隠した。

(何を言おうとしてるんだよ、俺……。言えるはずなんかないだろ。だって俺には……)

 戸惑っている俺に、気付いているのかいないのか。

 それは分からなかったが、東谷は俺に握手を求めて、手を差し出してきた。

「俺、頑張るんで! これからもよろしくお願いいたします!」

「あ、ああ……」

(この手を素直にとれたら、どれだけ幸せか……)

 そんなこと許されるはずもない。

 そう頭で理解していながら、俺は必死に笑顔を浮かべながらその手をとった。

(噛み痕があるキズモノの俺が……アルファだと騙している俺が……東谷の手をとることなんて、本当は許されるはずもないのに)

 俺は、東谷への気持ちに気が付いてしまった。

 だが同時に、元々そんな気持ちなんてなかったように、胸の奥底に押し込んだ。

(無意味だ。だからこの気持ち、バレるわけには……)

 何度も心の中で、俺はそう自分に言い聞かせた。

 

 

「うわぁ……東谷のヤツ、また営業成績一位だってよ」

「マジかよ……月間ならまだわかるけど、このままだと下半期オールトップになるかもしんないぞ」

「ってことは社長賞も確実かー。ほんとアイツ、バケモンかよ。同期の俺らが無能に見えて、先輩から怒られてんの知ってんのか?」

「俺らも勇利先輩に教えてもらってたら、今ごろ変わってたのかなー」

(勝手なこと言いやがって。だいたい、東谷の成績に俺は関係ない。東谷の努力の結果だ)

 少し離れた場所から聞こえてくる、営業成績結果のメールを見た東谷の同期たちの会話。

 俺は苛立ちを覚える半面、東谷が今月も営業成績トップを収められたことに嬉しくなった。

 早々に仕事を覚えて独り立ちした東谷は、営業課の誰よりも、結果と成績を残していった。

 そして、今や一人で本社出張を任されるほど、課長や部長からの信頼も勝ち取っている。

「ただいま戻りました! 勇利先輩!」

 出張から戻ってきた東谷は、お土産の紙袋を片手に、一目散で俺の元へ向かってきた。

「おかえり、東谷。本社出張お疲れ。って、戻ったんなら先に課長へ挨拶してこいよ。俺のところに真っ直ぐ来てどうすんだ」

「だって、せっかく帰ってきたんですもん。一番に会いたいじゃないですか!」

「だってってお前なー……ったく、仕方がないな」

 俺は呆れたように、東谷へ向かって肩を竦めて見せた。

(一番に会いたかった……どうしよう。すごく嬉しい……)

 呆れた態度を取りつつも、心の中では、東谷の何気ない言葉で嬉しくなってしまう自分がいる。

(ダメだ、ダメだ。こんな気持ちを持つことなんて、俺には許されないだろ)

 心の中で俺は必死に自分へそう言い聞かせ、話題を変えた。

「そ、そういえば、今ちょうど先月の営業成績結果がメールで来てたぞ。またトップだったな」

「えっ、本当ですか? 先月は、ちょっと後半危なかったんで心配してたんですが……これも勇利先輩のアドバイスのおかげです。ありがとうございます」

 東谷は俺に深々と頭を下げて、お辞儀をしてきた。

「いや、俺はなにもしてないだろ。東谷が頑張っているから、しっかり結果が出せているんだろ?」

「いえ、あの目標があるから俺は頑張れるんです。だから、勇利先輩のおかげです」

(目標……俺のおかげ……。そっか……)

『いつか勇利先輩とデカい仕事やりたい』

 東谷に言われた目標。

 それはきっと、叶うはずもない目標だ。

 だが、教育係という立場上、東谷のやる気を削ぐ行動は避けたかった。

 なので、そんな目標は無意味だとは、とても東谷には言えずにいる。

 いや、嘘だ。

 言えないんじゃなくて、言いたくないだけだ。

 東谷なら本当になにかを変えてくれる気がして、俺が期待しているから。

「ね? 勇利先輩」

 首を傾げながらにっこりと笑いかけてくる東谷につられて、俺も無意識に笑みを浮かべてしまう。

「あ、笑った。勇利先輩が笑ってくれた!」

「えっ……あっ……! これは……」

 俺は気を緩めてしまったと、口元を片手で覆い隠しながら、慌てて東谷から顔を逸らした。

「そんな恥ずかしがらなくてもいいのにー。素直な勇利先輩も素敵ですよ」

「だ、誰が恥ずかしがってなんて!」

「はいはい。あっ、勇利先輩。手のひらを出してください」

「はっ? 手?」

 俺は疑問に思いながらも、東谷に言われるがまま、手のひらを上にして前に差し出した。

「こーれ。勇利先輩におみやげです。なんかこういうの懐かしくて、つい買ってしまったんです。俺の初出張記念ということで、受け取ってください」

(あっ……)

 手に乗せられたのは、金属製のキーホルダーだった。

「おみやげ……。おみやげでこういうものが売っているのか?」

 キーホルダーを指先で摘まむと、俺は顔の前まで持っていった。

(へぇー……)

 キーホルダーには、俺でさえ知っている有名観光スポットのイラストが掘り込まれていた。

「あれ? 勇利先輩はあまり旅行とかしない方ですか?」

「あっ、ああ……。修学旅行も行かなかったか……ら……」

(まずい。余計なことを言った)

 子どもの頃から、オメガだと周りに必死で隠していたこと。

 そして経済的理由から、小中高の修学旅行はもちろん、旅行なんてしたことがなかった。

 なので、おみやげ屋さんにどういったものが並んでいるのかも、俺は知らなかった。

「……」

 知らなかったことを素直に話してしまったことに内心焦り、俺は何も言えなくなってしまう。

 すると、東谷はにっこりと俺に笑いかけてきた。

「そうなんですね。じゃあ、俺がまた次の出張に行ったら買ってきますよ。あ、勇利先輩もどこかへ行ったら買ってきてくださいよ。それでいつか二人で、全部の都道府県分集めましょうね」

(二人で……って、ああもう……)

 また東谷の何気ない言葉に胸を弾ませてしまっていると、誰かが東谷を呼ぶ声が聞こえた。

「おーい、東谷! こっち、こっち!」

 俺と東谷は、声のする入り口付近に目を向けた。

 離れていて俺にはよく見えなかったが、おそらく人事部の人が手を振って東谷を呼んでいるようだった。

「お前のところの課長が待ってるから、さっさと行けー! 第二会議室ー!」

「えー、分かりました!」

 東谷は返事をすると、おみやげの入った紙袋を手に持ち直した。

「おみやげの催促ですかね? 仕方がないなー。それじゃあ、勇利先輩。俺ちょっとこれ、届けてきますね」

 そう言って、東谷は急ぎ足で会議室へ向かおうとするが、なぜかすぐに振り向いた。

「……?」

「ねぇねえ、勇利先輩」

「な、なんだよ?」

「俺、いつか勇利先輩と出張……いや、旅行に行きたいなー。綺麗なとこ一緒に見て、うまいもの食べましょうね」

(東谷と旅行……)

 俺は考えただけで胸に湧き立つものを感じ、慌てて身体の向きを変えた。

「ば、バーカ。何言ってんだよ。さっさと課長のとこ行ってこい!」

「はーい」

 拗ねたように口を尖らせたかと思うと、すぐに満面の笑みを浮かべた東谷。

 そんな笑顔のまま、東谷は会議室へと向かっていった。

 その姿を横目で見つめていた俺は、東谷が見えなくなったのを確認し、深い溜め息をついた。

(はぁー……。おみやげ……か)

 俺は開いていたノートパソコンを、静かに閉じた。

(東谷から、もらっちゃった……)

 受け取ったキーホルダーを俺はまた指先で摘まむと、顔の前に持ってきた。

(丸い……)

 キーホルダーには当たり前だが、ぶら下げるための丸い輪っかがついていた。

 俺はなんとなく、その輪っかを左手の薬指に嵌めた。

(二人で全都道府県集めましょうね……か。いいな、それ……)

 今までオメガだとバレてしまうリスクを考えて、出張は全部断ってきた。

 だが、東谷と一緒なら、出張や旅行も行ってみたいと思ってしまっている自分がいる。

(東谷と旅行……か。きっと楽しいだろうな……)

 駅で待ち合わせして、駅弁を一緒に選んで、交換しながら車内で食べて。

 見たこともない景色に感動して、写真をとって。

 おみやげさんを巡りながら、ご当地キーホルダーを選んで。

 指に嵌めていた輪っかを見つめながら、そんなことを想像した俺は深い溜め息をついた。

(そんなこと、できるはずないだろ。何考えてんだ、俺……)

 バカらしいと、すぐにキーホルダーの輪っかを薬指から外した。

 だが、金属の重みが感触として残る左手の薬指を、俺は見つめ続けてしまう。

(どうしよう……。俺、東谷のことがどんどん好きになっていってる……。そんなこと許されるはずもないのに……)

 東谷は単純に、俺のことを仕事の先輩として慕ってくれているだけだ。

 俺を喜ばせてくれる言葉に、他意はない。

(きっと、俺じゃなくても……いや、俺なんて……って、あーもう!)

 このままでは、気持ちが落ちるところまで落ちてしまいそうだ。

 そう思った俺は、首を横に振って頭を空っぽにしようとした。

「……ッ」

 すると、机の上に置いていた私用スマホのバイブ音が、静かに響いて息が詰まった。

(ああ。今月もそんな時期か……)

 友だちなんて一人もいない俺の私用スマホに、メッセージを送ってくるのは一人しかいない。

 一か月に一回届く、時間とホテルの場所だけが書かれたメッセージ。

 それは番である将人からの、発情セックスの呼び出しだ。

(明日は朝一で会議があるのに……なんて思っても、俺に拒否権なんて存在しない……か)

 将人に首元を噛まれて発情して、発情セックスをしなければ、俺はアルファの仮面を被れない。

『まさとっ、もっと! もっと! 中に出してッ』

 最初は嫌だと思いながらも、結局発情すれば自我を失ってしまう。

 恥ずかしい言葉を取り留めなく口にしながら、番である将人を腰を振って激しく求めてしまう。

(卑しい……アルファに寄生するオメガ……)

 将人と会うたびに浴びせられる、俺のことを侮辱する言葉。

 いつもであれば唇を噛みしめるだけなのに。

 今の俺には、大人しく聞き流すことはできなさそうだった。

 それは、きっと図星だからだ。

「……ッ」

 俺は将人からのメッセージを今だけは見たくないと、そっとスマホの電源を落とした。

「はぁー……」

 見ていないことなんて、許されないことはわかっている。

 けれど今だけはもう少し、自分がオメガだということを忘れていたかった。

(はぁー……)

 もう一度深い溜め息を心の中でつくと、キーホルダーを手の中で握りしめた。

(せっかくだし、どっかに飾るか……)

 そう思って、俺は机の上を見渡したが、机の上にはノートパソコンとペン立てしかなかった。

(仕方がない。とりあえず、ここにするか)

 俺はペン立てに手を伸ばすと、キーホルダーの輪っかをペンに通して飾ることにした。

「……」

 飾ったキーホルダーを見つめていると、さっきの東谷の笑顔が浮かんでくる。

 すると、胸の奥が熱くなり、涙が浮かんでくる気がした。

(バカだな、俺。さっさと仕事しよ……)

 俺は慌てて閉じていたノートパソコンを開き、作業を再開しようとした。

「なあ。東谷、課長に呼ばれてんだろ?」

「ん? そういえばさっき、課長が東谷戻ったらって言ってたな」

「俺、本社の人事に知り合いがいるんだけどさー。どうやら東谷、本社に転勤みたいだぞ」

「は? 嘘だろ? こんな早く新卒が、本社からお呼びがかかるなんてありえんのか?」

(えっ……本社? 東谷が……?)

 少し離れた席から先輩たちの会話が聞こえてきて、俺は息が詰まって鼓動が速くなったのを感じた。

(東谷が本社……ということはもう会えなく……。いや、なに動揺してるんだよ俺。東谷の実力なら本社異動なんて当たり前だ。支社であるここにいること自体が、初めからイレギュラーなわけで……)

 本当なら、一番に喜ばなければいけない存在なはずなのに。

 そう頭で分かっていても、俺はもう心から『おめでとう』が言えなくなっていた。

 それだけ、俺の中で東谷という存在が大きくなってしまっていた。

 俺は自分が本当に取り返しのつかない状態なことを、今やっと自覚した。




「東谷ならやるって信じてたよ」

「東谷ってSNSとかやってる? 同期でアルファ限定っていうのがあってさー」

(あんなに東谷の周りに人だかりが……。まあ、当たり前だよな。本社異動ってだけでも稀なのに、入社した年になんて前代未聞だからな)

 来週付けで本社へ異動となった東谷。

 そんな東谷のために、最終出勤日の今日、会社近くの居酒屋で東谷の送別会が行われた。

(おめでとうって……俺、未だに言えてないや……)

 送別会が始まって、だいぶ時間が経っている。

 だが俺は、貸し切りになっている座敷席の端っこで一人、乾杯用のビールを未だに飲んでいた。

(あんなに、東谷の周りに人だかりができて……)

 横目で東谷の存在を確認すると、東谷を取り囲むように人だかりができていた。

 その中には、東谷に嫌がらせをしていた先輩たちも混じっていた。

(よくあんなことしておいて、平然と東谷に話しかけられるな。頭、おかしいんじゃないか? って、なに苛立ってるんだよ俺……)

 苛立ちを感じる本当の理由は、自分が一番よくわかっている。

 俺はビールが入ったグラスを、キュッと握りしめた。

(羨ましいんだよな、きっと……。東谷と話せることが……)

『勇利先輩。その……お伝えしたいことが……』

 あの日、課長の呼び出しから神妙な面持ちで戻ってきた東谷。

 そんな東谷に、俺はどう接したらいいかわからなかった。

(行かないでくれ……俺のそばにいて欲しい……)

 浮かんでくるのは、そんな身勝手な言葉ばかり。

 俺は自分が恥ずかしくなり、東谷に素っ気ない態度を取ってしまった。

『こ、ここで聞けないことなら無理だ。後にしてくれ。俺はちょっと席を外すから』

 正式に異動の辞令が出るまで公に話せないことを利用した俺は、それから東谷を避け続けた。

『勇利先輩、今晩よろしければ……』

『悪い。用事があるんだ』

 帰りの誘いは断り、東谷が席を外しているうちに退社したり、営業先から直帰したり。

 いつしか隣に座っているのに、自然と会話もなくなっていった。

 そんなふうに俺が一週間ほど避け続けていると、東谷の正式な辞令がメールで一斉送信された。

 俺は東谷が隣に座っているとき、そのメールを確認して、来週には東谷がいなくなってしまうことを知った。

(俺……)

 だが、それでも俺は隣に座っていた東谷に『おめでとう』の一言が言えなかった。

「異動したら、本社の新事業部門配属になるんだろ?」

「すげーよな!」

 どうやら本社の新事業開始に合わせて、東谷の人材育成を早々に始めたかったらしい。

 それでこんな急な本社異動の運びになったと、先輩たちが噂しているのを聞いた。

『いつか勇利先輩とデカい仕事やりたいな』

 東谷が夢だと言ってくれたことが、俺と一緒ではないが実現する。

 本当は誰よりも喜んで、笑顔で送り出さなければいけない。

 それなのに、そんな簡単なことも俺にはできない。

(何してるんだろ……俺。逃げ続けて、東谷と最後までろくに話もせずに……)

 俺は東谷との関係を、これで終わりにしていいのか正直わからなかった。

 だが今の俺には、東谷へ話しかける勇気さえ残されていなかった。

「東谷ー。俺たち先輩は鼻が高いぞ」

「本社行ったら、俺たちのことも話しといてくれよな」

(よくそんなこと、平気で東谷に言えるな! 姑息な手段使って東谷の邪魔していたくせに! ああ! くそッ)

 東谷へ擦り寄る会話に一人で苛立った俺は、握りしめていたビールを一気に飲んでしまう。

「うっ……」

 慣れないビールの苦みに顔を歪めながら、頬が熱くなるのを感じる。

 俺は誰もいない席の机の上で腕を突っ伏すと、腕の間に顔を埋めた。

(せめて俺だけでも、心からおめでとうと言ってやりたいのに……)

 本当は気持ちよく送り出してやりたいのに、心のどこかで置いて行かれた気持ちがしてしまう。

(別に、俺がいてもいなくても……東谷の人生にはなにも影響はない。そう。俺に出会ったことなんて、きっといつか……あ、あれ……)

 忘れてしまうんだと思ったとき、俺は急な眠気に襲われた。

(そういえば東谷のことを考えて、最近寝不足だったから……。やばいって……今、こんなとこで寝たら……起きられなく……)

 そう思いつつ、俺は何度も目が閉じてしまうたびに、開け続けていようと試みた。

 だが、瞼が次第に重たくなっていき、どんどん意識が遠のいていった。



「勇利先輩。勇利先輩、大丈夫ですか?」

(ああ……東谷の声だ……)

 肩を揺すられて、遠くに東谷の声が聞こえながら、俺は重い瞼を開けて目を覚ました。

「酔って寝てしまったんですか? 俺、家まで送っていきますよ? おうちはどちらなんですか?」

(東谷が送ってくれる……俺を……? そっか……)

 お酒は残っていない感じだったが、深く眠っていたせいか、頭がぼんやりとしていた。

 そのため、俺はよく考えもせずにゆっくりと、上体を起き上がらせた。

「んっ……」

 そして、視点が定まらないまま、東谷に小さく頷いてしまった。

「……わかりました。ほら、とりあえずグラスのお水飲んでください。みんなとっくに帰っちゃいましたよ」

(そっか……誰もいないのか……。あっ……)

 ぼーっとしていると、包み込まれるように東谷の手が重ねられた。

 すると、俺の心臓は途端に跳ね上がった。

(温かい……それに、東谷の手って、すごく大きいんだ……)

 重ねられた手から東谷の体温が伝わってくると、跳ね上がった心臓はさらに速さを増していく。

「ほら。零れないようにしっかり握ってくださいね」

 東谷に重ねられた手は、机の上に置かれていたグラスへ俺を誘導させた。

「大丈夫ですか? ほら、しっかり握らないと零しちゃいますよ」

「……んっ」

 俺は小さく頷くと、東谷にグラスをしっかりと握らされた。

(そういえば、この手で頭を撫でられたとき、すごく気持ちよかったな……)

 また、撫でられたい。

 いや、それだけじゃない。

 この大きな手で頬を撫でられて、擦り寄ったら。

 首筋を這うように指先で触れられたら。

 俺の頭の中で、妄想はどんどんエスカレートしていく。

「とりあえず外でタクシー拾ってくるんで、勇利先輩はお水を飲んで待っていてくださいね」

「あっ……」

 重ねられていた手が離れていき、俺は思わず落胆の声を漏らしてしまう。

(東谷が……)

 離れていってしまう。

 そう思った瞬間、俺は無意識に東谷の手を掴んだ。

「い……」

「勇利先輩……?」

(行かないでくれ。このまま俺にずっと触れていて欲しい。もっと、もっと……)

「……っ」

 俺は欲望のままに求める気持ちを、声に出さなかった自分を褒めたかった。

(東谷、東谷……!)

 だが、押さえつけていたはずの気持ちは、どんどん溢れてくるばかりだった。

(好きだ……。だからもっと俺に……)

 触れて欲しい。

 触れて欲しい。

 触れて欲しい。

 頭の中でその言葉が、何度も繰り返される。

 そんなこと、許されないとわかっていながら求めてしまう。

(会えるのは、きっと今日が最後だ。東谷が本社から戻ってくることなどないのだから……。そう、これが最後。最後なんだ。だったら……)

 俺は息を飲んで決意すると、立ち上がりかけていた東谷の顔を見上げた。

「東谷……。最後に、俺を抱いてくれないか?」

 気持ちが悪いとはっきり拒絶されて、この気持ちを断ち切るためだったのかもしれない。

 それとも、一度だけなら受け入れてもらえるかもしれないという、僅かな期待があったのか。

 いや、答えは単純だ。

 触れて欲しい。

 触れて、俺に東谷の痕を残して欲しいと身体が求めたからだ。

「……」

「あっ……」

 俺の突然の誘いに、目を丸くして黙ったままの東谷。

 そんな東谷の表情を見て、俺は頭から水を被ったように意識がはっきりとした。

(俺は何を……)

 俺は自分の欲望のまま、東谷を求めてしまったことに血の気が引いた。

(やっぱり俺は卑しいオメガなんだ。東谷は後輩だぞ。こんなふうに誘うなんて、許されるはず……)

「す、すまない東谷。い、今のは、じょ、冗談だ! 忘れてくれ!」

 畳の上に置いていたスーツの上着を握り締めると、俺はその場から逃げるため、慌てて立ち上がった。

「えっ……!」

 だが、東谷に手を掴まれてしまい、俺を見上げてくる東谷の真っ直ぐな視線と目が合った。

「あ、東谷……離し……」

(熱い。振りほどけない……)

 手を振りほどいて、この場から走って逃げればいい。

 そんな簡単なこともできないのは、掴まれた手から伝わってくる東谷の体温のせいだ。

(この手に触られたい……。優しくされても、めちゃくちゃにされても構わない。東谷に触れて欲しい……全身で東谷を感じたい……)

 そんな考えが、頭の中をまた支配するように埋め尽くしていく。

「……っ!」

 俺は腰に疼きを感じ、身体を震わせてしまう。

 すると、東谷は立ち上がって、俺の耳元にそっと顔を近づけた。

「ここで……というわけにはいかないので、俺のマンションでいいですか?」

(えっ……?)

 今まで聞いたことのない甘い声で、東谷は俺の耳元でそう囁いてきた。




「ん……」

(俺、寝ちゃって……)

 ベッドの上で目を覚ますと、俺は東谷の腕の中にいた。

(東谷に抱き締められながら目を覚ます日がくるなんて……。なんて、幸せなんだろう……)

 まるで大事なもののように優しく抱き締められながら、間近に聞こえる東谷の規則正しい寝息。

 今まで感じたことのない多幸感に、これは夢なのかと何度も思う。

 肌が重なった場所から感じる温かさに、いっそ夢なら覚めないでいて欲しかった。

 東谷の胸元に擦り寄って、もっと強く、俺がここにいると確認するように抱き締めて欲しかった。

(バーカ。そんなこと……)

 許されるはずもないと静かに息を吐き出した俺は、そっと東谷の腕から抜け出した。

(身体、拭いてくれたんだ……)

 ベッドから上体を起こすと、身体がさっぱりしていることに気が付く。

 しかも、着心地のいいパジャマまで着せられていた。

(パジャマ……ご丁寧に袖まで折ってある)

 東谷のものと思われるパジャマを着せられていたが、俺にはだいぶ大きかったみたいだ。

 余ってしまった手足の裾は、几帳面に何度も折り畳まれていた。

(ほんと、なんていうか……)

 何度も絶頂を迎え、勝手に眠ってしまったにも関わらず、こんなに優しくしてくれる。

 その優しさや気遣いから、俺が大事なものとして扱われていると錯覚しそうになってしまう。

(ダメだ、だめ……。このままじゃ本当に……)

 これ以上ここにいては、取り返しのつかないことになりそうだ。

 そう思った俺は、慌ててスタンドライトの明かりを頼りに、眼鏡と自分の服を探した。

(眼鏡は……あっ、あった)

 眼鏡はベッド脇のチェストの上にあり、すぐに見つけた。

 俺は眼鏡へ手を伸ばして取ってかけると、今度は着ていた服を探した。

(ん? あれは……?)

 脱ぎ捨てたスーツやワイシャツは、きちんとハンガーで壁にかけられているのが見えた。

 だが、アンダーシャツまで壁にかけられているのを見つけた俺は、心臓が跳ね上がってしまう。

(う、嘘……!)

 俺は慌てて首元に手を当てると、噛み痕を隠すために貼っている絆創膏の存在を確認した。

(よ、よかった。剥がれてない……)

 大判の絆創膏がそのままになっていることを確認できた俺は、心の中で安堵の溜め息をついた。

(見られてない。よかった……でも……)

 噛み痕を東谷に見られていないと安堵した半面、俺は残念だと思う気持ちがあることに気が付く。

(何考えてるんだよ、俺……。東谷に噛み痕を見られたら……)

 オメガだとバレてしまう。

 アルファだと偽っていることも。

 そして、番がいることも。

(それだけじゃない……アルファだと偽るために、身体を差し出し続けていることだって……)

 こんな汚い存在である本当の俺を、東谷には知られたくない。

 そう思いながらも、俺は東谷なら全てを受け入れてくれる気がしてしまう。

(バカだな……。受け入れてもらって、どうするつもりだよ。俺は幸せかもしれないが、東谷は不幸にしかならないだろ……そんなの……)

 俺はこの場所にいてはいけないと、東谷の顔を視界から避けながら、ベッドを下りようとする。

(よし。って、あれ……?)

 気合いを入れて身体を動かそうとしたのは、いつもであれば、セックスの後は身体に痛みが走るためだ。

 だが、将人に抱かれた後と違い、身体のどこにも痛みが走ることはなかった。

(あんなに何度も求めたのにな……)

 まるでワレモノを扱うように、優しく触れてきた東谷。

 どうやら将人と違って優しく抱いてくれたおかげで、身体の負担にはならなかったようだ。

 すると、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚を覚え、俺は自分の腕で自分自身を抱き締めた。

(こんなことで淋しいと思ってしまう俺は、バカなんだろうな……)

 毎月将人に抱かれるとき、発情するために首元を噛まれる。

 噛まれた瞬間、噛み痕から身体全体に熱が広がっていき、あとの記憶はほとんどなくなる。

 そして終わった後、噛み痕は火傷をしたときのように痛みが数日残る。

 俺は絆創膏の上から、指先で噛み痕に触れた。

(何も……残ってない……)

 今の自分には、東谷の痕跡がなにも残されていない。

 そんな身勝手な淋しさを感じて胸が締め付けられると、俺は心の中で溜め息をついた。

(東谷に噛んでもらいたかった……って、いい加減、無意味なことを考えるのはやめよう)

 俺はベッドから下りると、物音を立てないように注意しながら着替えた。

 そして、着せてもらっていた東谷のパジャマを綺麗に畳み終えると、チェストの上に置いた。

(よし……)

 あとはカバンを手に取って、部屋を出ていくだけ。

 そう思うと、本当にこれでお終いなんだと実感して、胸が痛いほど締め付けられた。

 スタンドライトの微かな明かりに照らされた寝室を、俺は目に焼き付けようと見渡した。

 東谷らしく、シンプルで必要最低限の家具しか置かれてい寝室。

 だが、寝室の隅っこに段ボールと大きなスーツケースが置かれているのを見つけて、俺はそっと息をのんだ。

(そうだ、東谷は本社に……。だから、本当にこれで最後なんだ……)

 考えることを避け続けていた事実に、俺はさらに胸が締め付けられて、涙がこみ上げる。

 俺はまるで自分に諦めろと言い聞かせるように、そっと首を横に振った。

(東谷に俺は必要ない。東谷の未来に、俺は……。だから、ここからもう帰らないと。夢の時間は……お終いだ)

 カバンを手に取ると、足音を立てないようにそっと寝室の扉へ向かった。

(バイバイ、東谷……。でも最後に、最後にもう一度だけ東谷の顔を……)

 そう思い、俺は東谷に向かって振り向くと、東谷の顔をじっと見つめた。

(もっと見たい。もっと、近くで……)

 ほんの一瞬だけだと自分に言い聞かせながら、俺の足は無意識にベッドへと向かっていた。

 そして、静かに寝息を立てている東谷の顔を、俺はそっと覗き込んだ。

(思い出をありがとう……)

 初めて見る東谷の寝顔はとても綺麗で愛おしくて、本当はいつまでも見ていたかった。

 会うのは最後だが、東谷が受け入れてくれた、ただそれだけで俺の心は満たされた。

 満たされたはずだった。

 もう触れることもない。

 そう思うと、最後にもう一度だけ東谷の体温を感じたいと思ってしまう。

(本当に、これが最後だ……)

 俺は東谷を起こさないようにカバンを床へ置くと、指先でそっと東谷の頬に触れた。

(好きだよ、東谷……)

 決して言葉にすることは許されない気持ちを、俺は心の中で呟く。

 すると、まるで溢れ出してしまったかのように、気持ちが止まらなくなってしまう。

(好きだよ……。好きなんだ……)

 唇を重ねた感触を思い出し、東谷の唇にそっと人差し指の第二関節で触れる。

(愛してる……。愛してるんだ……だから、さようなら……)

 俺は触れていた指先を、名残惜しそうにゆっくりと離した。

(バイバイ……。ありがとう……)

 心の中でそう呟いて、今度こそ出ていこうと東谷へ背を向けると、手首を何かに掴まれた。

「どこに行くんですか?」

「えっ……う、嘘……。東谷、起きて……」

 寝起きとは思えない、真剣な目で見つめてくる東谷。

 俺はそんな東谷から逃げるように身体を引き、掴まれた手を振りほどこうとする。

 だが、掴まれた手はさらに強く力が込められて、離されることはなかった。

「は、離して……東谷、頼むから手を……」

「離しません。離したらきっと、勇利先輩は戻って来ないから」

 ベッドから上体を起き上がらせた東谷は、俺の手を引っ張ると、俺は抵抗できずに抱き寄せられてしまう。

「……!」

 俺の胸元へ、まるで甘えるように顔を埋めた東谷は、俺の背中へ腕を回して抱き締めてきた。

「勇利先輩……」

「……っ」

(ダメだ、ここからいなくならなくちゃ……。東谷に俺は必要ないだろ)

 頭では、こんなこと許されないと分かっている。

 だが、愛おしそうに名前を呼ばれて腕に力が込められると、俺は抵抗できなくなってしまう。

「どこにも行かないでください。俺の……俺だけのそばに、いてください……」

「……!」

(う……そ……)

 そんな言葉をもらえるなんて思ってもみなかった俺は、無意識に東谷の背中へ腕を伸ばしかける。

「俺……すぐに異動願い出して戻ってくるんで、それまで待っていてくれますか?」

「えっ……?」

 想像もしていなかったことを東谷に言われ、俺は思わず東谷の肩を掴んで身体を離した。

 そんな俺を東谷は、じっと見つめてきた。

 その目は今までにないほど真剣で、本気なんだとわかった。

「驚かせてすみません。でも、本気なんです。なので異動願い出してもダメなら、辞めてでもこっちに帰ってくるんで。だからそれまで……」

「ちょ、ちょっと待った。な、何言ってんだよ。辞めるって何をバカな……」

 俺は動揺して声が上擦って震えてしまうが、東谷の目は真剣なままだった。

「俺は本気です。だから少しの間だけ、俺のことを待っていていただけませんか?」

(ちょ、ちょっと待った。お、俺……東谷に何を言わせて……このままじゃ……!)

 自分のしてしまったことの重大さに気が付いた俺は、突き飛ばす勢いで東谷の胸元を押した。

 そして、慌ててベッドから逃げるように立ち上がった。

「勇利せんぱ……」

「か、勘違いするなよ」

 俺は足元に置いたままだったカバンを、身体を屈ませ慌てて手に取った。

「悪いけど、俺にそんな気はないから」

 言い捨てて逃げるように、俺は東谷に背を向けて、慌てて寝室のドアへ向かう。

 だが、ベッドから立ち上がって駆け寄ってきた東谷に腕を掴まれて、すぐに止められてしまった。

「待ってください! そんな気はないって……どういうことですか?」

「そ、そのままの意味だよ!」

「俺に抱いて欲しいって言ったくせにですか?」

「……!」

「ねえ、勇利先輩。少し動揺してしまっているだけなんですよね? 俺の異動が決まったときみたいに。だからゆっくり話しましょう? 俺たちのこれからを……」

(これからだって? そんな未来、あるはずないだろ! だって俺は……)

 キズモノのオメガなんだから。

 俺は東谷に掴まれていた腕を、思いっきり振り払った。

「勇利……先輩……」

 こんなことをされるなんて、思ってもみなかったのだろう。

 目を丸くして驚いた表情を見せる東谷を、俺は思いっきり睨みつけた。

「……。悪いけど、抱いてくれって言ったのは……ただの興味本位だ」

「……!」

 俺の言葉に東谷は、傷ついたように目を見開いた。

「……ッ」

 俺はそんな東谷の顔を見ていられず、反射的に東谷から顔を逸らしてしまった。

 すると、東谷に肩を掴まれて軽く揺すられてしまう。

「そんなの信じません。嘘ですよね? 勇利先輩」

「嘘じゃないって……だから離せよ」

「嫌です! 嘘じゃないっていうなら、ちゃんとこっちを見て話してください!」

 東谷に言われ、俺は俯いていた顔を上げた。

 目が合った東谷は真剣な目をしていながら、瞳の奥底から悲しみが感じ取れた。

「……」

(俺、東谷を傷つけて……)

 俺は東谷を傷つけたショックで、頭の中が混乱してしまう。

 混乱した俺は、東谷からまた目を逸らして、ついその場で思いついた嘘を口にしてしまった。

「悪いけど、試させてもらったんだ……」

「試す? 一体何をですか?」

 掴まれたままの肩に力が込められたのを感じて、俺は息を飲み込んだ。

「……。せ、セックスって、どんな感じなのかって……」

「……。それは……番以外との、ってことですか?」

(ツガイ……えっ?)

 俺は東谷の口から番という言葉が突然出てきたことに慌てて、首元を手で確認してしまう。

「あっ……」

 絆創膏が剥がれていなかったことは、さっき確認したはずだった。

 それなのに、そんなことも忘れて軽率な行動をとってしまった俺は心臓が高鳴る。

(これじゃあ、噛み痕があるって言っているのと同じじゃないか……)

 血の気が引いていく感覚に足元がふらつきそうになるが、俺はなんとか足を踏ん張って立ち続けた。

「やっぱり、その首の絆創膏は……番の噛み痕を隠すためのものだったんですね……」

「……!」

(東谷は気付いて……。じゃあ、俺がオメガだって……)

 今まで東谷に隠していたことが全部バレてしまったとわかると、なんだか肩の力が抜けて自暴自棄のような気持ちになった。

(本当にお終いだ。だったら……)

 いっそのこと嫌われたほうが楽だと、俺は東谷から逸らしていた顔を上げた。

 そして、そのまま嘘を重ねることにした。

「そ、そうだよ。俺はオメガで番がいるんだ。けど、今まで番以外とセックスしたことなかったから、どんなもんか試してみたかったんだ」

「じゃあ俺は、勇利先輩の興味に利用されただけなんですか?」

「あ、ああ! そうだよ! おかげで番以外のセックスってこんなに無意味なんだって、よく分かったよ!」

「無意味……」

 俺の言葉に傷ついたのか、東谷は声のトーンが途端に低くなった。

 だが、ここで引き返すわけにはいかないと、俺は覚悟を決めて嘘を続けた。

「そうだよ、無意味なんだよ! 気持ちはいいけど、中身が全くない感じだったな。全然心が満たされなくて、足開いてても虚しいだけだって、よく分かったわ」

(嘘……。本当はこんなに幸せだと感じて、心まで幸福な気持ちで満たされたのは初めてだった……)

 大事にしてもらえるというのが、こんなにも幸せだったなんて。

 それを教えてくれた人を、俺は今、傷つけようとしている。

「お前ならもうすぐいなくなるし、色々と試すのにちょうどよかったんだ。だからと思って誘ったのにさー。なんか本気になられて俺が悪いみたいにされると、本当に迷惑だ」

 自分がどれだけ最低なことを言っているか。

 そんなことは一番自分が分かっている。

 俺は泣きたくなる気持ちを、必死に奥歯を噛みしめながら耐えた。

「……。そう……だったんですね……」

 掠れた声でそう言うと、東谷は静かに俯いた。

(ごめん、東谷……。俺の軽率な行動で傷つけて……。でも、お前の人生を、オメガでキズモノの俺のせいで滅茶苦茶になんかできない。俺の事情に巻き込むことなんて……)

 東谷に軽蔑されていると思うと、本当は怖くて目を見ることなんてできなかった。

 だが、俺は嘘を言っていないと信じてもらうために、必死で東谷を睨み続けた。

 足の震えを隠すために力を込めて、必死に平常心を装いながら。

「もういいだろ? 離してくれ」

「はい……」

 東谷は掴んでいた俺の肩から、ゆっくりと手を離した。

 腕を力無くダラリと落として俯いた東谷を見た俺は、どうしようもないほど胸が痛む。

(東谷を傷つけた……。本当にサイテーだな、俺……)

 こんなことになることを、望んていたわけじゃないのに。

 だが、自分が招いた結果なのだから受け入れるしかない。

 全て、自分がいけなかったんだ。

「じゃあな……俺、もう行くから……」

 これ以上傷つく東谷を見ていられないと、俺は東谷に背を向けて、寝室のドアノブに手を置く。

「勇利先輩……」

 名前を呼ばれ、俺は振り向くことなく返事をした。

「なんだ……?」

「最後に教えてください……。勇利先輩は今、幸せですか? 番さんを愛してますか?」

(そんなの……)

 本当のことを言いたくなる気持ちをグッと押さえ、俺は口角を上げて必死に満面な笑みを浮かべた。

 東谷に、明るく楽しく喋っていると聞こえるように。

「幸せだよ。愛してるよ……」

 振り向くことなく、俺はドアを見つめて答えたが、東谷は黙ったままだった。

「番の大事さに気付かせてくれてありがとうな。本社でも頑張れよ」

(さよなら、東谷……)

 何も言わない東谷を置いて俺はそのまま寝室を出ると、東谷のマンションを後にした。

 三年前。

 東谷と会ったのは、これが最後だった。

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