偽りのオメガ
『いい? 渉は絶対にあの人の血を引くアルファなの。こんなに頭が良くてなんでもできるんだから、オメガのはずがない。優秀なアルファなら、必ずあの人が私たちを迎えに来る。だから一緒に待ってましょう。一緒に暮らし始めたら、ここに噛み痕をつけてもらうのよ』
(そっか。ボクはアルファなんだ! アルファだってショウメイされれば、さんにんでいっしょにくらせるんだ! それに、おとうさんとおなじイッキュウケンチクシになったら、ふたりともきっとよろこんでくれるよね!)
子供の頃、母は白い肌の首元を俺に見せながら、まるで呪文のように噛み痕の話を何度も俺に言い聞かせていた。
有名な建築士である父の愛人として俺を産んだ母は、本妻には子供がいなかったため、自分がいつか本妻として迎えられると信じて疑わなかった。
だが、俺が小学校高学年の頃、無理やり父に連れていかれ、第二次性診断を受けさせられた。
その結果、俺がオメガだと判明すると、父は母と俺をあっさり捨てた。
それまでは養育費も支払われていたらしいが、それも突然なくなり、あっという間に苦しい生活が始まった。
三食をまともにとることも難しい経済状況の中、母は俺のことを国にオメガだと届け出ず、自分の発情期抑制剤を俺に飲ませ始めた。
俺がオメガでないと周りに偽り続ければ、父が俺を認めて、迎えに来ると信じていたからだ。
『渉はアルファなの! 絶対に! だからあの人は、すぐ迎えに来るわ! 私に噛み痕をつけるの!』
狂ったように毎日そう叫びながら、父に噛み痕をつけてもらえるのを楽しみにしていた母。
そんな母がある日突然、大金が入ったバックを持って帰ってきたかと思うと、首元には噛み痕がつけらていた。
『大丈夫。この大金があれば、あの人を助けられるらしいわ。だから、もう少しで迎えに来られるってあの人が言ってくれたの。愛してるわ、渉。大丈夫、あの人は必ず私たちを迎えに来てくれる。迎えに来るわ。必ず、迎えに……』
子供ながらに、母が父のために自分の体を差し出して、お金を手にしてきたのだと理解した。
そのとき母に感じた感情は、軽蔑よりも同情だった。
(裏切られたのに、またあの人に騙されて、それでも信じ続けるなんて……。俺がしっかりしないと。アルファとして生きて、母さんを守ってあげないと)
そう決意して、オメガだとバレる危険を避けるために友達も作らず、父以上の建築士になって見返してやろうと、俺は必死に勉強を続けた。
その結果、私立の大学付属高校に、学費免除の特待生として入学することができた。
だが、そこで偶然、父方のいとこである将人に出会った。
今まで家族は母のみで、同い年のいとこがいることさえ知らなかった俺は、兄弟ができたように思え、浮かれてしまった。
『俺、実はお前の……』
今思えば、なんて軽率な行動だったんだろうと思う。
あの時、自ら俺が将人のいとこであることを明かしてしまったことで、その後の俺の人生は大きく変わってしまった。
『将人っ! やだっ……! 離せ……!』
どこから手に入れたのか、発情期誘発剤を将人に騙されて使われた俺は、将人の前で発情し、そのまま首元を噛まれて番となった。
妊娠しないようにとアフターピルを飲まされ、副作用の吐き気と眩暈で起き上がることさえできない俺に、将人は冷たく言い捨てた。
『お前がオメガだって、お前の親父が教えてくれたんだ。番になれば、俺がラット化しなくなるから便利だろってさ』
『う……そ……』
それは、耳を疑いたくなる話だった。
事務所の経営が傾いたため、父は将人の父親に資金援助を頼んだらしく、対価として差し出したのがオメガである俺だった。
将人は以前、ラット化を起こしたことで揉めたことがあるらしく、適当な番をもつことで面倒を避けようと考えたらしい。
『お前の親父は自分が逃げ出すために、俺の親父にお前を売ったんだ。だから恨むなら俺じゃなくて、お前の親父を恨めよ』
(なんで……どうして……)
捨てられただけでなく、母と同じように金でやりとりをされた俺は、もちろんショックだった。
しかも、自分がつくった借金から逃れるための資金にするなんて。
その事実を知った母は俺以上にショックを受け、そのまま生きる気力を無くしてしまい、心と身体は壊れて亡くなってしまった。
(最後まで迎えに来てくれると信じていたのに、こんな形で裏切られて……。しかも、息子まで噛み痕をつけられたら当たり前だよな……)
一人ぼっちとなった俺に残されたのは、母が噛み痕と引き換えに大金を手にしたときの借金と、少しばかりの抑制剤だけだった。
俺はこれから生きていくために、国へオメガだと申請し、就職して地道に働きながら借金を返していこうと考えた。
だが、調べれば調べるほど、オメガで高校生の働き口なんて存在しなかった。
残された道は身体を売ることしかないと思ったが、噛み痕のあるオメガは需要がないらしい。
途方に暮れた俺だったが、頭の片隅では建築士になることへの夢が残されていた。
最初は父に対して唯一の復讐だと考えていたが、今では自分の目指したい夢になっていた。
(一級建築士になるには大学を出て、実務経験を積んで試験に合格しないといけない。そのためには……)
そんな俺が頼れるのは、たった一人の知り合いである将人だけだった。
(番である将人に首元を噛まれれば、その時点で発情。性欲を発散すれば発情も治まる……。それなら、抑制剤も不要でオメガだと隠して生きていける……。アルファだと偽って……夢を追い続けられる……)
高校生の俺には、将人に全てを差し出して縋る考えしか残されていなかった。
「おいっ! きーてんのか?」
「あっ、ごめん……」
昔を思い出してぼーっとしていた俺に、将人はアフターピルが入ったピルケースを、俺の顔へ放り投げてきた。
「痛っ……」
「受けとんねーのが悪いんだろ。さっさと飲めよ」
「うん……」
返事はしたものの、まだ体が鉛のように重たい俺は、薬を飲むために上体を起き上がらせることもできなかった。
そのため、ピルケースを静かに手のひらで握った。
(こんなこと続けて、もう十年くらいか……。そして来月もまた……)
ふと、そんなことを考えると、俺の心は虚しさばかりが溢れて息が詰まった。
(忘れていたのに……。東谷に会うから、またこの気持ち思い出しちゃったよ……)
俺の境遇を素直に話せば、東谷ならきっと助けてくれたと思う。
だが、俺にはそんなことはできなかった。
(だって、東谷のこれからの人生に俺は必要ない。邪魔なだけだから……)
握りしめていたピルケースを、俺は溢れ出しそうな東谷への気持ちを押さえつけるよう、さらに強く握りしめた。
「そういや、俺が言った通りにノーパソは持ってきたんだろうな?」
「あっ、それならカバンの中に……」
ベット脇の革張りソファー上に置かれたカバンへ視線を向けると、将人はスラックスを履き、ベルトを締めながら向かっていった。
そして、俺のカバンから何も言わずにノートパソコンを取り出すと、カバンを床に放り投げて、ソファーに腰かけた。
「お前にやらせてやったプロジェクトのプレゼン資料、もうできてんだろうな?」
将人は目の前のローテーブルに、わざと大きな音を立てて足を乗せた。
「ごめん。ちょっと自分の仕事が忙しくて、まだ途中なんだ……」
「はぁ? まだできてねーのかよ。お前の仕事より、俺の仕事を優先すべきだって判断もできねーのか?」
「……」
将人は苛立ちながら膝の上に俺のノートパソコンを置くと、タバコを吸いながら、作り途中のプレゼン資料を確認し始めた。
「なぁ、将人……」
「あ? なんだよ?」
「そのプレゼン資料って……。やっぱり、あのプロジェクトのなのか?」
「そうだよ。そろそろ俺が本気出して、実績でも作ってやろうと思ってんだからさー。気合入れて作れよ」
(やっぱり、東谷がやるプロジェクトのなんだ……。それなら……)
「あ、あのさ……」
「なんだよ?」
咄嗟に俺もプレゼンへ参加したいなんて言い出しそうになったが、そんなこと許されるはずもなく、俺は言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもない……」
「なんだよ。めんどくせーな」
「ごめん……。プレゼン通るといいな。あと、続きは明日の朝までに完成させておくから……」
まだ半分ほどしか完成していなかったプレゼン資料は、徹夜しないと間に合わないのが目にみえていて、俺を憂鬱な気持ちにさせた。
「ったく、そんなの当たり前だろ。俺、来週にはプレゼンだって言っておいたよな?」
「うん……」
「あーあ。こんなギリギリにしやがって。俺が優秀なアルファじゃなかったら、間に合ってねーからな」
「そうだよな。ご……」
俺はいつものように謝ろうとしたが、何故か言葉が続かなかった。
そんな俺の態度に異変を感じたのか、将人は俺を睨みつけた。
「あ? なんだよ。何か言いてーのか?」
「べつに、ないよ……」
「そうだよなー。だってお前は、自分から俺のペットになりたいって懇願してきたんだから、言いつけは守れるよなー」
「……ッ」
嫌味のように笑う顔と投げつけられる言葉が、今日はいつも以上に重たく胸へのしかかる。
(こんなこと、いつまで続ければいいんだろう……)
俺は母が亡くなってすぐ、将人に取引を持ちかけた。
月に一度首元を噛んで、発情させて欲しい。
そのとき、俺のことは好きにして構わないと。
正直、将人には利益のない取引だと思ったが、なんと将人は了承した。
しかも、借金まで肩代わりしてくれて、返済は大学卒業後で構わないと言ってくれた。
最初は将人も、俺を番にしたことへの負い目のようなものを感じて、俺の提案に了承してくれたのかと思った。
だが、現実はそれほど甘くなかった。
『クソオメガ。お前はカネのためならなんでもするんだろ?』
将人の課題を手伝わされたり、酷く乱暴に抱かれて、蔑む言葉を数えきれないほど浴びせられるのなんて日常だった。
高校を卒業して大学に進学してからも、それは変わりなかった。
だが、それでも俺は耐え続けた。
それも全て、建築士になると決めたからだ。
大学さえ卒業すれば、発情期の間は休みながらでも実務経験は積める。
時間はかかるだろうけど、試験に合格すれば建築士としてフリーランスで働ける。
発情期中は仕事の調整ができて、オメガだと隠しながらこの世界で生きていける。
だから、大学さえ卒業すれば将人との関係も終わりにできると、それだけを希望に耐えていた。
それなのに、大学三年の就活が始まるころ、俺は将人へそろそろ関係を終わりにしようと伝えたら、胸ぐらを掴まれて大笑いされた。
『何言ってんだよ。お前はずっと、俺のペットに決まってんだろ』
『えっ……?』
『いやなら今すぐ、カネ返せよ』
『え、だって……お金は大学を卒業したらって……』
『は? 誰が分割なんて言ったんだよ? 俺は一括じゃないと受け取らないからな』
『え……?』
『バカだなー。番のお前となら手軽に発情セックスできて、こんなに便利なのに、俺が簡単に手放すわけねーだろ。あ、そうそう。就職は俺の親父のとこにしろよ。俺が今までみたいにお前をうまく使ってやるから』
『うそ……』
『おっと、そういえば……お前、建築士になりたいんだっけ? フッ、オメガに仕事任せるヤツなんているわけないよな? お前もそう思うだろ?』
『それは……』
『途中で逃げたら、お前がオメガだってバラすからな。そしたら、せっかく建築士になっても、仕事なんて来ないだろうなー』
『そんな……』
『いやー、オメガって本当に便利、便利。あの時、お前を噛んだ俺って天才だわ』
卒業すれば終わらせられると思っていた将人との関係は、建築士となる目標を諦めた上に、最悪な形で続くことになった。
将人の父親が役員である大手輸入インテリア会社に就職し、仕事が出来過ぎないよう演じて仕事量をセーブし、将人の仕事を手伝う。
そして毎月、アルファだと偽り続けるために、番である将人に身体を差し出す。
高校生の時、将人に縋ってしまった自分の思慮の浅さを、俺は今でも呪っている。
「そういえばアイツ……。東谷だっけ?」
「えっ……」
まさか将人の口から東谷の名前が出てくるなんて思いもしなかったため、俺の心臓は跳ね上がり、思わず肩をびくつかせてしまう。
「たしか、お前の後輩だったやつだろ? 今回のプロジェクトリーダー」
「あっ、うん……。今日、偶然会ったよ……」
俺は必死に平常心を取り繕うようにしながら、ゆっくりと答えた。
すると、将人は吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。
「へぇー会ったのか。まさかそれが、俺との待ち合わせに遅れた理由か?」
「えっ……?」
東谷に会ったことを追及されると思っていなかった俺は、さらに心臓の鼓動が速くなり、一瞬返事に戸惑ってしまう。
「ち、違うって。会社で偶然すれ違って挨拶したくらいで……。遅れたのは駅で調子が悪くなったからだって言っただろ」
「ふーん。あっそ……」
将人は興味を無くしたように、視線をノートパソコンの画面に戻した。
俺は将人に気づかれないよう安堵の息を吐き出すと、肘をベットに押し付けながら、ゆっくりと上半身を起き上がらせた。
(いい加減、そろそろシャワー浴びないと……)
身体の節々と腰に感じる鈍い痛みで顔を歪ませながら、俺はベット横のサイドテーブルへ、ピルケースを置こうと手を伸ばした。
「お前さー。アイツに取り入ってこいよ」
(えっ……?)
急に言い出した将人の言葉が理解できず、俺はサイドテーブルに手を伸ばす動きを止めて、将人の方を振り向く。
だが、将人はパソコン画面を見つめたままだった。
(取り入る……? 東谷に……?)
「将人、何言って……」
「俺のプレゼン通すためにさー。アイツに抱かれてこいよ」
(抱かれてこい……? 将人のために……?)
やっと将人が何を言っているのか理解した俺は、ピルケースを握りしめていた手に震えを感じた。
「あー、やっぱそもそも無理かー。東谷って絶対アルファだろうし、お前みたいなキズモノじゃ、相手にされるわけないもんなー。お得意のフェロモンも効かねーし。そういや、東谷が本社勤務になったのって、上層部に上手く取り入ったって聞いたな。実は東谷もお前と同じように、誰かにケツ差し出してんのかもなー。そうだったら、マジ笑えるわッ」
手を叩きながらケタケタと笑って話す将人に、俺は今まで感じたことのない、湧き立つ怒りを覚えた。
(ふざけんな……)
俺自身のことは将人に何を言われても我慢できたが、東谷が侮辱されるのだけはどうしても我慢できなかった。
そう思った瞬間、俺は握りしめていたピルケースを無意識に、将人へ向かって投げつけていた。
「っ……」
怒りに任せて投げたはずだったが、身体に力が入らなかったため、ピルケースは将人の肩に軽く当たっただけだった。
だが、床に転がり落ちたピルケースと俺を見比べた将人は、静かに俺を睨みつけてきた。
「お前、自分が今何したかわかってんのか?」
俺は将人に負けじと、軽蔑するような目で睨み返した。
「東谷は……将人とは違うよ」
「は? 今、なんて言ったんだよ」
「東谷は将人とは違うって言ったんだよ。本社勤務はアイツが自分で努力した結果だ。くだらない言いがかりはやめろよ」
「ふざけんなっ!」
将人は声を荒げると、先程まで足を乗せていたローテーブルを勢いよく蹴りつけた。
「俺とアイツ、何が違うってんだよ! 俺がアイツより劣ってるって言いてーのか? 俺ならアイツを左遷にもクビにすることもできるのにか?」
将人は立ち上がって自分のカバンから財布を取り出すと、お札を数枚取り出して絨毯に叩きつけた。
「ほら、お前の大好きなカネだ! さっさと拾えよ! クソオメガが!」
「……」
「拾えっていってんだろ! お前は俺のペットだ! 足開いてカネを欲しがる卑しいオメガだって忘れんな! ほら! さっさと拾え!」
俺は将人の荒げる声に動じることなく、首を静かに横へ振った。
「いらない……」
「……っ!」
反抗する俺に肩を震わせて怒りを露わにした将人は、ベッドに立ったまま乗っかってきた。
そして、俺の前髪を片手で鷲掴みにすると、無理やり俺を上へ向かせた。
「俺が拾えって言ってんだから、今すぐ床に這いつくばって拾えよ!」
「いやだ!」
目を逸らさず、俺は真っ直ぐ将人を睨みつけながらはっきりと答えた。
「……」
「……」
「ふーん……。じゃあ、お前がオメガだってバラしてもいいんだな?」
「……!」
(それは……)
俺の前髪を掴む将人の手にさらに力が込められると、頭を左右に揺さぶられる。
「バラしてもいいんだな!」
「……ッ」
悔しさを我慢するように奥歯を噛み締める俺の表情を見て、将人は勝ち誇ったような満面の笑みを浮かべた。
「そうそう、バラされたら困るよなー。じゃあ、自分の立場は分かったよな?」
将人は掴んでいた俺の前髪から手を離すと、またソファーに戻ってドカッと座った。
そして、足を組んで俺を見つめると、将人はニヤニヤしながら足元に投げ捨てたお札を指差した。
(くそっ……)
仕方なく、俺は鉛のように重い身体を動かし、ベッドから床に滑り落ちたバスローブを羽織る。
俺はゆっくりとした足取りで、将人の足元に投げ捨てられたお札へと近づいた。
「……」
絨毯の上で俺は両足の膝をついてお札を手に取ると、将人は俺の顎を片手で掴んだ。
「そうだ。そうやって、お前は俺の言うことだけを聞いてればいいんだよ。わかったか?」
「はい……」
これ以上将人の機嫌を損ねてはまずいと判断した俺は、そっと感情を消して将人を真っ直ぐ見つめた。
「やっぱ、オメガはそうやって従順じゃなくちゃなー。なんてったって、俺たちは番なんだからさー」
将人は満足したように俺の顎から手を離すと、財布の中から数枚のお札を抜いて、俺の顔に投げつけた。
「……ッ」
「ほらよ。俺様は優しいから追加してやるよ。俺って優しいなー。だから、プレゼン資料は必ず朝イチに仕上げて送って来いよ」
「はい……」
「俺がいなきゃ、お前はこの世で生きてけねーんだからさー。これからも俺に尽くせよ。寛大な俺が、さっきのことと遅刻したことは許してやるからさ」
そう言って、カバンとスーツの上着を手に持った将人は、両足の膝をついたまま俯く俺の横を、満足気な顔ですり抜けていった。
「いいな? 必ず朝イチでプレゼン資料送ってこいよ」
そう言い残して、将人は部屋を出て行った。
(くそっ……!)
じわじわと湧き立つ怒りは、将人に対してじゃない。
将人の言う通り、将人がいないと生きていけない自分自身が情けなくてだ。
四つん這いになって絨毯の上に散らばったお札を集めると、俺は先程拾い上げたお札と一緒に握りしめて、絨毯の上から床を叩いた。
何度も何度も床を叩いた手は痺れ始め、手を開くと、握りしめていた札束が床へと散らばった。
(東谷……)
俺は東谷の名前を、まるで助けを求めるように心の中で静かに呟いた。
(これはかなりマズイ……。アフターピルの副作用が出過ぎてる……)
平坦で真っ直ぐな硬いアスファルトの道を歩いているはずなのに、俺は足元が沈んで歪むような感覚に襲われた。
(早く大通りに出て、タクシー拾わないと……)
真冬で暑いはずもないのに脇や首筋に汗を感じ始め、俺は目眩と戦いながらも、なんとか路地を抜けて大通りに出ようとした。
「あっ……」
だが、大通りまであと一歩のところで急に視界が歪み、俺は雑居ビルの壁に思わず凭れ掛かってしまった。
(これ以上は……。とりあえず、どこか休めるとこは……)
そう思いながらも足は一歩も前に出すことはできず、壁に凭れかかったままズルズルと、その場に座り込んでしまった。
「うっ……」
座り込んだ瞬間、みぞおちがムカムカするような吐き気に襲われ、俺は思わず口元を押さえながら地面を見つめた。
(きっとバチが当たったんだ。東谷のこと、ちゃんと諦めてないから……)
ふと、アスファルトの地面に、空き缶やタバコの吸い殻が散乱しているのが目に入った。
(ああ……)
俺はそんなゴミと同じように、この世界から自分はいらない存在なんだと思った。
(俺がこのまま死んだら……。東谷は泣いてくれるかな……)
我ながらバカみたいなことを思いついたと笑いたいはずが、こみ上げてくるのは虚しさだけだった。
(俺はどこで間違えてしまったんだろう……)
そんなことを考えても意味がないと分かっていながらも、頭の中で今までのことを思い起こしてしまう。
(まずい……)
次第に頭から血の気が引いていく感覚に陥り、このままでは気を失って倒れてしまうと焦る。
慌てた俺は、雑居ビルの壁に手をついて、なんとか立ち上がろうとした。
だが、途中から足に力が入らなくなり、バランスを崩して前のめりで倒れこみそうになると、誰かに体を支えられた。
「大丈夫ですか? 勇利先輩」
心配そうに表情を曇らせながら、俺の顔を覗き込んできたのは東谷だった。
(どうして……)
俺は東谷に支えられながら、壁へ寄り掛かるようにして地面に座った。
「一体どうしたんで……」
言いかけて俺を見つめる東谷が、目を見開いて驚いた表情をしていた。
(あ、あれ……。なんで……)
そのわけは、俺が涙を溢していたからだった。
「ご、ごめんな。急に……」
何故泣いているのか、自分でも分からなかった。
東谷が現れて嬉しかったのか、驚いたのか、悲しいのか、もう全部分からなかった。
「勇利先輩……」
名前を呼ばれると胸が苦しくなる。
(東谷……)
心の中でさえ、名前を呼ぶと泣きたくなる。
(どうしたら……)
俺は必死に誤魔化そうと首を横に振るが、涙は止まらなかった。
すると、東谷は急に自分の着ていたコートを脱ぎ、俺の頭の上からコートを被せて視界を遮った。
「少し、ここで休みましょう」
俺の隣に腰掛けた東谷は、俺の頭をそっと自分の肩へと抱き寄せた。
俺は黙って、微かに聞こえる東谷の呼吸する音に耳を傾けながら、目を閉じて身体を預けた。
『勇利先輩……』
耳に今でも残る、東谷が俺を呼ぶ声。
目を閉じていると、東谷と初めて出会ったころのことを思い出した。




