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第三章 第 5話 母娘のブランチ・トーク

日曜の午前、カフェの窓際。

外は灰色の雲。


リサがカプチーノをすすりながら言う。

「で? その後どうなの、線はちゃんと引いてる?」


香織は一瞬むせる。

「なにそれ。監視されてるみたい。」


「だってさ、“半年は何も起きない”って言ったの、ほんの二週間前でしょ?」

ここで香織が視線を逸らす。

(半年どころか、あの日から呼吸の仕方が変わってしまった。)

でも口では言う。

「だから別に、何も起きてないわよ。」


リサはにやりと笑う。

そしてパンケーキを切り分けながら、

「何も起きてない人は、そんな下着買わない。」

「そんな下着って、どんな下着のこと?」

「こないだ部屋に干してあった赤いレースのとか。」

「ベルリンでは洗濯ものまでチェックされるのね」

「そういうことじゃなくて、なんかママ、女として戻ってきてる気がするの」

リサの言葉に、香織は笑いながらも、少しドキッとした。


(女として、戻る——そうかもしれない。

だって、華やかなタンゴドレスの下が、ベージュのおなかまで覆うデカパンとか、あり得ないもんね。

踊ることって、やっぱり“生きてる身体”を取り戻すことなんだ。)

(それにしても戻してる、か。誰のために? 自分のために? それとも他の誰か?)


そう考えながら、思わず一人笑いしてしまったのを、リサは見逃さなかった。

「ママ、ベルリン来てから雰囲気変わったよね」

「そう?」

香織は笑って返す。

「痩せてキレイになったとか?」

「違う違う。そうじゃないけど、なんかさ、誰かに遠慮しなくなった感じ」


香織は一瞬、目を伏せる。

(遠慮……してた? してたのかもしれない。

長いあいだ、誰かの機嫌を損ねないように生きてた。)

「そんなことないと思うけど」

と軽く返しながらも、 胸の奥が少しだけざわつく。


リサは静かに続ける。

「昔のママって、“いい妻”でいようとしてた気がする」

香織は沈黙した。

なんと返していいのか、言葉がみつからない。


そんな母の逡巡を察したのか、リサがあわてて明るい調子でメニューを開きながら言う。

「ねえ、最近VIO脱毛行こうかなって思ってるの。

ドイツ人の友達、みんなしてるんだよね。」

「え? そうなの?」

香織は思わず声を上げた。

(そんな話題を娘とする日が来るなんて……)


リサは続ける。

「だって、プールとかサウナで恥ずかしいし」

「でも、あれ痛いんじゃないの?」

「そりゃちょっとは痛いけど、きれいになるにはそのぐらい我慢しなくっちゃ。

ママもやってみたら?」

リサが言う。

「きれいでいたいって、悪いことじゃないよ」


香織は少し笑う。

(私の母は、そんなこと一度も言わなかった。

“女は控えめでいなさい”が口癖だった。)


香織はスプーンをカップの縁で軽く鳴らした。

「そうねぇ。そういえば日本でも最近私ぐらいの年齢でも流行ってるんだって。」

「へぇ?」

「なんかね、要介護になった時に、ない方がいろいろと便利なんだって。」

「そんなこと!

介護なんてまだまだ先でしょ。ってか、介護されない健康体でいてちょうだいよ」

「そう願いたいものだけど」

二人で顔を見合わせて笑う。


リサが続ける。

「要介護もいいけど、誰かに触れられる前提で考えて見たら?」

香織は驚いて、

「え? 誰かに触れられるって、え、いわゆる、そういう意味で?」

「そういう意味じゃなくて、どんな意味があるっていうの」

「そこまでは考えたことなかった」


ここで沈黙。

香織はカップの縁をなぞる。

(触れられる前提で身体を整えることを考えるなんて、何年ぶりだろう。)


リサ:

「ということは、まだ線引いてるの?」

香織は少し考えてから言う。

「うん、それはもう。

でも線ってね、引いたつもりでも、

踊ってるうちに足で踏んで消しちゃうことがあるかもしれない。」

「何それ、意味深!」


そう言って屈託なく親娘で笑い合いつつも、実際に香織の胸の奥では、その線がもうほとんど見えなくなっている。


「ママ、最近ほんとに楽しそうね」と言った。

「そう見える?」

「うん。なんか……“なにか”を始めた顔してる。」

香織は笑ってカプチーノを口に運んだ。

その“なにか”を言葉にするには、まだ少し早い気がした。

言葉にした途端、この小さな幸福が壊れてしまうような気がして。


「まあ実際、タンゴを再開したしね」

窓の外をトラムが通り過ぎる。

街はいつもの灰色の空のベルリン。


でも、香織の胸の中には少しだけ温かい空気が流れていた。


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