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第三章 第4話 ー Scene B 同じ夜、同じ音楽の中で(ゲオルグ)

ゲオルグがタンゴスタジオ、エストゥディオ・デル・ソル に到着した時、香織はすでにそこにいた。


レッスンが始まる。

オーディオデッキからゆっくりとしたバンドネオンの前奏が流れる中、ペアが順番に踊り出す。


ゲオルグも香織と向かい合い、その手を取ったが、彼女は視線を合わせてこなかった。

木の床のきしむ音。

彼は、そのわずかなの中で、香織の指先の震えを感じ取っていた。

先週のことが、まだ彼女の中に残っている、と感じた。


カフェに誘われて、断った夜。

彼はあの瞬間の彼女の表情を、何度も思い出していた。


(あのとき、微笑みかけるべきだった。

 理由を言えばよかった。

 「少し時間を」と、ただそれだけ言えばよかったのに。

 けれど、それを口にした瞬間、彼女との距離が、一気に現実のものになってしまう気がした。


 踏み出せば、もう引き返せない。

 そう思った途端、言葉は喉の奥で止まった。

 だから彼は、沈黙の方を選んでしまった。)


音に合わせて一歩を踏み出す。

彼女の動きがいつもより硬い。

呼吸が合わない。

足元でリズムがずれる。

彼はすぐにそれを察し、リードの圧をわずかに緩める。


押さない。

待つ。

彼女が自分のテンポを取り戻せるように。


(焦らなくていい。

 彼女はきっと、いま慎重になっている。

 それは僕のせいでもある。)


一度でも、手の中の温度を失えば、そのあとの沈黙は、踊りよりも長い。

だから彼は、あえて“いつも通り”を演じていた。

変わらないことだけが、彼女を安心させる唯一の方法だと思っていたからだ。

そして同時に、それが自分を守るためでもあることを、彼は知っていた。


彼のダンスは理屈ではない。

身体で対話し、呼吸で聴く。

香織がほんの少し動けば、彼の手の中で世界が傾く。

その微妙なずれを修正するたびに、胸の奥で小さな痛みが生まれる。


彼女を遠ざけたいわけじゃない。

けれど、これ以上踏み込めば、もう後戻りできなくなる。


クララの、あえて感情を込めない声が遠くで響いた。

「もっと音とともに呼吸して。押さない、委ねて。」


香織が微かにうなずき、もう一度、ゲオルグと向かい合う。

音が高まり、バンドネオンの旋律が空気を押し上げる。

彼は香織の背に軽く手を添えた。

そして、そっと言葉を放つ。

「ラングサム(ゆっくりと)」


それは彼女への指示ではなかった。

自分への、祈りのような言葉だった。

(ゆっくりでいい。

 早く近づこうとするな。

 失うことを怖れずに、待て。)


彼女の軸がわずかに揺れる。

それを支えようと手を添えた瞬間、自分が踏み込みすぎていることに気づく。

——ここまででいい。

それ以上は、まだ早い。


彼はほんのわずかに距離を戻した。

その調整は、踊りのためであり、同時に、自分の感情のためでもあった。


音が静かに終わる。

二人の間に、淡い沈黙が流れた。


香織は一歩だけ下がり、深く息を吸って、控えめに目を伏せる。

その仕草が痛いほど愛しかった。


彼は視線を窓の方へ逸らした。

このまま見つめ続けたら、何かがこぼれてしまいそうだった。

(本当は——

 今日はだめだ、じゃなくて、

 もう少し先で、君と行きたいと、

 そう言いたかった。)


外の夜気が、わずかに揺れていた。

ベルリンの風は冷たく、それでも、どこかやさしかった。

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