第四章 沈黙のリーダー、揺らぐ私 第1話 もうひとりの影
タンゴスタジオ、エル・ストゥディオ・デル・ソル。
赤毛のタンゴ教師クララの声が、スタジオの白い壁に軽やかに響いた。
「中盤の群舞の構成を少し変えたいの。
香織とゲオルグのデュオに、カトリーナを入れてみましょう。」
ウォームアップのあと、汗を拭っていた香織は一瞬、耳を疑った。
カトリーナ――あの、自信に満ちた表情と強いリードを好む女性。
タンゴシューズのヒールで床を軽く打つ音が、記憶の奥に蘇る。
「カトリーナには、あなたたちの間を少し横切るように動いてもらうわ。
二人のラインが強いから、全体のバランスが取れると思うの。」
クララは合理的に言った。
でも、香織の胸の奥には、わずかな波紋が広がる。
(間を横切る……本当に、そういう立ち位置なんだ)
カトリーナが軽く微笑んで言う。
「ご一緒できて光栄だわ」
その自然なドイツ語の響きが、香織には少し遠く感じられた。
儀礼的な笑顔を返しながらも、香織の心の中では早くも暗雲が立ち込めていた。
★★★
リハーサルが始まる。
三人の動きはまだぎこちない。
香織が一歩出れば、カトリーナがわずかに先を取る。
ゲオルグは淡々と、しかし正確にリードを切り替える。
(私がいる場所、今どこ?)
タンゴは一瞬で主導権が変わる。
その緊張感に慣れているはずなのに、今日はなぜか身体の奥がざわついていた。
30分後、クララが音楽を止める。
「今日のところはここまでにしましょう。
来週、私は別のクラスがあるから、三人で動きを確認しておいてね。」
そう言い残し、彼女はスタジオを出て行った。
残されたのは、香織、ゲオルグ、そしてカトリーナ。
スタジオに流れる静寂が、少し気まずい。
その空気を破ったのは香織だった。
「それじゃ……来週の予定の確認のために、電話番号、交換しておきましょうか?」
カトリーナがすぐに頷き、スマホを取り出す。
「グーテ・イデー(いい考えね)」
「ゲオルグのはもう知ってるから、あなたのだけ教えて」
香織は自分の携帯番号をカトリーナに伝える。
それをせっせと入力するカトリーナ。
なんだかその真剣さが愛らしく感じられる。
「さあ、入力できたから、かけてみるわよ」
香織の携帯が、オールド・フォンの古めかしい呼び出し音を奏でた。
成功。
ゲオルグはと見ると、携帯を取り出してもいない。
彼の無表情の奥に、わずかな躊躇が見える。
香織は笑顔で言う。
「ダイネ・ヌマー? (あなたの番号は?)」
短い一言なのに、それを発した後に胸の鼓動が速くなる。
胸の奥でトクン…トクン…と鼓動が速まる。
(まさか、この歳で、電話番号を交換するだけでこんなにドキドキするなんて)
彼はうなずき、香織のすぐ横に立ち、彼女の携帯画面を覗き込むようにしながら、ゆっくりと言う。
「ヌル・アインス・ジーベン…(ゼロ・イチ・ナナ…)」
区切りながら、慎重に数字を並べていく。
待って待って!
まずコンタクトアプリを開けて、新規追加、名前を入力して…
あ、入力画面が日本語になってる。
さっと英字入力に切り替える、香織のその小さな動作まで、彼は黙って見つめていた。
ようやくファーストネームを入力したところで、
「ヌル・アインス・ジーベン、ウント? (ゼロ・イチ・ナナ、そして?)」
彼は同じ調子で、もう一度最初から数字を繰り返した。
声は落ち着いているのに、距離だけが妙に近い。
最後の数字を打ち終えた時、香織は小さく息を吐いた。
テストの答案を書き終えたみたいな気分だった。
「…じゃあ、かけてみて」
発信ボタンに触れる指が、ほんのわずか震える。
短い呼び出し音。
次の瞬間、ゲオルグのポケットの中でかすかに震える音がした。
彼は一瞬、驚いたような顔をしてから、ようやく携帯を取り出す。
画面を確かめて、静かに言った。
「来た」
二人は顔を上げて、目を合わせる。
「ダンケ (ありがとう)」
「ゲルン (どういたしまして)」
たったそれだけの会話。
けれど、その瞬間から、もう「たまたま一緒に踊る人」ではなくなった気がした。
身支度をしてスタジオを出ると、ベルリンの夜の冷たい空気が頬をかすめた。
息を吸うと、胸の奥が少しだけ澄んだ気がする。
香織はスマホを取り出し、画面を見つめた。
連絡先の一覧に並ぶ、“ゲオルグ Georg”という名前。
たったそれだけのことなのに、心の中で、静かな音楽が流れ始める。
“Come away with me”
ノラ・ジョーンズの低く落ち着いた声のフレーズが、そっと耳の奥に浮かぶ。
どこかへ逃げる、という意味じゃない。
遠くへ行く、ということでもない。
ただ、“同じ世界に、一歩踏み出そう”、そう誘われているみたいな言葉。
さっきまで他人だった人が、これからは、連絡できる人になる。
ただそれだけの変化なのに、世界の輪郭が、ほんの少しだけ変わった気がした。
新しい物語の扉は、音も立てずに、
でも確かに――
今、静かに開いた。




