第三章 第 2話 二人だけのレッスン初日ーーもつれたカミナータ
十月の風が、すでにベルリンの街を少しずつ冬色に変えていた。
日本だと北海道と同じぐらい緯度が高いため、ベルリンの冬は日の暮れるのが早い。
夕方の6時45分で、あたりはすでに夕闇に包まれている。
水曜日のタンゴスタジオ、エル・ストゥディオ・デル・ソル は、日中のレッスンはない日で、人影もない。
ショーケースの出場者が練習できるように、クララがスタジオを開放してくれたので、ゲオルグとの練習時間を夜の7時から予約した。
少し早めに着いた香織は、鏡の前でタンゴシューズの足首のベルトを留めながら、壁の時計を見上げる。7時まで、あと少し。
(本当に彼とステージで踊るんだ……)
胸の奥に、淡い緊張が広がる。
あの「光栄です」と言った日の夜から、彼の動きや呼吸のリズムが、何度も頭をよぎっていた。
ふとした瞬間、例えば手を洗うたびに、あの指先の温度を思い出す。
額の汗を拭われたときの、ほんの一瞬の触れ方。
皮膚に残ったのは汗ではなく、微かな電流のような感触だった気がする。
レッスン中、クララの指導を聞きながら指と指が重なったままだったことに気づいた瞬間、スタジオのざわめきがすべて遠のき、呼吸の音だけが世界だった。
――どうして、こんなにも思い出してしまうのだろう。
理由はわからない。ただ、身体のどこかが彼の気配を覚えている。
香織はふっと視線を遠くに置き、自分の胸の奥に静かに耳を澄ませた。
それはタンゴのリズムよりもずっと速く、でも確かに“あの人と踊った時の拍子”を刻んでいた。
ドアが静かに開く音。
ゲオルグが現れた。
今日は薄いブルーのシャツの上に、濃紺のカーディガン。いつものように無駄のない足取り。
「こんにちは」と小さく言って、音響機材の横にあるリモコンを手に取る。
「最初はカミナータからやってみよう」
「カミナータ」とは、アルゼンチンタンゴの基本となる“歩き”のこと。
音楽に身を委ね、相手と呼吸を合わせながら静かに一歩を重ねていく、そのシンプルな動きこそが、すべての始まりとなる。
曲が流れ出し、香織は思わず背筋を伸ばした。
バンドネオンの旋律が、薄暗いスタジオに満ちていく。
二人は自然に立ち位置を合わせ、最初の一歩を踏み出す。
音楽が流れる。
ゆっくりで、飾り気のない曲。
カミナータには、それで十分だった。
ゲオルグが、先に呼吸を整える。
香織は、その胸元を感じ取ろうと、視線ではなく、胸の奥で彼を探した。
一歩目。
ゲオルグは、少し強く踏み出した。
舞台を意識しているせいか、動きに「見せる」力が入っている。
香織は、緊張のあまり、ほんの気持ちだけ早く動きすぎた。
二歩目。
今度は、慎重になりすぎた。
早すぎまいとして、待ちすぎた。
その間に、ゲオルグの身体は、もう前に進んでいる。
三歩目。
二人の間に、言葉にできない違和感が生まれた。
引っ張られているようで、引っ張っていない。
置いていかれたようで、置いていかれてもいない。
ただ、「一緒に進んでいる感じ」だけが、そこになかった。
香織の重心がもつれ、スカートの裾が彼の足に触れる。
(まずい……焦らないで)
呼吸が浅くなる。
リードを読み取ろうとするほど、身体が固くなっていく。
音楽が終わる。
沈黙。
香織は、自分の足先を見つめた。
ゲオルグは、何も言わずに、オーディオデッキを見た。
もう一度、音楽。
今度は、香織が、歩く前にほんの少しだけ呼吸を深くした。
ゲオルグも、踏み出す前に、相手の重さが胸に来るのを、待つような間を取った。
ふとゲオルグが動きを止め、静かに彼女の肩を左右から抱えて、目を見た。
「——リラックスして、音楽を聞いて。」
その言葉が、音よりも優しく響いた。
香織は息を吸い込み、目を閉じる。
バンドネオンの音と彼の呼吸が、ほとんど同じテンポで流れていることに気づく。
次の瞬間、身体が自然に動いた。
一歩目。
床を押す音が、さっきより柔らかい。
二歩目。
どちらが先か、はっきりしない。
三歩目。
香織は思った。
――ついていく、じゃない。並んでる。
ゲオルグも感じていた。
進んでいるのに、誰かを連れて行っている感覚がない。
ただ、一緒に流れている。
完璧ではなかった。
ときどき、わずかにずれた。
それでも、さっきよりずっと、二人の時間は重なっていた。
考えるより先に、音と空気が導く。
彼の手の圧、首筋の動き、ステップのタイミング。
すべてが、目に見えない糸で結ばれているようだった。
その日のカミナータは、「うまくいった」と言うには、まだ足りなかった。
けれど、「もう二度と戻れない場所」を、確かに一歩、越えていた。




