第三章 第 3話 コーヒーへの誘いと沈黙
音楽が静かに止まった。
タンゴスタジオ、エストゥディオ・デル・ソルの中には、ピアノの余韻と二人の呼吸だけが残っていた。
香織は胸の奥がじんわりと熱い。
鏡越しに見た自分の顔が、レッスン前より少し明るく見える気がした。
「今日はここまでにしようか」
ゲオルグが音響のスイッチを切り、壁際に置いたジャケットを手に取る。
いつも通り、必要以上の言葉はない。
香織はシューズを脱ぎながら、心のどこかでまだ終わらせたくなかった。
この静けさの中で、もう少しだけ話してみたい。
もう少しだけ、彼の声を聞きたい。
レッスン中は、時間的にも物理的にもおしゃべりなどしているひまはないから、余計その思いが強くなる。
――そもそも聞きたいことが、ありすぎる。
どうしてタンゴを始めたの?
あの音楽への深い呼吸はどこで身につけたの?
ピアノやバイオリンをやっていたの?
それとも、まったく別の人生を歩いてきた人なの?
仕事は何をしているのか?
いつも週末は時間があるって言ってたけど、家族は?
「聞きたいことが山ほどあるのに、どうして、いつも何も言えないんだろう――」
自分に向けた小さなつぶやきが、スタジオの木の床に溶けていった。
そう考え始めたら、頭の中に小さな質問の泡がいくつも浮かんできて、次から次へと弾けていった。
それはときめきというよりも、“もっと知りたい”という、純粋な好奇心に近かった。
彼の沈黙の奥にある世界を、少しだけ覗いてみたかった。
どんな言葉で笑うのか、どんなコーヒーを選ぶのか。
そんな些細なことが、いまは何よりも知りたかった。
でも、同時にわかっていた。
この衝動は、踏み出したら戻れなくなる一歩だということを。
――それでも進もう。
せめて「お茶でもどう?」くらいは言ってみよう。
そのくらいの勇気なら、きっと出せる。
香織は深呼吸をして、胸の奥のざわめきを静かに押さえた。
コートを手に取りながら、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
(言うなら、今しかない)
「ねえ、ゲオルグ」
声をかけると、彼は動きを止めてこちらを見た。
「このあと、少しお茶でもどう? すぐ近くにカフェがあるの」
一瞬、空気が止まる。
スタジオの照明が白く二人を照らしている。
彼は軽く目を伏せ、考えるように息を整えた。
「Danke, aber… nicht heute.」
ーーありがとう。でも、今日はやめておくよ。
言葉は柔らかかった。
拒絶というより、静かな線を引くような響き。
一瞬、胸の奥の泉に、冷たい小石が沈んでいくのを感じた。
香織は無理やり微笑んだ。
「そっか、わかった。また今度ね。」
ギースベルトは小さくうなずき、
「じゃあまた来週」とだけ言って、ドアのほうへ歩いていった。
その背中が消えたあとも、スタジオには彼の呼吸のリズムが残っていた。
香織はしばらくのあいだ、誰もいない鏡の前に立ち、足元を見つめた。
踊りの中では、あんなに近かったのに。
言葉の世界に戻ると、途端に遠く感じる。
(どうしてこんなに、心がざわつくんだろう)
彼が触れた手の温度が、まだ手のひらに残っていた。
それが、答えのようにも、問いのようにも思えた。
気を取り直し、重い足取りで自分もスタジオを後にする。
街の音が妙に遠く感じられる。
足取りは重くないのに、時間だけが伸びていく。
香織の頭の奥で、"Time Moves Slow"の中のフレーズが、くり返し流れていた。
逃げてしまえば、きっと楽だ。"Running away is easy"
そう歌は言っているのに、自分の足は、なぜか同じ場所を離れようとしない。
だから時間だけが、妙に遅くなる。
終わったことにしようとしているのに、気持ちだけがそっと後ろを振り返る。
だから時間だけが、妙に遅くなる。
何かを待つつもりなんて、なかったはずなのに。
それでも心だけが、まだ来ない何かの前で、立ち止まってしまう。
だから時間だけが、妙に遅くなる。
ーー逃げないと決めた人の時間は、いつも少しだけ、長くなる。




