第三章 レッスンは嘘をつかない 第 1話 ショーへの誘い
土曜の午後。
ベルリンのタンゴスタジオ、エストゥディオ・デル・ソルには、まだ前の初心者クラスの音楽の余韻が漂っていた。
いま香織は、ゲオルグと共に中級クラスに参加している。
「始めましょうか」
低く落ち着いた声にうなずいて、香織は彼の手を取る。
バンドネオンの旋律が始まる。
ほんのわずかなリードで、彼の腕が動く。
その微妙な圧の変化だけで、次にどんなステップに入るかが伝わってくる。
(やっぱり、この人と踊ると、空気が変わる)
以前に数回、香織は別のスプリンガーと組んだ。
強く引き込む人、勢いで押してくる人、親切にいろいろ教えてくれる人。
どの相手とも悪くはなかったけれど、どこか音楽と体がちぐはぐだった。
けれどゲオルグとは違う。
動かされているのではなく、音の中で一緒に呼吸しているような感覚。
沈黙のまま、音と二人で話しているようだった。
曲の途中、クララの声が響いた。
「みんな、ちょっと止まりましょう。
いまのステップ、フォローの足をもう半歩前に出して。」
スタジオの空気が一瞬だけ静まる。
生徒たちが立ち止まり、クララの動きを見守る。
香織もその場で呼吸を整えた。
ふと、自分の右手がまだ何かを握っていることに気づく。
――ゲオルグの手。
(あ……まだ、握ってた……)
その事実に自分で驚いた。
クララの説明に聞き入る間も、二人の手だけが、なぜかそのまま離れずにいた。
ほんの数秒のこと。
けれど、時間が永遠に引き伸ばされていくように感じられた。
彼の掌の温もりが、指先から静かに伝わってくる。
まるで音が止んでも、まだ二人だけの音楽が続いているようだった。
(このまま説明聞いてるのも変だよね。
まるでいっときも離れられないラブラブカップルみたいに見られちゃうよね。
そんなんじゃ全然ないのに…)
香織は少し遅れて我に返り、努めて自然な仕草で握っていた手を離し、そして下ろした。
けれどその瞬間、皮膚の表面に残るぬくもりが、心臓の鼓動と混じり合った。
香織が手を離したことをゲオルグはどう思ったか?
彼の方を見ることはできなかった。
ただ、横顔のあたりに漂う静かな呼吸の気配だけが、確かにそこにあった。
クララの声が再び響く。
「はい、もう一度行きましょう!」
音楽が流れ出す。
改めて差し出されたゲオルグの手を取る。
けれど、香織の指先にはまだ、先ほど握ったまま離れなかった彼の手の“記憶”が残っていた。
レッスンの最後の曲が終わると、彼は軽く腕を離し、短く微笑んだ。
「ダンケ(ありがとう)」
それだけ言って、スタジオの隅の椅子の背に掛けてあったジャケットを手に取る。
余韻のように、香織の胸の鼓動だけが残った。
クララが手を叩いた。
「みんな、お疲れさま! 今日もいいエネルギーだったわね」
スタジオの空気がゆるみ、笑い声が混じる。
「さて、さ来月のショーケースの話をしましょう。
クリスマス前の恒例イベントよ。出演したい人、いる?」
一瞬の静寂のあと、数人の常連たちが手を挙げる。
香織は躊躇した。
踊りたい気持ちはある。
けれど、舞台なんて、もう何十年も前のことだ。
小学生の時、四羽の白鳥を踊ったバレエの発表会。
あの頃のほっそりした身体は、もうここにはない。
クララが香織を見つけ、笑った。
「香織、あなたも出てみたら?」
「えっ、私ですか?」
「あなたには、ステージが似合うわ。踊りに“物語”があるもの」
褒め言葉だった。
その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。でも、どこか試されているようにも感じた。
香織は曖昧に笑いながら答える。
「でも、私にはまだ……固定のダンスパートナーもいませんし」
その瞬間、クララの視線が後方へすっと流れた。
「心配いらないわ。ゲオルグ、あなたも出るでしょ?」
背後で椅子に座っていた長身の男が、静かに顔を上げた。
折り返した白シャツの袖口を元に戻しながら、一拍の間を置いて、
「ヤー(はい)」
その短い声だけで、空気が引き締まる。
クララは即座に頷いた。
「じゃあ、香織とゲオルグ。あなたたちをペアにするわ」
「え……」
香織の心臓は、音を立てて跳ねた。
ゲオルグは椅子から立ち上がり、ゆっくりと彼女の隣に立った。
まるで空気の層を静かに押し分けるように。
近くにいた数人が、ちらりと二人の方を見た。
「フロイト・ミッヒ(光栄です)」と香織が小さな声で言うと、ゲオルグは静かにうなずき、まっすぐに香織の目を見た。
「ミッヒ・アウホ(こちらこそ)」
その瞳は深く、静かな水面のようだった。
香織は一瞬、心臓をギュッと掴まれたような気がした。
「いいわね。ショーのテーマは、“ツァイト(時間)”。
生きてきた時間、失った時間、取り戻したい時間。
あなたたちの踊りには、その全部がある気がするの」
クララの言葉に、スタジオが一瞬、しんと静まり返る。
“時間”——
その言葉に、香織の胸がなぜかざわめいた。
彼、ゲオルグの静けさの奥にも、失われた何かがあるのだろうか。
自分の「過去」と、彼の「沈黙」が、ひとつの曲になる——そんな予感がした。
スタジオの窓の外では、ベルリンの夕暮れが深くなっていた。
白い息が、ガラスに淡く映る。
香織は、まだ温もりの残る右手をそっと見つめた。
踊るたびに確かめる。
嘘をつけないのは、音でも言葉でもなく、
――どうやら身体のほうらしい。
レッスンが終わり、参加者たちがスタジオを後にしていく。
ゲオルグはいつものように言葉少なに、コートを手に取った。
香織は声をかけようと、一歩だけ前に出る。
「…あの、来週からリハーサルが始まるんですよね?」
彼は振り返り、短くうなずいた。
「水曜日、午後7時」
それだけ言って、扉の向こうに消えた。
残された香織は、しばらくその扉を見つめていた。
閉まったはずのドアの向こうに、まだ彼の気配が残っている気がして。
そのとき、胸の奥で、音楽が鳴り出した。
どこかで聞いたことのある、軽やかで、落ち着かない旋律。
言葉よりも先に、身体がそれを思い出していた。
――Something’s coming…
はっきりとした歌声ではない。
ラジオの奥から流れてくるような、少し曖昧な響き。
それでも、メロディだけで、意味は伝わってきた。
それは、ミュージカル『ウエストサイド・ストーリー』の中で、主人公の青年が、まだ顔も知らない“誰か”を待ちながら、夜の街を歩く場面で歌われる曲だ。
何が起こるのか、自分でも分からない。
ただ、「きっと何かが来る」という予感だけが、胸を満たしている。
恋なのか、運命なのか、幸福なのか、本人にも分からないまま、心だけが先走っていく。
意味ははっきりしないのに、気配だけは確かにある。
まだ姿を見せていない何かが、角を曲がった先で、息をひそめて待っているような感じ。
香織は、理由もなく深く息を吸った。
不安でもなく、安心でもなく、ただ「これまでと同じではいられない」という予感だけが、静かに、確実に、胸の奥に灯っていた。
自分でも不思議だった。
彼とはほとんど話してもいない。
笑わせたわけでも、特別な視線をもらったわけでもない。
それなのに、胸の奥だけが、勝手に先へ進もうとしている。
それは迎え入れるには、まだ早すぎる何かで、名前をつけるには、少し無防備すぎる感覚だった。
けれど踊りは、確かに彼女の奥に眠っていた何かを、静かに揺り起こしていた。
次のレッスンまでの4日間が、こんなにも長く感じるとは、思わなかった。




