第二章 第8話 母と娘のカフェテーブル
ベルリンの金曜日、曇り空の色をそのまま映したような柔らかい光が街に落ちていた。
香織はクロイツベルクの静かな通りを歩き、約束したカフェの扉を押した。
店内にはコーヒー豆の香りと、エスプレッソマシンの低い蒸気音。
週末前のゆるやかな空気が流れている。
窓際のテーブルにリサが座っていた。
ラテを片手に、なにか記事を読んでいる。
「ママ、ここ!」
顔を上げた瞬間の柔らかい笑顔は、子どもの頃と変わらないのに、どこか大人の女性の輪郭を帯びていた。
香織は席に着き、ホットカプチーノを頼む。
温かいものを両手で包むだけで、自分が思っていた以上に緊張していたことに気づく。
リサは軽く身を乗り出して言った。
「最近、どう? 仕事もタンゴも。」
「……タンゴ?」
その単語が出た瞬間、香織の胸がわずかに揺れた。
リサは敏感にそれを拾った。
「ほら、言い方が怪しい。」
リサがにやりと笑った。
年齢はまだ若いのに、その目は妙に大人だ。
香織はカプチーノを一口飲み、湯気の向こうの娘の顔を見つめた。
「うーん……ちょっと、特別な人が、いるかもしれない。」
リサの眉が跳ね上がる。
「え! ママが“特別”って言うの珍しくない?」
香織の頬が少しだけ温かくなる。
スタジオでゲオルグに触れられたあの瞬間が、ふいに胸をよぎった。
そこでは緊張と沈黙が支配していたけれど、いま娘に話すと、それがどこか甘くほどけていく。
「なんていうか……」
香織は言葉を探した。
「一緒に踊ると、呼吸が変わるのよ。自分の身体じゃないみたいに。」
リサは両肘をテーブルに置き、わくわくを隠しきれない顔で身を乗り出す。
「ダンスで? そんなことある?」
「あるのよ。」
香織は少し笑った。
「何も言ってないのに、通じてしまう瞬間がある。」
リサの瞳がきらりと光る。
「それ、完全に恋じゃん。」
その言葉に、ハッと胸をつかれ、香織はラテのカップを両手で包んだまま、しばらく何も言わずにいた。
リサは急かすことなく、ただ母の表情が変わるのを静かに待っている。
(……そう。これ以上は、期待しないほうがいい。)
自分の胸の奥にかすかに生まれた熱——
それは本物の恋とは違う。
もっと曖昧で、ダンスの延長にある幻想のようなものだ。
香織はゆっくり口を開いた。
「リサ。あのね……
私、あんまり自分の気持ちに期待したくないの。
彼は特別な態度は一切取らないし、淡々としているし……
そういう人に自分の気持ちを重ねても、ただの思い込みになるだけ。」
リサは少し驚いた顔をした。
「ママってさ、好きになったら突っ走りそうなのに。」
香織は苦笑した。
「若い時はそうだったけどね。それで失敗もしたけど。
それに、もう若くないし。
“自分だけ熱くなってた”なんて、立ち直れないわ。」
そして静かに続ける。
「それに……タンゴってね、危ないのよ。
身体が勝手に感じてしまうことがある。
勘違いのまま進むのが一番怖い。」
リサは頷いた。
「だから、あくまで“ダンス仲間”でいる、と?」
「そう。」
香織は落ち着いた声で言った。
「線を引いておきたいの。
彼に変な期待をもたれたくないし、私も期待したくない。」
自分で言葉にしたことで、ようやく胸のざわめきに名前がついたような気がした。
——特別ではある。
でも、恋ではない。
そして恋にしてはいけない。
そう自分に言い聞かせると、胸の奥の熱はすこし形を変えた。
痛みではなく、“扱い方を理解した安心感” に近い。
リサは優しい声で言った。
「ママってさ、本当に大人だね。
でも……その“線”を越えたくなったら、その時は教えて。」
香織は小さく笑い、
「まあ、半年くらいは何も起きないわよ。」
と冗談めかして返した。
リサはクスクス笑ったが、香織の胸にはその言葉が不思議な重さで残った。
——半年。
それは、香織は知らないけれども、クララがふと呟いた
「半年あれば十分ね」
という言葉と、どこか響きあっていた。
カフェの窓の外では、曇り空の下、ベルリンの街が淡い色で揺れている。
香織は深く息を吸い、静かに決めた。
私は自分を見失いたくない。
だから私は、ダンス仲間として接していく。
まだ名前も呼ばない
まだ距離も詰めない
まだ認めない
——でも、少しだけ気になってしまう。
その程度に抑えておく。
そう結論づけたところで、リサとともに香織は席を立った。
カフェを出ると、ベルリンの空は一面の淡いグレーで、
しかし雨は降りそうで降らない、そんな揺らいだ天気だった。
気温は少し低い。
コートの襟を立て、香織は歩き出す。
曇り空の下で、街はどこか静かに息をしている。
リサとの会話の余韻が、胸の奥にまだ温かく残っていた。
(……呼吸が変わる人。
そんなこと、誰にでも起きるわけじゃない。)
思った瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。
あのレッスン4回目の一歩。
組んだ瞬間の沈黙。
汗を拭われた指先の感触。
それらを思い出すと、また身体の内側で小さく熱が灯るのがわかった。
でも、そこで香織は首を小さく振る。
(だめ。これは勘違いしたら恥ずかしいやつ。)
あの人は、何も言ってこない。
距離を詰めない。
態度も変わらない。
レッスンが終われば、淡々と帰っていく。
(あれがあの人の“普通”なんだもの。
私だけが勝手に意味をつけたら、滑稽よね。)
自分にそう言い聞かせる。
むしろ言い聞かせるしかなかった。
信号が赤になり、足を止める。
風が頬に当たり、熱の残りを少し冷ましてくれる。
香織は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
(私は……ダンス仲間でいればいいのよ。)
それは静かな決意だった。
恋心に火がついたわけではない。
でも、何かが芽を出しかけている。
それを“恋”と呼ぶ前に、しっかりと土をならしておきたい。
仕事も、生活もある。
これ以上、自分の世界を混乱させたくない。
(あの人は、私に特別な気持ちなんて持っていない。)
そう結論づけると、胸の奥にほんの少しだけ寂しさが落ちた。
でも、それは痛みではなく、大人としての自制が生む静かな重みだった。
信号が青になり、また歩き出す。
ベルリンの街路樹の影がゆっくりと伸びて、その中を香織は歩く。
淡い曇り空の下で、心の奥には“名前のつかない温度”だけが静かに灯っていた。
——これは恋じゃない。
でも、ゼロでもない。
ただ、まだ認めないだけ。
そう言い聞かせた瞬間、どこからともなく、あのメロディが流れ出す。
低く、少し湿ったピアノのイントロ。夜の空気みたいに、静かに、でも確実に入り込んでくる。
《《You don’t know what love is…》》
その一節だけで、胸の奥を見透かされた気がする。
「あなたはまだ知らない」
——いいえ、違う。私は知っている。だから、こんなふうに立ち止まっているのだ。
それなのに。
彼の何気ない視線や、ふとした間の沈黙が、妙に気になる。
言葉にならない余白に、意味を探してしまう。
《《You don’t know how lips hurt…》》
そんな痛み、もうとっくに知っているはずなのに。
知っているからこそ、もう踏み込まないと決めたはずなのに。
それでも、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけなら、いいんじゃないかと。
もう一歩近づいたところで、何が壊れるわけでもない。ただ、少しだけ、確かめるだけ。
そうやって、理由をつける自分がいる。
メロディは淡々と続いていく。感情を煽るわけでもなく、ただ事実を並べるように。
それがかえって、逃げ場をなくす。
——これは恋じゃない。
もう一度、心の中で繰り返す。
けれど、その声はさっきよりも少しだけ弱くて、代わりに、あの旋律の方が、はっきりと輪郭を持ち始めている。
気づけば、足は止まっていない。
行かない理由はいくらでも思いつくのに、行く理由はひとつもないのに、それでも、なぜか、進んでしまう。
まるでその曲が、静かに背中を押しているみたいに。
——あなたはまだ知らない、と言いながら。
——それでも、行くのね、とでも言うように。
自分だけが知るその小さな揺れを胸にしまい込み、香織は家路へ向かった。




