第97話 海の悪魔
「おい、なんだアレは?」
「えっ?」
甲板にいる乗客たちが騒ぎ出したのは、それから少し経った頃だった。
最初は気にも止めていなかったクレハだが、徐々に大きくなっていく騒ぎに何事かと意識を向ける。
乗客たちの視線は、進行方向の二時方向に集中していた。
視線の先には、自然に発生したとは思えない不自然な渦潮が起きている。
――そうクレハが認識した途端。
海面がいきなり大きく盛り上がった。
「海魔だぁ!」
「きゃああぁああぁぁああぁあ!!」
海魔が立てた波に船が煽られ激しく揺れる。
白波の中から現れたのは――。
「クラーケン……!」
クレハも驚きを隠せなかった。
クラーケンとは、海に生息する大型の魔物の一種で、烏賊を巨大化したような見た目だ。
通常の烏賊と違うのは、胴体の部分が非常に短く耳のすぐ下に目があること。そして触腕が太く育ち、力も強い。目の前のクラーケンの触腕は、この船の帆柱よりも太かった。
あの触腕を無造作に叩きつけるだけで、こんな小さな旅客船など簡単に真っ二つになり、海の藻屑と化すだろう。
過去に幾多の旅客船からばら積み船までを沈めてきた、文字通り海の悪魔だ。
「おいおい! 今の時期、クラーケンはこの辺りにはいないはずじゃないのか!?」
「そ、そうだ! この時期は北の方の海で産卵期を迎えているはずじゃ!?」
乗客は突如として現れた招かれざる客を前に狼狽し、驚き嘆くことしか出来ない。
彼らの言う通り、本来この時期クラーケンをはじめとした海魔の多くが、大陸南西付近のこの海域には滅多に現れない。
魔物とはいえ生物だ。生物は種の繁栄のため、決まった時期に決まった場所で生殖活動を行うことが多く、クラーケンもその例に漏れない。
今の時期は本来であれば、大陸の北から北西辺りの海域で、産卵期を迎えているはずなのだった。
とはいえ、こちらがどう考えようと通説がどうであろうと、現実として海魔は目の前に現れたわけで、今もしっかりと船を視界に収めている。
「で、でけぇ……」「マジかよ……」
「ひ、怯むな! 前に!」
騒ぎを聞きつけた全身に鎧を纏う旅客船の守備隊が駆けつけ、一斉にクラーケンへ弓を構える。
だが、相手は触腕が船の帆柱よりも太い超大型の魔物だ。
いくら矢が当たったとしても、蚊に刺された程度にも感じないだろう。
クレハが冷静に、そしてどこか呑気に考えている間にけたたましい爆音が轟いた。
大砲が発射されたのだ。
旅客船たるこの船にも、魔物の襲撃に備えた最低限の迎撃手段は搭載されている。
もっともそれは攻撃のためというよりは、爆音と閃光が主な、魔物を威嚇して追い払う役目の方が大きい代物だ。
立て続けに発射される砲撃は、時折的を外しながらもクラーケンに命中する。
「――――――」
結論から言えば、それは逆効果だった。
追い払うための砲弾の雨を浴びたクラーケンは、怒りを顕にし、触腕を振り乱している。
なまじ威嚇用のものだったので、大した損傷を与えることも出来ず、ただただ余計な刺激を与えるだけになってしまっていたようだった。
――触腕の一本が、三本ある帆柱の一本を中程からへし折った。
「うわああぁぁぁあああぁぁ!!」
「きゃぁぁぁぁあああああぁぁぁ!!!」
薙ぎ払われた帆柱と、その破片が船体に落ちてくる。
どうしてこう野次馬というものは、身の危険を顧みずに高みの見物を決め込むのか。
クレハには理解できなかったが、自業自得だとしても目の前で誰かが傷つくのを、見過ごせるはずもない。
「ふぅ」
クレハはおもむろに左手のひらを構え、落ちてくる帆柱へと向けて魔術を放つ。
「〝焔〟!」
放たれた炎弾が帆柱に命中すると、真っ黒な灰へと姿を変え、はらはらと宙を舞う。
突然放たれた魔術と九死に一生を得たことに、乗客たちは呆気に取られていた。
いまだ動こうとしない乗客たちに呆れながらも、被害が出る前に早く避難させなければ、とクレハが静かに乗客たちの傍へ寄って声を掛ける。
「ここは危険です。早く中へ」
「お、おぉう」「ありがとうございます……!」「助かった……」
助かった、と言うにはまだ早い。脅威が去ったわけではないのだ。
先程からクラーケンは雨霰と自身に向けられる砲弾に相当お怒りのようで、怒りのままに触腕二本を振り乱している。
今はまだ無事だが、なにかの拍子に先ほどと同じように帆柱が折られるか、最悪は船体が中ほどから真っ二つになるかもしれない。
その時、船が高波に揺られているのとも、クラーケンが暴れているのとも違う、微細に振動しているのをクレハの靴底が感じ取った。
緊急脱出用の補助推進装置が始動したのだろう。
遅すぎる気もしたが、安全な時期とあって船員たちも油断していたのかもしれない。
それもあり得ないことだが。
『船長です。周知の通り、大型のクラーケンが現れました。よって本船は、これより補助推進装置を用いた緊急脱出を行います。乗客の皆様におかれましては、手近な手すりや固定された家具等にしがみつき、衝撃に備えてもらいますようお願いします。繰り返します――』
なんとも乱暴な案内が船内に響き渡る。
この緊急事態となれば、確かに致し方ない部分もあるのかもしれないが、それにしたってもう少しなにか他に言いようはなかったのか。
そんな益体もないことをクレハが考えている間にも、振動はどんどんと大きくなっていく。
(……ルーイ、気持ち悪すぎて死ぬんじゃないかしら)
船室でバケツと友達になっているであろう少年のことを思うと、気の毒を通り越して笑いが込み上げてくる。
先程のこともあってクレハがいい気味だ、と嫌らしく口角を吊り上げた。
当然だが、海魔たるクラーケンには、旅客船や乗客たちの事情など関係ない。
痛くも痒くもないが鬱陶しい砲撃や矢の数々に、いよいよ怒り狂ったクラーケンが、二本の触腕をまるで地団駄を踏むかのように、強かに海面へと叩き付け始めた。
「くっ!」
先ほどよりも高い波が船を襲い、前後左右に大きく煽られる。甲板はびしょ濡れで、積み荷の木箱が大きく滑り、樽が転がり何個も海へと投げ出されていく。
このままでは触腕が直撃しなくとも、船が転覆してしまうのは時間の問題だろう。
「怯むなぁ! 打て! 打てぇ!」
守備隊の隊長らしき者の号令で弓の一斉掃射が行われるも、触腕を激しく振り乱し始めたクラーケンには然程も効果がない。
矢の半数以上が高波で無力化されるし、足元も覚束ない中で放たれた矢は、明後日の方角へと飛んでいく。
運良く当たっても、たったの数本といったところ。
同時に大砲による砲撃も続けられているが、やはり直接的な攻撃力を持たない砲弾では、さしたる効果は認められないようだった。
「……マズいですね」
どうやらこの船には、自分とルーイ以外の魔術師は乗船していないようで、攻め手がないも同然であった。
プイスから王都に向かう船だからそれも当然で、大半が観光客なのだろう。
義務的に守備隊は配備されてはいるが、大型の海魔に対応出来るような戦力は持ち合わせていないようだった。
――あの騒動を無事乗り越えられたのだ。今更、誰かを傷付けられてなるものか。
クレハが静かに決意を固め、守備隊が無意味な攻撃を続ける甲板へと歩いていく。
その手には武具召喚によって漆黒の大鎌――アダマスの大鎌がしっかりと握られていた。
クレハの身の丈以上の大鎌で、鎌の刃と石突は漆黒の鉱石、柄はヤドリギ。
口金の部分に灰を固めて糸にし編み込まれたような飾り糸が二本、潮風に煽られ激しく揺れている。
長年使い込まれた刃先はくすんではいるが丁寧に砥がれ、眩い陽光を浴びて妖艶に煌めいていた。
「!? 此処は危険だ! 早く……中へ、って」
「助太刀いたします」
「あんた、まさか討伐ギルド要員か!?」
守備隊隊長と思われる大柄な男が、渡りに船か、といった顔を浮かべる。
対して、クレハはゆるりと凛々しい表情のまま首を振って答えた。
「残念ながら違います」
「!? だったら下がってろ! 素人が相手に出来るようなやつじゃねぇ!」
一転して顔を真赤にし、唾を撒き散らして怒声をあげる守備隊隊長。
クレハはその懸命な言葉に感心しながら、静かに左手のひらをクラーケンへと向ける。
「私が魔術で牽制します。弓を使える方は援護を、その他の方々は船員の手伝いと、乗客の皆さんの安全確保に務めていただければ」
「だから! 素人が相手に出来るよ……うな……っ!」
隊長の言葉は尻すぼみに消えていく。
それもそのはず、隊長の目線の先には、クレハの髪と同じ深い紅の魔術方陣が展開されていた。
「私はギルド要員でもなければ、戦闘の専門家でもありませんが」
クレハの左手のひら、深紅の魔術方陣に体内から魔素が供給されていく。
供給された魔素は魔術方陣へ、そしてそこに刻まれている魔術の方程式をなぞり――
「〝魔術師です〟」
唱えた途端、炎弾が発射される。
大砲の砲弾と同程度の大きさの炎弾。それが狙い過たず、クラーケンの右眼に直撃した。
「――――――!!!」
どす黒い煙が立ち上り、叫びにならない叫びを上げるクラーケン。
続けてもう一発。今度は右の耳に当たる。
文字通りの身を焦がす状態となったクラーケンが、痛みに動きを止めている。
「今のうちに」
「! お、おぅ!」
守備隊隊長が怒鳴り散らしながらも、テキパキと部下たちに的確に指示を飛ばす。
彼はきちんとした指揮官であったらしい。
部下たちも驚き戸惑いながらも、隊長の指示通りに動き出しており、練度の高さが窺えた。
大陸を真っ直ぐ目指していた旅客船だが、クラーケンが暴れたことにより船首は大陸とは掛け離れた方角を向いていた。
その船首が回頭し始め、改めて大陸ダーナへと向き直す。
『船長です。これより 補助推進装置による緊急離脱を試みます。改めて手近な固定されたナニカにしがみついてもらいますようお願いします』
艦長からの案内が耳朶を打つ。
もはや船は微細では済まない振動に揺られており、まるで心臓の鼓動のような振動が足元を揺らす。
そして――。
『緊急離脱開始!』
――砲撃の数倍はあろうかという轟音。
それと同時に旅客船にあるまじき推力が発生する。
身構えていたクレハですらも、思っていた以上の推力に思わずよろめき、たたらを踏んだ。
まるで竜巻のような爆音を轟かせ、高く上がる白波を切り裂きながら、航行していた時の三倍はあろうかという速度で、旅客船が大陸ダーナ目掛けて真っ直ぐ突き進む。
「――――――!」
クレハが振り向けば、クラーケンはようやく目の前から獲物が消えたことに気が付いたようだった。
だが、もう遅い。
海魔といえどもクラーケンの泳ぎは、そこまで速くはない。精々が一〇ノット――一般的な貨物船程度の速度しか出ないと言われている。
大海原の中を宛もなく、ただただ逃げるだけならいずれ追いつかれていたのかもしれないが、目的地たる大陸ダーナは、もう既にクレハの視界に収まりきらない程に近付いてきている。
「……なんとか凌げましたね」
小さくなっていくクラーケンから目を離さず、クレハは独りごちる。
あれ程の大型のクラーケンに、それも時期外れに出会してしまったのは災難だったが、それが大陸の近くだったのは不幸中の幸いだ。
王都の港にはこうした海魔の襲来に備えた大砲や、バリスタと呼ばれる超大型の弩砲が配備されている。
これ以上近付けばそれらの射程範囲に入り、大型のクラーケンとて無事では済まない。
この距離なら、もう心配はいらないだろう。
結局使うことのなかったアダマスの大鎌を武具召喚で収納し、クレハはいまだ大声で指示を出している守備隊隊長の横を通り過ぎ、船室へと向かった。
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当然といえば当然だが、この緊急事態においても船室から一歩も出てこなかった(出られなかった)ルーイは――それはそれは言葉に出来ないような状態だった。
さすがに見兼ねたクレハは着港するまでの間、直向きにルーイの介護をし続けようとして――先ほどのことを思い出してやめた。




