第96話 「ようやく……」
遠くで大きな魚が跳ねた。
蒼い海に白波が立つ。波紋は少しづつ大きくなって船に当たるも、中型の旅客船はこの程度の波では何一つとして変わらない。
この距離間であんなに大きく見えたのだ、魚の中ではかなり大きいはずだ。鮫かもしれない。
もしくは海豚か鯱か。さすがに鯨ほど大きくはなかったように思えるが、クレハには当たりをつけることしか出来ず、潮風が嫐る髪を耳に掛け、回想から意識を戻した。
「………………」
少し余計なことまで思い出してしまった。
とりあえず、ルーイは後で存分に焼き尽くしてから、海に投げ捨ててやろうと心に固く決意する。
なにも理不尽なことはない。当然の報いだ。
ついで自身の衣服に目を向ける。
いま外套の下に着ているのはプイスでタリアがくれた服だった。
ゆるめのブラウスにマキシ丈のフレアスカート。
いかにもタリアらしい服が、自分に似合っていないのは自覚しているが、選んでくれた本人は何故だか鼻をふんすと鳴らして満足げだった。
――少し胸に余裕があるが――アレは余計な脂肪の塊だ。
考えないことにする。
あの日、クレノアが選んでくれた服は〝魔女の庭〟を踏破したことや、〝封印の祠〟でデビルゴートと戦ったことでボロボロになってしまった。
いくら厚手の外套を纏っていても、クレノアが丁寧に縫製して仕立ててくれていたとしても、さすがに魔術的な強化も施されていない庶民が着るような衣服が、魔物たちの爪や牙に保つはずもなかった。
タリアに捨てられそうになったところを必死に止め、今は綺麗に畳んで、プイスで調達したトランクに入れて大事にしまってある。
――こんなにボロボロにしてしまった服を持って行けば、クレノアは怒るだろうか。
だが、自分としてもあの服は気に入っていたのだ。せっかくクレノアが仕立てた服を、このまま捨てることなど考えられない。
怒られるのを覚悟で持ち込んで直してもらおう。
その後、専門の魔術師に物質強化の魔術を掛けてもらえば、そう簡単には傷付かなくなるだろう。
「おっ! 見えてきたぞ!」
「本当!?」
などとクレハが考えていると、甲板にいた夫婦らしき男女が声をあげた。
その声を聞いてクレハも自然とそちらへ目を向けた。
まだまだ遠く時間は掛かりそうだが、確かに正面に見えるのは大陸ダーナだ。
(ようやく……)
既に当初予定していた旅程を何日も過ぎてしまっているが、プイスでの騒動が落ち着いた時点で、カトレアが念話魔術でビオラに一報を入れてくれている。
結局ビオラの思惑通り、カトレアに相談し、ルーイを頼ることになってしまったことをおもしろく思わない気持ちはあるが、切り替えて表情を引き締める。
まずはビオラに、プイスで起こった委細を報告しなければならない。
その後の身の振り方はビオラとの相談次第だが、やはり自分としては王立マルクス魔術師学園に通い、魔術を一から学びなおすべきだろう、と考えている。
これまではビオラとの修行、もしくは独学で魔術を学んできたが、あの学園の教諭たちは次世代の金の卵を育てるため、王国でも有数の魔術師たちが集められていると聞く。
きっと多くのことを学べるはずだ。
今後のビオラは〝時守の巫女〟としてのお役目を果たすため、多方面に駆り出されることになるだろう。
そうなれば自分との修行の時間など、十全に取れるはずもない。
一体どの程度の時間が残されているのか――そもそも〝ウルティマ〟の復活は本当に成されるのか――全てを見定めるには、時間が足りないのかもしれない。
「……忙しくなりますね」
青く、どこまでも広がる海と、綿あめのように浮かぶ空を見ながら、クレハは独りごちた。




