第95話 「〝死ね変態っ〟!」
「申し訳ございませんでした。あの者には後ほど、きつく言って躾けておきますので」
深く頭を下げる女性店員の頭頂部を見ながら、少女は少し慌てたように言う。
「いえ、その、私は特に気にしていませんので、お気になさら、ず……?」
二人は店の前に立っていた。
客の前で取り繕いもせず、ありのままを曝け出してしまったことを、反省はすれど後悔は微塵もしていない。
面を上げた女性店長の顔は、いっそ清々しい。まるで生肉を切ったまな板と包丁に、煮え滾る熱湯を掛けて消毒したような気分だった。
「船旅に出られ、森を歩かれるということですが、くれぐれもお気を付けて。お客様の旅路に幸多からんことをお祈りしております」
「ありがとうございます」
一転して、引き締まった表情を向ける少女は少し俯いたあと、そっと告げた。
「また……服を選んでもらってもいいですか?」
「! 勿論です!」
この仕事をしていて良かった。
久しく自分の中で燻っていた感情を自覚し、彼女は心から少女に感謝した。
今日は帰ったら何着でもデザインを起こせそうな気がした。もちろん、そのモデルは真紅の髪に翡翠の双玉を携えた少女だ。
勝手だが、しばらくの間は彼女に専属モデルとなってもらおう。
「私はクレノア=ピーと申します。もしよろしければ、お客様のお名前をお聞かせいただけないでしょうか」
「ご丁寧にありがとうございます。私はクレハ=オリヴィアと申します」
「こちらこそありがとうございます! 良いお名前ですね! ……って、名前が少し似ているのに言っても、説得力に欠けますね」
「そうでしょうか。私は貴方のような……いえ、ピー様のような方と似たお名前で光栄ですよ」
「是非ファーストネームでお呼びください! 私も良ければクレハさんとお呼びしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです、クレノア様」
二人はどちらからというわけでもなく優しく微笑みあった。
クレハは購入したポーチを腰にさげると、外套を羽織ろうとして――やめた。
「せっかく素敵な衣服を頂いたのです。外套は船に乗るまで羽織らないでおきます」
「ありがとうございます! きっと服たちも喜んでいます」
最後にもう一度、お互いに優しい笑みを向け合ってクレハは告げる。
「それでは、これで。また来ます」
「はい! いってらっしゃい!」
自然と己から出た言葉にクレノア自身も驚いたようだった。ハッと口に手を当て、それから少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「いってきます」
俯いていた顔を上げた時、もう深紅の髪の少女は前を向いて歩き始めていた。
クレノアはその背中が見えなくなるまで見詰めていたが、クレハが振り返ることは一度もなかった。
●
その後、船に乗ったクレハは二日間波に揺られてプイスへと辿り着くことになる。
何日も船に乗るような船旅は始めてだったが、存外に悪くない。
潮風が嬲る髪を耳にかけながら、クレハはこれからのことを思案する。
ビオラはカトレアを頼れ、と言っていたが別に先代に頼らずとも、自分一人で何とでもなるだろう。
弱い弱いとビオラからは言われ続けているが、それは相手がビオラだからであって、並大抵の魔物の類など塵芥にも等しい。
客観的に見ても自分にはそれくらいの力量はあるはずだと、クレハは自負していた。
なにより〝封印の祠〟で何が起きているのか。
一刻も早く確認し、ビオラに報告する必要があるだろう。
(道案内も護衛もいらない。私一人でどうとでもなる。プイスに着き次第、早急に〝封印の祠〟へと向かわないと)
「ようこそ、プイスへ! 皆様のご来島を心からお待ちしていました!」
クレハがあれこれと思案している間に、どうやら船は無事プイスに着港したようだった。
元気な少女の声が耳に届いたが、クレハはそれを無視して素早く島に降り立つと、目についた露店でプイス全体の地図を購入した。
そうして決意を固めたクレハは、プイスの地に足を着けるやいなや転移魔術の座標を確認し、すぐに目的の場所へと駆け出した。
●
道中の魔物たちはクレハの思っていた通り、どれも取るに足らない小物たちばかりだった。
始めて足を踏み入れた島は、少しばかり濃い植生が鬱陶しかったが、全く問題には感じない。
船を降りてから数時間という早さで、クレハは〝魔女の庭〟へと辿り着いていた。
そして――。
「………………」
涙目になっていた。
(さすがにこれは……)
文献で見たことがあったので知ってはいたが、なんなのだ、この霧は。
まるで全身を舐られるように身体に纏わりついてくる霧に、生理的な不快指数は右肩上がりのうなぎ登りだ。
そして、なにより――。
(この異臭……)
饐えたような黴臭いような刺激臭。
生き物が腐って何年経っても、こんな異臭は発生しないだろう。とてもではないが、自然発生したものとは思えなかった。
(ビオラ様のおっしゃった通り、この地で何かが起きている。早く調べないと)
――とはいえ。
(けどもう――!)
涙目になりながら、クレハは文字通り泣く泣く撤退を決めた。
情けない気持ちも悔しい思いもあったが、クレハの鋼の精神力を持ってしても、いかんともしがたい生理的嫌悪感には抗えなかった。
(……ビオラ様の言った通り、一度カトレア様に相談しよう。それからでも遅くはないはず)
クレハは転移魔術を行使する。
――しようとした。だが――。
「!」
魔素が霧散する。
(そうか! これが……!)
ビオラが言っていた魔素を霧散させ、魔術を魔術たらしめなくする霧。
〝魔女の庭〟を王国の調査団が踏破出来ずにいる要因の一つ。
「厄介ね――!?」
口を開いた瞬間、ほんの少しだけ霧が口に入った。
次の瞬間、クレハの全身を鳥肌が襲う。
ほんの少量の霧がまるで口内を蹂躙するかのように暴れ回り、刺激した。
生きた白魚をそのまま食す、というのは、もしかしてこういう感覚なのだろうか。
仮にそうだとすれば、自分には到底無理だと思った。
(気色悪い!)
もはや一刻すらも居たくない。
しかし、転移魔術は使えない。
クレハは全速力で逃げ帰った。
●
「……気に入ってるのに」
来た道を戻ったクレハは、途中たまたま見付けた静謐な泉で小休止を挟んでいた。
ここは霧もなく、魔物の気配もない。まさに砂漠の中にひっそりと現れたオアシス、といったふうの泉だった。
霧もないここからなら転移魔術も問題なく行使出来るだろうし、プイスまで時間を掛けずに戻れるだろう。
――その前に。
「こんなところではしたない、とは分かってはいるけれど……もう我慢出来ない!」
クレハは着ていた外套と衣服、下着すらも脱いで産まれたままの姿になる。
そして、そのまま泉の水でジャブジャブと勢いよく衣類を洗い出した。
例の霧や異臭が纏わりつかないよう念入りに。しかし、傷まないよう丁寧に。
一通り洗い終わったので、木に吊るして下に魔術で焚き火を起こし、ゆっくりと乾かす。
クレノアが仕立てた大切な服だ。
万が一にも燃えたりしないよう、こちらも細心の注意を払って。
数分もすれば乾くだろう。その間、自分も水浴びをしようと泉に足を踏み入れた。
「……!」
服を洗っていた時はひんやりと心地よかった水も、身体に浴びればとても冷たく感じた。
だが、それ以上に例の霧と異臭を一刻も早く洗い落としたい――その一心で身体に水をかけ、手で柔肌を擦り続けた。
――この時、回りのことが全く耳目に入らないほど、クレハは確かに油断していた。
いつも冷静で警戒を解かない彼女らしくない、致命的なミスだった。
「! うっお!」
唐突に誰かの声が聞こえた。
「!」
――油断した。
そう思って振り返った次の瞬間には、クレハの目の前で高い水柱が上がっていた。
「み、水……! う、がぼ、ぐ! ……ぼが、が!」
落ちてきた誰かは滅茶苦茶に暴れていた。
そう深くない泉。子どもならば溺れる心配もあるだろうが、少なくとも大人ほどの背丈があれば、まず溺れるはずもない。
にも関わらず、目の前の誰かはまるで大海のど真ん中にでも放り投げられたかのように、一心不乱に暴れ続けている。
その光景があまりにも唐突で、しかも獅子奮迅な様子だったので、クレハは数瞬の間、呆気に取られてしまった。
「………………」
目の前の何者かは尋常ではない暴れようだ。
このまま放っておけば、本当に溺れてしまうのではないかと、クレハがさすがに手を差し伸ばそうとして――。
辺りから無数の足音が聞こえてきたことで、意識をそちらへ向けた。
程なく、十数頭のガルムたちが森の奥から姿を現した。
大型犬を一回りほど大きくしたような体軀は、魔獣とはいえ立派の一言に尽きる。
目は爛々と赤く輝き、口からは涎を撒き散らし、獰猛な唸り声を震わせていた。鋭い牙と強靭な爪にかかれば、乙女の柔肌など簡単に切り裂かれ、瞬く間に物言わぬ餌へと変わり果てるだろう。
もっとも、それも相手がか弱き町娘ならば、の話だ。
そして、自分はそういったか弱さとは無縁の場所に立っている。
クレハがガルムたちに左手のひらを向ける。
炎熱系下位魔術〝炎鎖〟でも問題なく目の前の魔獣たちは葬れるだろうが、油断はしない。
霧と異臭に阻まれ、撤退を余儀なくされたことに、少なからず鬱憤が溜まっていたのもある。
クレハはもっとも慣れ親しみ、使い込んでいる炎熱系中位魔術〝焔〟を放――。
――ふにょん――。
「!?」
――てなかった。
いきなり感じた刺激に驚き、魔素が乱れ、展開していた魔術の方程式が霧散する。
もしもこれが、身体的に何らかの痛みを伴うようなものであったのならば、クレハの意識は乱れなかっただろう。
そんなものはビオラとの修行で、嫌というほど繰り返してきたからだ。
――ふにょにょん――。
だが、今受けている刺激は痛みを伴うようなものではなく、不快感と嫌悪感が背筋を走るようなものだった。
そちらに目を向ければ、先ほどから目の前で暴れていた何者かが、クレハの胸元にまで近付きあろうことか――。
(な、なんなの!?)
その時、ガルムの一頭がクレハたち目掛けて飛び掛かろうと、四足を踏ん張っている姿が視界の端をかすめた。
さすがのクレハとて、こんな無防備な状態でガルムの攻撃を受ければ、結果はそこいらの町娘と変わらない。
「――スッ」
一呼吸で集中。
改めて左手のひらを向け、魔術の方程式を組み上げ魔素を通す。
慣れ親しんだ魔素の感覚が身体を駆け巡り、そして――。
「〝焔〟」
左手のひらから無数の炎弾が射出される。
全ての炎弾は狙い過たず、十数頭に及ぶガルム全頭へと命中した。
「ぶはっ! がは、げほっ! あー……かはっ」
そこでようやく目の前の愚物が顔を上げた。
苦しそうに呼吸を繰り返しているのは、自分と歳がそう変わらないであろう少女――いや、少年だった。
少年は前後不覚のようでクレハに背を向け、荒い呼吸を繰り返しながら時折むせて咳込んでいる。
だが、それがどうした。
クレハは自分でも驚くほどに殺気立っているのが分かった。理由も勿論分かっている。
(はじめて……男に……!)
過去、修行中のどさくさに紛れてビオラには幾度となく揉まれてきたが、それとは訳が違う。
クレハは年頃の乙女だ。それを会ったこともない異性にいきなり触れられることが、一体どれほどのことか。
(許さない……!)
左手のひらに魔素を込める。
その瞬間、隠し切れない殺気を感じたのだろう。
少年が腰に佩いているナイフを抜きながら、素早い動きで振り返った。
灰色の髪と瞳、そして可愛らしい女顔。
他に特筆すべき点はなく、総じてどこにでもいそうな少年だった。
少年は呆気に取られたのか、はたまた毒気を抜かれたのか、鋭い視線が緩み、構えていたナイフが下がる。
「……あの」
勿論そんなことはクレハにはなんの関係ない。
左手のひらにたっぷりと込められた魔素を持ちて、ただ一言、目の前の愚物に宣告する。
「〝死ね変態っ〟!」




