第107話 「アテラ=イン=セイアと申します」
袋小路に喧しい足音が響いてきたのは、ルーイのまつ毛が少し焦げた瞬間だった。
足音は一つではない。少なくない人数の足音が自分たちの元へ向かってくることを最初に感じ取ったのは、今まさにルーイの目を焼こうとしていた背の高い男だった。
「……いいとこだったのによ。いくぞ」
男は煙草を投げ捨て、撤退を指示する。
破落戸の集団は蜂の子を散らすように足早に逃げ出し、後に残ったのはルーイと背の高い男の二人だけだった。
「命拾い……いや、目玉拾いしたな」
それだけ言うと背の高い男も姿を消した。
「………………」
擦り切れた雑巾のようにボロボロになったルーイは、地に伏せたまま動けなかった。
ルーイに残ったものは理不尽な暴力にさらされた痛みと、目を焼かれなくて良かったという安堵の気持ち――そしてなにより――良いように弄ばれたことに対する激しい悔しさがあった。
「……ちくしょう」
一体自分が何をしたというのだ。
本当に何も知らず、何も分からず、ただただ勝手に決めつけられ、理不尽な暴力の餌食となった。
「くっそ……」
ルーイの瞳が濡れる。
痛みではない。怒りでもない。もちろん悲しみでもない。
生まれて初めて感じる、行き場のない悔しさだった。
「急いでください!」
ルーイの耳が声を拾う。
拾った声は女の子のものに聞こえた。石畳を叩く数人の足音に混じり、金属同士が擦れ合う不協和音も聞こえる。
「!? こっちです!」
息を弾ませながら袋小路に現れた少女は、急いでルーイの元へ駆け寄った。
鎧を鳴らしながら守備隊らしき者たちも、少し遅れて辿り着く。
「大丈夫ですか!?」
「っ……いっ、つ」
現れた少女はルーイの傷に触らないように、ゆっくりと仰向けの状態へと体勢を動かした。
痛みに――ではなく、悔しさに顔を歪ませているルーイに、少女は優しく膝枕をしながら手をかざし、魔術を行使する。
「〝聖母の抱擁〟」
薄暗い路地裏に光が溢れる。
光は少女の両手から発されていて、ルーイを優しく包み込むように全身を巡る。
全身を巡った真っ白な魔素の光がふわふわと、まるで雪が立ち昇ったかと思えば、ルーイの身体の傷ついた箇所へと集まっていく。
やがて光が収まり路地裏に薄暗さが戻る。
そこには腫れた頬も、青痣まみれの四肢も、砕けた指もない。まるで自然体のルーイの姿があった。
「……これは」
「まだじっとしていてください。怪我は治りましたが、失われた体力までは、わたくしの治癒魔術では回復出来ませんので」
「……助かった。ありがとう」
「いえ……助けられたのはわたくしですから」
ルーイには少女が言っている言葉が理解できなかった。
そもそも目の前の治癒魔術を施してくれた少女に、見覚えもまるでなかった。
金木犀を彷彿とさせる眩い黄金色の髪に青空を閉じ込めたような蒼眼。
今は申し訳なさを貼り付けた顔には、まるで小動物のような愛くるしさが感じられる。
小柄な身体を瞳と同じ、真っ青な法衣に身を包んだ少女は、眉尻を下げたまま言葉を続ける。
「貴方のおかげで彼らの手から逃れられました。本当にありがとうございます」
「……あんたは?」
「貴様! 不敬であるぞ!」
突然横から大きな声で怒鳴られる。
視線を動かしてみれば、守備隊と思しき男が憤った顔でルーイを睨んでいた。
他の連中とは違った様相の鎧を身に纏い、その手には無骨な斧槍が握られている。
精悍な顔つきだが、モサモサに生えた髭がどこか可愛らしくもある男は、この隊のまとめ役といったところか。
どうやら今日は初対面の相手から意味も分からず怒られる厄日らしい。
(王都に来た初日からコレかよ……)
げんなりとした気分を抱きつつも、ルーイは先ほど髭面が言った言葉を反芻する。
初対面の相手に素性を訊ねることが、不敬に当たるとでも言うのだろうか。
(……不敬?)
「アスターさん、やめてください」
「はっ! いや、ですが!」
「この方はわたくしの恩人です。丁重な対応をしてもらえませんか」
「……はっ!」
アスターと呼ばれた髭男が不服さを隠しもせず、それでも少女の命に従って一歩下がる。
下がったはいいが、見た目同様、引き締まった雰囲気はルーイを威圧しているようにも感じられた。
彼の部下と思しき兵士たちも、辺りを鋭く睨みながら警戒を怠っていない様子だ。
人数は見える範囲には六人いる。その全てが少女の身の安全を守るかのような立ち位置だ。
(あー、これは……)
髭男含めて七人もの男たちに守られている目の前の少女は、恐らくやんごとなき身分なのだろう。
いくら世情に疎いルーイでもそれくらいは分かった。助けてもらったことには素直に礼を言いたいが、これ以上の厄介ごとに巻き込まれるのは御免被る。
「あー、助かった……いや、助かりました。ありがとうござい……ます。オレはもう大丈夫なんで」
そう言って立ち上がろうとするルーイを、しかしやんごとなき少女は柳眉を逆立てて制する。
「いけません! まだ体力が「いやいや、こう見えてオレ体力には自信あるんで「ダメです!」
愛くるしい見た目に反し、どうやら芯が強い子らしい。だが、そう言われてもルーイはいつまでもここで寝ているわけにはいかない。
クレハがいつ帰ってくるかも分からないのだ。
早めに宿へ戻っておかないと、また後でなにやら小言の一つでも言われかねない。
――いや。
(どうしてオレがあいつのことを気に掛けないといけないんだ?)
自分がこんな目に遭ったのは、元をただせばクレハとのいざこざが原因だ。
むしゃくしゃした気分だったのも、それを払拭しようと王都を歩き出したのも、全部クレハが原因だ。
そういえば最初にあの背の高い男と出会したのも、港区の服屋でクレハの用が済むのを待っていたからだ。
あそこで目を付けられていなければ、今頃宿でぐっすり休んで明日に備えていたはずだった。
(島での恩を仇で返しやがって……!)
一度生まれたどす黒い感情はむくむくと、まるでそれ自体が意思を持っているかのように育っていく。
幸か不幸か、島では抱いたことのない初めてとも言える感情。
――もし此処がプイスであれば、カトレアがそれを諌めたであろう。
タリアに話を聞いてもらい、考えを改めていたかもしれない。
もしくは、頭を空っぽにしハスラーと一戦交えれば、明日には忘れていたことだろう。
だが、王都には誰も居ない。
自分のことを多少でも知っているのは――クレハ一人だけだった。
「ちゃんとした看病と改めてお礼をさせてください。良ければこの後、わたくしの取っているお部屋に来てください」
「!? なりません! そんなどこの馬の骨とも知れない薄汚い男を、借り物の宿とはいえお部屋に招くことなどあっては!」
「……そこまで言うなら」
ルーイがそう言うと少女は、まるで大輪の向日葵を思わせるように目を輝かせ笑顔で頷いた。
「貴様! さては大司教様に近付こうと「アスターさん」はっ! し、しかし……!」
見た目通りの堅物らしい髭男へと目を向けて、少し困った顔を浮かべた少女が言う。
「元はと言えば、わたくしがアスターさんたちからはぐれてしまったことに原因があるのです。そして、無関係のこの方を巻き込んでしまいました。どのような形であれ償いをするのが筋だと、わたくしは思うのですが」
「そ、それは……」
こちらはこちらで何やら訳ありのようだったが、正直そんなことより……。
「あの……オレに膝枕しながら喧嘩するのは……ちょっと……」
諸般の事情により見上げることを躊躇わざるをえないのだが、そんな状況で言い争いなど起こされてはたまらない。
先ほどから目のやり場に非常に困っているのだ。
ハッとした様子で少女は、また申し訳なさそうな顔で言う。多分、本当の意味は伝わっていないんだろうな、とルーイは薄々感じたが、わざわざ口にはすまい。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。……立てますか?」
「あぁ、もう大丈夫……です。ありがとうございます」
うろ覚えのなんとなくの敬語を用いて、なるべく失礼のないように振る舞うルーイ。
少女の膝枕から立ち上がったはいいが、直立不動の姿勢だった。
少女はそんなルーイの様子を見てくすくす笑うと、朗らかな笑顔で言った。
「そのような堅苦しい振る舞いをしないでください。普段通りでかまいませんよ」
「……なら、そうさせてもらう」
直立不動から解放され一息つく。
少女はルーイが二の足でしっかりと立てていることを確認してから、丁寧な所作で立ち上がりルーイに頭を下げる。
「この度はありがとうございました。貴方のおかげでわたくしは悪漢の手から逃れることが出来ました」
「あぁ! もうやめてくれよ、こっちも助けてもらったんだからお互い様だろ! な!」
ルーイがあたふたするのも無理はない。
少女の弁に従って大人しくしてはいるものの、斧槍を構えた髭面強面男が目をすぼめ、ルーイを睨み付けているのだ。
「こっちこそ助けてくれてありがとう。オレはルーイ=カルミア。プイスから来たんだ」
「まぁ! あの自然豊かと噂に名高いプイスから来られたのですね」
故郷をそう言われれば悪い気はしない。
ルーイの鼻が無意識に高くなる中、目の前の少女はやんごとなき身分を明かした。
「わたくしはアテラ=イン=セイアと申します。僭越ながら、聖教の大司教の地位を賜っています」




