プロローグ
第四章、『あの橋の向こう側へ』開始です。
夜半、青白い月明りで目が覚める。
まだ十の月も始まって間もないというのに、今年はえらく気温が低い。元々中央大陸の夜は寒いが、それにしたって寒すぎる。紅葉の季節が例年より早く来て、そのままさっと過ぎ去ってしまったのが記憶に新しい。早めにピクニックに行っておいて正解だった。あと一週間遅れていたら、校庭の椛は葉を落としていただろうから。
マイヤ・フィルドゥシーは、重い瞼をこすりながら上体を起こす。あたりを見回せば、隣に眠るシュウが大きく掛布団から転げ出ていることに気付いた。普段は寝相が悪い人ではないのに、珍しい。心なしか、表情も辛そうだ。何か悪い夢でも見ているのかもしれない。
ああ、きっと神様はこのために私を起こしてくれたんだな、と、小さく苦笑。愛する彼の身体を抱き寄せて、もう一度布団を掛け直す。明後日の方を向いていたシュウの顔がこちらを向いたので、その寝顔を眺めながら、マイヤも再び横たわる。
恋人が傍に近づいたことが分かったのか、シュウの表情も和らいだ。吐息が徐々に落ち着いて行き、やがて穏やかな寝息へと変わった。
そのことに安心して、マイヤはほう、と小さく一息。
「もう大丈夫……悪い夢は終わりですよ、先輩……」
起こさないように小さく声をかけてから、マイヤはシュウの胸板に自らの頬を押し当てる。とくん、とくんという命の鼓動は、静かに聴いているだけで、彼女の心を落ち着かせ、深い眠りに誘っていく。
自分と何ら変わらぬ、命の音。
脈打つシュウの小さな鼓動、それを奏でる血液の半分が、この世界とは別の場所からやってきたものなのだ、ということをマイヤが知ったのは、もう一か月以上前のことだ。あの時は、シュウが気を失ってしまって大変な想いをしたものだ。目を覚ましたら、彼は別人のようになってしまっているのではないか。そんな不安がマイヤの胸中を支配して、シュウが意識を取り戻すまで気が気でなかったことを覚えている。
結局のところ、シュウはいつも通りの彼のままだった。
最初は混乱を隠せない様子だったものの、流石の適応力というべきかなんというべきか。すぐに事実を受け入れて、「なるほど、そういうことだったのか……」と、得心がいったと言わんばかりの反応を示していた。以後の反応も特に変わりはなく、むしろ「法術師として半人前どころか人間として半人前なわけだからな」などと自虐で笑いを取ってくる始末だ。
けれども彼なりに、何か思い悩んでいるのだろう。
シュウが夜な夜なうなされるようになったのは、彼が己の出自をを知った、あの夏の日からのことだ。
朝目を覚ますと悪夢の内容はすっかり忘れている様で、何かマイヤに語ってくれることはない。それゆえに、マイヤも彼の苦しみを未然に取り除いてあげることはできずじまいだった。
そのことが、ひどくもどかしかった。
毎晩呻くシュウを見るのが辛くて、マイヤは夏の間、何度も泣きそうになった。彼が目を覚まし、旅行が終わって育成学園に戻って来てからも、シュウがうなされる声が時折聞こえてきて、その思いは余計に刺激されてしまう。
そんな中でのことだった。エリナの事件以来慣習となっている、一週間に一度の添い寝の日。マイヤが、うなされるシュウを抱きしめると、ふっと彼の容体が安定したのだ。翌日の彼は凄く調子が良さそうで、マイヤは直感的に、これだ、と理解したのである。
以後、マイヤは恥ずかしさと狂おしいまでの愛しさに早鐘を打つ胸の鼓動を抑えつけながら、毎日シュウの部屋で一緒に眠っている。
それが功を奏したのか、ここ最近ではシュウが悪夢を見る頻度も減って来ていた。今日に至っては一週間ぶりだ。以前イスラーフィールに報告をしたら「そりゃぁ紛れもなく愛の力だわな。ひゅーひゅーお熱いこって」とからかわれたのだが、ここまで来ると冗談に思えなくなってしまう。もしかしたら何らかの法術、或いは呪術的な力が働いて、シュウを癒してくれているのではないか、と疑わざるを得ないほどだ。
そういうわけで、今日もマイヤは、シュウの腕の中で眠りの世界へと沈んでいく。
最初の頃はシュウも照れていたのだが、最近は素直に顔を見て「おやすみ」が言えるようになってきた。未来の事を想像してしまって、頬の熱くなるのを抑えられないのはご愛敬だ。
「……未来、かぁ……」
一人、ぽつりとつぶやく。
いつまでもシュウと一緒に居たい。その想いは日を追うごとに増すばかりだ。
彼の声。眼差し。繋いだ手の感触に、触れた肌の温かさ。紡ぎ合う言葉の数々と、重ねて来た時間。その全てを、できることならこの先もずっと味わって生きていきたい。
最初は小さな火種のような感情だったのに、今となってはもうこんなにも、マイヤ・フィルドゥシーはシュウ・フェリドゥーンに恋をしている。燃えるような、と言うには随分大人しい炎な気がするけども、それでも消える気配を全く見せずに、いつまでも燃え続けている。そしてそれが弱まることは、この先絶対にないだろう。それだけは断言できる。
だからこそ、不安も募る。
シュウの父、ヴィクトールは、魔族だったのだという。人間とは起源を同じくしながらも、歴史の流れによって分かたれてしまった、もう片方の人類。最強の悪性存在と呼称される、もう一つの世界たる『異境』の支配者たち。
取り戻した彼の記憶に曰く、中央大陸極東のゲート――マイヤも見た、あのシャロームの岩場の亀裂からこの世界へと転び出て、ずっとこちらの世界で暮らしていたそうだ。
一方、彼との間に絆を結び、愛を育て、未来を紡いだラジア女史は、人間の女性だったらしい。だが彼女は、けっしてただの人間ではなかったようだ。シュウがぽつりぽつりと語ったところによれば、彼が一年前、マグナスと戦う前に邂逅したという両世界の『神』、即ち『最後の神核種』を名乗る銀髪の女性、ズルワーンこそが、その正体であるのだという。
シュウの両親たちは、イスラーフィールと『スラオシャ』でも検索の出来ない、この世界にあまりにも大きな変革をもたらした何らかの事件によって、シュウを極東大陸に残してこの世界から姿を消した。恐らくはその事件によってヴィクトールは命を落とし、ラジアは『神』として世界の狭間に飛ばされたのだ。
違う世界からやってきた者と、違う世界へと行ってしまった者の血。
シュウがその両方を受け継いでいる、という事実が、マイヤに酷い胸騒ぎを覚えさせる。
まるで彼が、知らない間にどこかへ消えてしまいそうで。それを引き留める手段を今の自分では思いつけない、という事実が、マイヤの心を焦らせる。
もしかしたらマイヤが毎晩シュウの隣で眠るのは、ただ彼の苦しみを取り除いてあげたいから、という理由だけではないのかもしれない。むしろシュウがいなくなってしまうのが怖くて、彼の傍にずっとくっついていたいと思っている、という方が大本かつ重要な理由なのではあるまいか。
きっとシュウは、どちらであっても、「そんなに心配してくれる恋人を持てて、俺は幸せ者だな」と笑ってくれるのだろう。
そんなことを思っていると、ふいにシュウの腕が、マイヤの細い体躯を引き寄せた。かつては農作業に、今は対魔物戦闘に従事しているからだろうか。見た目よりも存外に逞しいその拘束が、マイヤを捉えて逃がさない。
びっくりして顔を上げる。シュウはすうすうと寝息を立てるだけで、特に目を覚ましている様子は見受けられない。どうやら、体が勝手に動いただけらしい。
よく雑誌や恋愛小説やらで、「女の子はずるい、所作の一つ、髪型一つでもこちらの心を惑わせて来るのだから」と、記者や主人公が独白するのを見るが、マイヤから言わせてもらえば男の子の方も結構ずるいと思うのだ。
だってシュウは、今のような何気ない無意識の行動一つで、こんなにもマイヤの心を締め付けて、また一つ愛おしい感情を深めさせていくのだから。
月明りが、雲に隠れる。ああ、また睡魔が襲ってきた。
マイヤはまた、シュウの胸元に顔を埋めて瞼を閉じる。
この夜がずっと続けばいいのに、という想いと、早く朝が来てほしい、新しい一日をシュウと重ねていきたい、という欲。その両方が、互いの区別なくないまぜになって、微睡みの底へと溶けていく。
マイヤの意識は、再び眠りの世界へと落ちて行った。




