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やがて天則の救世主  作者: 八代明日華
第三章:善と悪の境界に
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エピローグ

 シャローム・ビーチの『呪甲魔蛇』出没騒ぎから三日が経過した。大量のギルマンや大型の母艦級に襲撃され、大混乱に陥った市内ではあるが、イスラーフィールやバルガスらの指揮が効いたのだろうか。驚くほど物質的被害・人的被害ともに少なく、後者に至っては混乱に巻き込まれて傷を負った人こそおれども、骨折を始めとした大怪我や、命にかかわるような被害を受けた者の数はゼロ。海岸線に押し寄せたあの魚人の大群を思えば驚くべき数字だ。学園長は「まぁ私が誘導したのだから当然だな」と得意げであったが、今回ばかりは何の反論もできない。さりとて素直に称賛するのも微妙に腹立たしいのは、彼女の日ごろの行いのせいだろうか。


 街中が然程荒らされることが無かったのも幸いしたか。市長を兼ねる女将の指揮の元、ビーチの方も翌日の昼には復旧した。彼女は息子に良く似た、年季を感じさせる豪快な笑みと共に、「魚のバケモノが大量に湧いたていうからどうだかと思ったけど、死骸も何も残らないんだから魔物ってぇのは便利だねぇ!」などと言っていた。まぁ、そこいらの獣や本物の魚の様に、死体の撤去作業などということをしなくていいのは助かるかもしれない。

 そういえばギルマンの身体をコーティングしている粘液は砂浜に残らないのだろうか? エリナと死闘を繰り広げたクラーケンはねばねばが大分残ったらしいので少々気になる差異ではある。


 今日もビーチでは一部で環境整備が行われていた。その横では襲撃の前と何ら変わらず、観光客や海水浴客で真夏の海は大盛況。ギルマンが居た部分を埋め直すかのように、人々が各々の遊びに興じていた。


 その一角に、役目を終えて暇を持て余したシュウたちもパラソルを立てていた。元々海洋調査を目的とした一週間近い旅行だったのだ。それが最初の二日で解決してしまったため、残りが丸ごと開いたのである。馬車の手配日を今から変えるのも面倒だ、ということで、残りは本当の意味での休暇旅行扱いになったわけである。

 実際のところをぶっちゃけてしまうならば、わざわざ予定を変更するよりも、まだ休暇を楽しんでいたい、という学園長の思惑らしいが。イスラーフィール曰く「『教会』から出る金で遊び惚けない手はないだろう」とのこと。そもそも経費だったのかこれの旅費、と、エリックが変な顔をしていたのが記憶に新しい。


 そのエリックは、今日は街の方まで市場調査だ。「観光地のベッドタウンがどういうものを取り扱っているのか見ておきたくてね」とのこと。アルケイデスはサーフィン、ロザリアはバルガスやアローンたちについて漁に出ていた。アグレッシブなことである。対照的にイスラーフィールは初日と同じように、パラソルの下、堂々とデッキチェアに寝そべりトロピカルジュースを啜っている。相変わらず海辺の視線を独り占め。ビーチクライシスとはこのことだ。


 一方のシュウ達は、といえば。


「お兄様ー! お願いしますわー!」

「了解、行くぞ……っと!」

 

 海岸線から水着姿のエリナが手を振る。少し沖寄りの位置に、同じく水着姿で立っていたシュウは、彼女の合図に応えるように手を振ると、そのまま右手で海面を強打する。

 淡く燐光を纏った一撃――身体強化系攻撃呪術、『アグロスマイト』。同系統の術式『スマイト』の強化技であるこの一撃は、中型魔物までなら後退、体格によっては吹き飛ばすことも可能な、非常に強力な衝撃波を追加で放つ。残念ながらそれで魔物を倒したりはできないため戦闘においては取り回しの良いスマイトの方が優先されるのだが、今は別の目的でこれを撃つ必要があった。


 ざばぁっ!! と激しい音を立て、青い海が大きくうねる。その波濤はワンテンポ遅れて、砂浜目掛けて突進を開始した。

 その軌道の先に待つのは、自信満々に仁王立ちするエリナと、彼女の腰ほどもあろうかという、大きな大きな砂の城。ミニチュアやジオラマのコンクールに出せばそのまま優勝してしまうのではないかと思えるほどに、細かく作り込まれた白の塔を、海岸で集めた小さな小石、それを精密に組み合わせた城壁がぐるりと囲み、守っている。


 そう、シュウが態々使い勝手の悪い呪術を使ってまで、大波を引き起こした理由。

 それは義妹が試行錯誤の末に、ついに「波でも壊れない砂の城」を完成させたと宣言したためである。彼女は最後の耐久テスト、そして研究の成果の披露の場として、シュウの引き起こした荒波との対決を所望したのだ。


 大きく弧を描く大波は、勢いよくエリナの作り出した砂の城へと突貫する。白い飛沫が飛び散り、観光客が悲鳴を上げる。少々威力を強くし過ぎたかもしれない。アジ・クールマとの戦闘後、スラエオータナが消失せず、『世界呪術』の力がいまだに自分の中に残留しているからだろうか? 以前よりも格段に呪術の性能が上がっているのだ。正直、コントロールが上手くいかない。

 

 だがその分、破壊力は十分。

 一日目、シュウも近くで見ていた彼女の砂の城なら、ここで跡形もなく消え去ってしまうことだろう。


 どどぉッ!!

 果たして人口の激流は、分厚いミニチュアの城壁と激突し――数刻後、そのまま小さなしぶきとなって消失した。

 耐えきったのだ。

 作っては壊れ、作っては壊れを繰り返したエリナの砂要塞が、ついに荒波をも弾き返す圧倒的防御力を手に入れたのである!


「エリナ! やったな!」


 大声を張り上げる。

 なんだか「波に打ち勝つ砂の城」としてあるべき方向性とはずれているような気がするが、それはそれこれはこれ。彼女の努力を讃えたい。いくら姿がねじ曲がっていても、彼女が創意工夫を凝らして、白を破壊するタイダルフォールを破ったことは確かなのだから。


 感極まったのか、ぷるぷると数秒ほど震えた後、エリナは感情を爆発させて飛び上がる。


「や、やりましたわ!! ついに……ついに荒波に耐えきる城を造れました……!! どーうですかこの硬さ、この出来栄え! 三日をかけて()()()()作り続けたかいがあったというものです!」

「法術がんがんにかけてまで勝ちたいと思う、そのエリナちゃんの本気にびっくりだよ……」


 作業を手伝っていたリズベットが苦笑い。流石の彼女も疲れが来ていたらしい。まぁ無理もない。エリナの、「これ」と定めた物事に対する情熱の入り方には目を見張るものがある。それは『認識』を操る彼女が無意識にほかの出来事を頭の中から叩き出して、最適な思考を作り上げているからだろう。他人にはまねできない、彼女ならではの集中力だ。おいつけているだけ、リズベットの方も相当な集中力の持ち主と言える。

 そうとも、余人にはたどり着けない領域だ。

 エリナの城を近くで見れば、防壁を構築する小さな石、その一つ一つが薄い碧色(あおいろ)に発行しているのが分かるはず。

 彼女は材料として調達した石に、『武装型ハルワタート』の「世界を騙す防壁」をかけて回ったのだ。石集め自体は三日前の時点で既に終わっていたようなのだが、全てを理論防壁でコーティングするのに大量の時間を要した、ということらしい。ハレルヤザグナルの石化ブレスさえ防ぎ切った強力な盾だ。荒波の一つではびくともするまい。


 調子に乗ったエリナが、背中を大きく逸らせて高笑い。薄い胸が強調されて残念なことになっているが、しかし今はそこに確かな海岸線上の王としての風格が感じ取れた。何故か、だが。


「あーっはっはっはっはっは!! (わたくし)の持ち得る力の全てを使えば、この程度できて当然ですわ! 流石私! ……ってこの銀ぱ……アリアさん、壁をつつかないでくださいまし。想定している攻撃以外の衝撃を騙すのは難しいのでしてよ」

「えー……」


 ぶうたれるアリア。どうやら気分は絵物語に出てくる怪獣らしい。


「楽しそうですね」


 一息ついていると、ぴちゃぴちゃと水音を立てながら、マイヤが隣にやってくる。今日はパーカーとパレオを外して、良く似合う白の水着と整った肢体を惜しげもなく晒していた。うん、とてもいい。とてもいいのだが、やはり刺激が強い。女性としての彼女の魅力を極限まで高めておきながら、嬉しそうににこにこ笑う姿は夏の海に降臨した天使(ヤザダ)か何かと錯覚するほどである。

 あんまりにも可愛らしいものだから、自分の心の良く分からないところが疼き出し、ちょっと意地悪がしたくなってしまった。


「マイは楽しくないのか?」

「楽しいに決まってるじゃないですか。先輩の意地悪」


 魂胆など見え透いているのか。むぅ、と頬を膨らませるマイヤ。陽光の中で煌くその表情が驚くほど魅力的で、シュウの心臓が加速度的に早鐘を打つ。全身の血が沸騰してしまいそうだ。冷たい海水の中にいるのに、のぼせてしまう可能性が出てきた。


「それともこれは」

「ん?」

「先輩が、もっと楽しい想い出を、私にくれるということでしょうか?」


 ちょっと悪戯っぽく笑ってから。

 マイヤはそっと瞳を閉じる。艶やかに静止した彼女が、何を求めているかはすぐに分かった。ああ、今回ばかりは流石のシュウも理解できる。

 要するに。


「ああ――じゃぁ、そういうことにしておこうか」


 シュウは苦笑すると、マイヤの細い体を抱き寄せる。触れた肌は存外に熱かった。よく見れば肩口から耳元にかけてが真っ赤だ。別に、夏の暑さにゆだってしまっているわけではないだろう。どうやら緊張しているのは、自分だけではなかったようだ。

 ああ、それとも。


 二人とも、この東端の陽気に、とっくの昔に茹で上がっているのかもしれなかった。


 水面に映る二人の影が一つになる。

 シュウはマイヤの腰をきゅっと抱き締めると、彼女の桜色の唇を、自分の唇でそっと塞いだ。



 ***



 夕暮れ時が近づいてきた。水面の向こうに太陽が沈みだし、夕日を反射して海が温かいオレンジ色に染まる。同じように光を浴びるマイヤの髪も、いつもより赤みが増しているように思えた。髪型ひとつ、服装一つで人の印象は大分変わるが、髪の毛の色も相当だ。視線に気づいた彼女の微笑みが、いつもよりどこか熱っぽくて、シュウはドキドキしながら見つめ返してしまう。

 そのまま、じっと見つめ合う事およそ一分。


「ちょっと二人とも、手が止まっていますわよ」


 じとー、と効果音を付けられそうな、やたらと暗い色を瞳に込めて、エリナがこちらを見つめてくる。

 頬と両耳を真っ赤にしながら、慌てて視線を逸らし合う。そうだ。片づけをしている最中なのだった。シュウはレジャーシートをいそいそと畳むと、スポーツバッグの中にねじ込む。あまり体感したことのない手触りが示す通り、確りと薄く畳めない。バッグに突っ込めば、蕾が解けるようにすぐに形が崩れてしまった。これはいかん。

 

「全く、お兄様の分は私がやればいいのでともかくとして、マイヤはもう少し節度というモノをですね」

「貴女に言われたくありません」

「んなぁぁぁ――――んですってこの淫乱青髪娘!! きぃぃーっもう怒りましたわよ一分間もムードを崩さないことを強要された私の身にもなってみなさい!!」

「エリナ、手が止まっているぞ」

「お兄様にそっくり同じ言葉を返されたのですわぁーっ!?」


 仲間たちの笑い声が、海水浴客の去り始めた砂浜に響く。


「イスラーフィールさま」

「あん? ああ、お前か」


 そんな一行の下に、見慣れぬ客人が訪れた。「偉い奴の当然の権利だ」と言わんばかりに自分一人だけ何の仕事もせず突っ立っていたイスラーフィールに、彼は何の恐れも抱いていないのか。堂々と正面から声をかける。


「あれ……?」

 

 ふと、マイヤが首をかしげる。何かに気が付いたようだ。


「先輩、あの方は……」

「ん……?」


 指差された方向、イスラーフィールを訪ねてきた客人の姿をよく見る。

 ダークグレーの甚平に身を包み、頭に服と同じ色のバンダナを巻いた、二十代半ばくらいの青年。甚平は極東大陸からこの辺りにかけての夏場の一般的な服装だ。そこから鑑みるに恐らくはシャロームの住民なのだと思うが……その体は細く、肌の色も随分と白かった。

 何より特徴的なのはその頭部だ。頭髪の色は目の覚めるような白。パールホワイト、とでもいうのだろうか。銀髪というには色が薄いが、完全な白髪でもない不思議な光沢を持った髪の毛だ。さらに瞳。感情を読み取りにくい冷静な双眸は、見るも鮮やかな真紅の色であった。


 ——その色と極めてよく似た色の瞳を、シュウは二人分知っている。

 一人は『エリナ』。もう一人はアリアだ。宿す感情の光こそ異なるが、その眩しい色は彼女たちの瞳のものとそっくりである。

 

 その青年の姿に、シュウは見覚えがあった。


「昨日、海の家で歌っていた人か……魔族(トゥラン)だったんだな」

「アリアちゃん以外にもこちらの世界に馴染んでいる方がいらっしゃるとは……すみません、正直、ちょっとびっくりしました」


 魔族が『教会』の言うような、邪悪の化身ではないことはとっくの昔に知っている。それでも悪意を持ってこちらの世界を訪れる魔族の方が多いのは、残念ながら本当の話だ。全ての魔族が人間の敵ではないように、あらゆる魔族が平和的に人間の中に溶け込む、というのもありえないのである。

 魔力を結晶化した角。その魔力を使って解き放つ強大な力、魔術(ヴェーダ)。情動を基軸とするそれに影響されたのか、極端になり易い感情。たった三つ。それだけでも、人間たちと魔族を隔てる壁は、まだまだ高い。


 自分たちが、その垣根を壊して行ければな、と、強く思う。きっとシュウとマイヤが、アリアやエリナと出会ったのは、その使命を果たすためなのだ、とも。


 ——それが、あながち間違いではないことを、シュウは思い知ることになる。


「フェリドゥーン、ちょっとこっちに来い……いや、フィルドゥシーも……いいや。全員だな。もう私たちはフェリドゥーンに関わった。なら、全員に知る権利があるだろう」

「知る権利……?」


 イスラーフィールが、一行を手招きする。甚平の青年がこくり、と頷くと、彼はビーチと街を隔てる深い森――その奥へと向かって歩き出す。なんだというのだろうか。シュウはマイヤと顔を見合わせると、一つ首をかしげる。

 ともかく、ついて行くしかあるまい。それに何というべきだろうか—―今、ついて行かなければ、自分はきっと一生後悔すると、シュウは心のどこかで確信していた。


 水着姿の上にパーカーやシャツ一枚では、僅かに肌寒い森の中。イスラーフィールについて歩くその風景は、歩みを進めるごとに徐々に徐々に奇怪な方向へと移り変わっていく。

 柔らかな土壌から、ごつごつした灰色の岩へ。鬱蒼とした木々は、なんと大地ではなくその岩の上から生えている。どこに根を張り、栄養を吸っているのだろう。思わず疑問に思わざるを得ないみょうちくりんな風景。

 つい先日見たばかり。なにより、いつも見ているそれに近い風景。


「『迷宮』なのか……?」

「相当侵食率は弱いように見えますが……いえ、逆ですね。あまりにも侵食率が高すぎて、こちら側の風景と奇跡的なバランスを保ったまま固定化したようです」


 シュウの問いに、マイヤが自分の知識から導き出した答えをくれる。


 そうだ。魔物こそ姿を見せていないが、この風景は間違いなく『異境』のものだ。

 だがここまで大人しい『迷宮』も初めて見た。シュウ達が迷宮探索に赴くのは、何も実戦経験を積むためだけではない。母艦級魔物が成長したり、守護者が強大になっていくことから推測できるように、『迷宮』というのは肥大化する。『門』を放置し、大量の悪性存在を野放しにしていれば、周囲の大地は見る見るうちに『異境』の風景へと侵食され、仕舞には完全に『異境』化、こちらの世界から抜け落ちてしまうとされている。


 南方大陸に一か所だけ、『夢の島』と呼ばれる、完全に侵略が終わった迷宮がある、という噂を聞いたことがある。そこは人間たちの世界のはずなのに、人間が自由に立ち入ることはできず、魔族や魔物たちが通常の生物として跋扈する、まさにシュウ達がアジ・クールマの中で見たような「魔族たちの世界にとっての迷宮」の姿らしい。

 この場所も、似たような状況に在るのだろうか?

 侵食が終わり、しかし完全にこの世界を食い尽くしたわけでもないまま、固定化された一種の奇跡――


「ちょっと不気味ですわ」

「どうかな……俺には、とても優しい場所に思える」


 善と悪の境界(はざま)

 二つの世界の融和の象徴。

 

 シュウはこの森に、彼の理想の一端を見た。無論、片方が片方を喰らっている現状では、人類が目指すべきなのだろう極致からは遠く離れているようにも思うが。


 やがて、魔族の青年の足が、止まった。

 そこは洞窟――というよりは、岸壁に開いた巨大な裂け目であった。横幅が大変狭く、アルケイデスが二人並べは埋まってしまいそうなほど。無論、シュウ達には関係のない話だが。


「つきました。ここから先は、みなさまだけでお入りください」


 アリアほどではないが、少し舌足らずで不思議な音色の発音で、青年はシュウ達を迎え入れる。

 

 薄暗い内部、その向こうに淡い光が見える。興味深い光だ。見ているだけで心が温かくなる。

 記憶の奥深く、遠い、遠い場所が、揺り篭の中で微睡むように刺激される。ああ――自分は、この場所を()()()()()


「うわぁ……っ!」


 急に、視界が開けた。同時に、アリアが歓声を上げる。


 シュウたちもまた、言葉を失い、息を呑んでいた。ある者は風景の美しさに。ある者は外側からは考えられない、その部屋のサイズに。そしてある者は――空間の中央に浮かぶ。入口とよく似た形の『裂け目』に。


 淡く発光する、世界の傷口。まるで心臓の鼓動の様に、とくん、とくん、と光が波打つ。


 『(ゲート)』。

 この世界と『異境』を繋ぐ扉。魔物たちを運ぶ馬車にして、世界侵略の出航港。

 だがこのゲートは淡く発光し、狭間から『異境』の景色を薄っすらと映すだけ。何の魔物も吐き出すこともなければ、何より絶対にいるはずの守護者がどこにもいなかった。


 いや、その言葉には語弊がある。守護者は確かにいた。


「おぉ……おぉぉぉぉおおおお……!!」


 ——それが、予想だにしなかった存在であっただけで。


 歓喜の声が、門の裏より上がった。ハレルヤザグナルよりもさらにいっそう枯れ木を思わせる細長い矮躯が姿を見せる。目深にかぶったフードの端から見える口は、人間のそれというよりは獅子の物に近い。魔物――いや、魔族か?


「何者ですか……!!」


 ヴィン、と音を立てて、マイヤが光の剣を抜く。その横に並び立つようにエリナ。幻想の十字槌を展開、二人はそのまま、護る様にシュウの前に立ってくれた。

 しかし彼女たちを制止する手が一つ。イスラーフィールだ。学園長はこれまで一度も見たことが無いほど真剣な表情で、獅子頭の魔族を見据える。


 魔族の老人も、こくり、と頷いた。彼はゆっくり、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくると、マイヤの姿を見て、フードの奥の瞳をかっ、と見開いた。


「なんと……なんということか……聞いてはいたが、まさか本当に……」

「そいつは覚悟も愛も両方持ち合わせています。確かめられますか?」

「いいえ……いいえ。不要です。そのようなことなどせずとも、このお嬢さんが、シュウ坊ちゃまにとって最高の女性であることなど、手に取る様に分かります……」


 獅子頭を左右に振る老人。その口から漏れ出たのは、驚くほど流ちょうなスプンタ語だった。ただでさえ発音や込める意味に方言や訛りのあるスプンタ語である。当然だが、いくら起源を同じくするダエーワ語を話すとは言え、断絶の長い魔族にはスプンタ語の詳細な発音が極めて難しい。アリアは相当に頭が良いが、それでもまだ幼児を思わせる発音にしか至っていなかった。彼女より長い事こちらで生きていると推測できる案内役の青年も同様だ。

 それを鑑みれば、老人は相当に異質だと言える。


 彼はそのまま歩みを進めると、マイヤに優しく声をかけた。まるで本当の祖父が、孫娘を労わる様な声色で。


「お嬢さん……何があっても、あなたは愛する人と共に生きなさい……それがあなたと彼を、必ず救ってくれることでしょう……」

「え……?」


 彼女がその言葉の意味を問う前に、老人は少女たちの間をすり抜けた。一瞬、最早朽ちた木簡を思わせるその容姿からは想像もつかないほど俊敏に動いたように見える。獣人――その言葉が脳裏に浮かんだ。

 呆気にとられるシュウの目前へ彼はまた、ゆっくりとたどり着く。己の顔を見上げるその瞳には、涙すら浮かんで見えた。


 記憶の深淵が、ずきずきと痛む。感じたことのない痛み――いいや、一度だけある痛みだ。

 魔族の青年の歌を、海の家で聞いた時。

 あの時と同じ痛み。


 ——自分は、このひとの事を知っている。


「お久しうございます、『救世主(サオシュヤント)』……いや、今のあなた様にかけるべき挨拶は、お初お目にかかります、ですな、シュウ坊ちゃま」


 老人は、驚くほど人懐っこい笑顔を浮かべると、しわくちゃの手でシュウの右手を包み込んだ。

 温かい。これは本当に、本当に誰かの事を思いやっている人にしかできない温かさだ。マイヤのそれと通じるものを感じる。


 ——もっと別の誰かとも、似ている。


「儂はナラシンハ。『人と獣の狭間に立つ者(ギンヌンガガップ)』」

「ギンヌン、ガガップ……?」


 その称号に、聞き覚えがあった。

 アルケイデス/マグナスと戦った時。

 スラエオータナの力で疑似魔術を発動し、空を飛ぶシュウの姿を見て、彼は酷く狼狽した様子で叫んだのだ。


 『善と悪の狭間に立つ者(ギンヌンガガップ)』と。


 込められた意味は微妙に違う様に聞こえたが、しかし恐らく、名付けられた意図は同一だ。


 何かと何かの境界(はざま)で、それを繋ぐ存在。


「ああ――立派に成長なさった。お姿は御父上にそっくりだが、目元とその色はお嬢様に本当によく似ている。それでいてその意志、宿る光は巫女のそれを継いでいる……それが、限りなく嬉しい」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!!」


 告げられた事実が、余りにも衝撃的過ぎた。シュウの動機が激しくなる。マイヤと会話をしている時のそれとは全く別種の鼓動だ。汗がぶわりと噴き出し、世界から音が遠くなる。

 

 ——今、この老人……ナラシンハは何と言った? 彼はシュウの姿を、どう表現した?


 ()()()()()()()()()と。

 そう、言ったのだ。


「あなたは……俺の両親のことを知っているのか……!?」

「ええ、勿論。誰よりも、誰よりも深く存じ上げております」


 鷹揚に、獅子頭の老人は頷いて。


「時は来ました。私が、あなた様の御父上……ヴィクトール・グノーシス様と、お母上たるお嬢様、即ちラジア・フェリドゥーン様……そして我が巫女、皆さまが『青の魔女』と呼ぶお方、メロヴィア・フィルドゥシー様から託された全てを、お話いたします」


 その言葉が、きっと、鍵だったのだ。


 シュウの脳の奥、ずっと何かで抑えつけられていた部分が、弾けた。

 まるで銀河の様に渦を巻く、忘れていた記憶の奔流。怒涛の如く押し寄せる波の向こう、聞いたことのないはずの、しかし()()()()()、そして絶対に聞いたことのある歌声が響いて来る。


「そーらはー、あーおくー、かーかげるひはー……めーぐるー、やーみをー、つーなぐつばさー……♪」


 視界が揺れているのは、自分を入れた揺り篭が、ゆっくり、かつ小さく、揺らされているからだ。

 頭上から降り注ぐ子守歌は、幼いシュウの思考をまどろみの中へと沈めていく。

 歌っているのは、母親だ。今のシュウよりも一回りは年若い、幼女にさえ見えるその容姿。銀色というよりは白に近い、ボブカットのスノウブロンド。

 優しく細められた瞳は、ああ、この女性(ひと)と自分は親子なのだ、とはっきりわかる、澄んだ薄い碧色をしていた。


 彼女はまだいたく柔らかく、押せば潰れてしまいそうなほどにぷにぷにとしたシュウの頬を撫でると、小さく、そして酷く優しい声で、呟いた。


「大好きよ、シュウ……いつまでも元気で、大きくなってね」


 その淡い微笑みに、見覚えがあった。

 ああ、どうして気が付かなかったのだろう。いいや気付くはずもあるまい。だって彼女と会ったのは一回だけ。強烈な出会いだったから記憶にこそ残ってはいたが、まさかそうだなどと、どうすれば気付くことができるだろうか。

 確かにナラシンハの言うとおりだ。目元は驚くほどそっくりである。

 しかしその瞳の色が変わっていたら?

 いっそ人形の様に、その表情が抜け落ちていたら?


 気が付くはずなど、あるわけもない。


「……ズルワーン……あなたが、俺の、母親だったのか――」


 また、記憶の渦が弾ける。

 体中から力が抜けた。視界がブラックアウトしていく。あまりにも情報が多すぎて、意識を保っていられない。


「先輩!? どうしたんですか、先輩!!」

「お兄様……目を開けてくださいまし……!!」

「しゅう、しっかりして、しゅう!!」


 愛しい少女たちの声だけが、ただ頭上から届いて来る。

 けれどそれに応えるためには、どうしても体が動かなくて。


 ——そうして少年は、全ての記憶を取り戻した。

 第三章はこれで完結です。ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。

 十二月はお休みをいただきまして、最終章となる第四章は一月から執筆を開始していく予定です。いましばらく、この世界にお付き合いください。

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