第三話『邂逅(前)』
夏季休暇が始まって三日後。イスラーフィールが貸し切りにした大型馬車で、シュウ達は中央大陸東岸、シャローム市へと向かった。
イスラーフィールが個人的にコネを持っている旅行会社のモノらしく、彼女曰く「相談役特権で」料金が安いとのことだ。学園長は非常に交友の幅が広いので、時々誰と知り合いなのか良く分からなくなってくる。相談役、だなどという肩書が嘘ではないのならば、相当上位の役員と友誼があるのだろうが……。
シックなレッドブラウンの車体には、ところどころに金色の装飾が施されている。内装に関しても、普段シュウたちが、隣街に行くために使っている馬車の荷台とは異なる部分が散見される。なるほど、団体客の旅行向けにカスタマイズしている、と聞いた通り、スペースが広く、大きなテーブルが用意されていたり、ティーバッグの備え付けられた、可愛らしい装丁のポットとカップが数点。
荷台の中は、御者と会話ができる前方座席と、先ほど記した旅行用の部屋の二つで構成され、間にはガラス張りの窓と、一枚のドアを持つ壁が立てられ、仕切りの役目を果たしていた。前方座席にはイスラーフィールと、今回は学長命令なるもので無理矢理同行させられてきたアルケイデス。後部座席にはシュウ、マイヤ、エリナ、アリア、続けてロザリア、リズベット、エリックが乗り込んだ。
「豪華な馬車は盗賊に遭いやすいって聞くけど大丈夫なんだろうか……」
端っこの席に座ったエリックが、二の腕をさすりながらぶるりと震えた。何やらトラウマでもあるらしい。シュウは幸運なことに出くわした経験を持たないが、比較的治安のいい中央大陸とは言え、盗賊の件数がゼロなわけではない。
それに、馬車は育成学園の立地上、どうしても『異境』へとつながる門を有するエリア—―即ち、『迷宮』の近くを何度か通る。学園のすぐ向かい、シュウ達が普段実習で活動する『樹海』の他にも迷宮は存在する。シュウの知っている限りでは、ルート途中でも一度『平原』と呼ばれる、兵隊の姿を模した屍鬼同士が延々と戦い合うという、奇妙な迷宮を通るはずだ。
とはいえ。
「魔物はアリアのお蔭で寄り付かないだろう。盗賊に関しても、これだけの数の法術師がいるからな……」
魔物に限らず、悪性存在は基本的に『力の社会』だ。自らよりも格が上の存在には逆らわない。知能が低かったり、格上を恐れない魔物が居ないわけではないし、むしろそれなりの割合でいるのだが、逆に強力な魔物になればなるほど慎重になる、という性質があることも分かっている。力を持つ者は、逆に力に敏感、という事なのだろう。権力を持った人間が保身に走るのと同じロジック、と考えてしまうと、何となくモノ哀しさが漂ってくるが……まぁつまりはそういう事なのである。悪性存在も何だかんだ生きづらいのかもしれない。
故に、『最強の悪性存在』という肩書そのものが力を持つ魔族は、ただそこにいるだけで一定の対魔物結界的な役割を果たす。アリアが乗車しているこの馬車は、『恐れ知らず』の魔物以外には襲われることは無いだろう。無論過信は出来ないが、必要以上の警戒をしなくても良い、ということだ。
何より、馬車の乗員は、御者とシュウ、そしてアリアを除けば、全員法術師だ。マイヤ、エリナ、アルケイデスの三人に関しては、戦場における火力も群を抜いている。そう簡単に遅れは取らない。
盗賊、つまり人間との戦いに関しては、法術が効きにくい、という意味では若干面倒なことになるかもしれないが――その場合はシュウの出番ともいえる。殺さない程度に痛めつけるなら、微妙に火力の出ないシュウが役に立つだろう。不必要な傷を生まないのは呪術師の良い所だな……などとぼんやり考えてしまう。
「お任せくださいまし、お兄様! 最悪の場合、私が魔族化して有象無象を一掃いたしますわ!!」
エリナが元気よくガッツポーズをとる。頼もしい。頼もしいのだが、危ないことはしないで欲しい。
そんな事を思いながら、海への旅行は始まった。
移動には二日ほどかかるということで、実際、途中で何度も休憩を取った。
早いもので、今日が移動の最終日。明け方、鞄から先日の買い物で購入した本を取り出すシュウ。既に一度読み終わっているのだが、面白いもので何度も読み返すとその度に新しい発見がある。
まだ外は、少し薄暗い。座席には、シーツをかけて眠る友人たち。
静かな振動が、馬車が進んでいることを感じさせる。昨日の夜聞いたところによれば、朝日が昇り切る頃には、シャロームのビーチが見えてくるらしい。
皆を起こさない様に、シュウは静かにページをめくった。
興奮する心を、抑える目的もあった。
***
瞼を撫でる日の光。眩しい、とまでは言わないが、しかし目を覚まさせるには充分な明るさだ。
うっすらとした微睡みの中から起き上がると、マイヤは小さく欠伸をして、ガラス張りの向こう、切り替わる道行を見やる。
窓を通して見る景色は、急速に変わっていく。面白いことにすぐ近くの風景は形を確認する間がないほどぶれて見えるのに、遠くの様子はサイズが大きくなっていくだけではっきりと確認できることだ。遠近法に纏わる現象なのだろうが、どうして中々、人間の目が捉える風景というのは面白い――
舗装された道であっても、時折来る歪みが馬車をがたりと揺らす。乗り物酔いをする方ではないが、普段と違う道の様子には少し慣れない。大きな期待と、少しの不安が混ざり合った感情もあって、先ほどからどうにも落ち着くことができなかった。
友人たちはまだ眠っているようだったが、隣を見れば、シュウはもう目を覚ましいて、何かの本を読んでいた。街道の脇に植えられた木々が齎す木漏れ日が、時折その横顔に影を落とす。普段の彼とはちょっぴり違う、凛々しいその表情。不覚にもときめいてしまう自分の心に、ああ、恋をしているんだな、と再確認。ロザリアとリズベットに揶揄われた際も言ったが、疑いようがないほど、自分はシュウ・フェリドゥーンというこの青年を愛してしまっているのだと。
マイヤは彼に少しだけ身を寄せると、そっと、座席に置かれた彼の右手を握った。シュウはその動作にぴくり、と眉を震わせると、優しい表情でこちらを見る。
「ん……おはよう、マイ。どうした」
「おはようございます、先輩。いえ、その……特に、理由は。すみません、お邪魔をしてしまった様で」
「いや、大丈夫だよ。丁度一区切りつけようと思っていたところだ」
そう言うと、シュウはしおりを挟んで小さく伸びをする。どうやらマイヤよりもかなり前から起きていたらしい。普段起きる時間はまちまちだ。シュウの方が早く起床する時もあれば、マイヤが朝食を作り終えてもまだ眠っていることもある。一緒のベッドで眠るときは、大抵の場合マイヤの方が先に眠って、シュウの方が先に起きる。というパターンが多い。彼の睡眠時間を奪っている様で申し訳なくなるのだが、謝ると「マイの寝顔を長く見ていられるから、俺は困っていないよ」などと恥ずかしいことを口にしてくる。狙って気取ったことを言っているのではなく、本心でそう思っているのだから一種たちが悪い。
シュウが机の上に置いた、分厚い本の表紙を覗く。ハードカバーの文庫本と大体同じくらいのサイズのそれは、カラフルな絵で仕立て上げられていた。初等学校の子供向け百科事典を、大人向けにリバイバルしたシリーズだ。気に入っているのか、同じ系列の本を何冊かシュウが持っていることを知っている。
色とりどりの図は、テーマとなっている機材や動物を詳細に描いた挿絵だ。高価なものでは写真を使っていることもあるが、流石に元来子供向けだったものである。どちらかと言えば絵が中心だ。絵師たちの労力への感謝を込めてか、お値段はやはり高めであるが――しかし、こちらにもまた、写真とは違うリアルさがある。筆の温かみが、描かれた動物たちに命の鼓動を吹き込んでいるようだ。
最も。
今回シュウが読んでいたのは、その命の温かみ、というものが今一感じづらい相手に関する本だったが。
「海洋の魔物に関する図解本ですね。あ、この間の買い物で探していたのはこれですか?」
「一応。あまり海の魔物には詳しくないからな……ほら、本当の目的は海洋調査なんだろう? だから、事前知識があった方がいいと思ってな」
見れば大人用に、最新の研究による解説まで追加した、かなり本格的なモノらしい。単純に興味が湧いてきた。元々マイヤも、本を読むのは好きだからだ。知らない情報を見ると、自分の知識にしたくなってくる。
「私も、海上の悪性存在について知ってることは少ないので……あの、一緒に読んでも良いですか」
「勿論」
シュウは微笑むと、顔の前に掲げていた本を膝の上に置くと、彼自身も少しマイヤの方に身を寄せる。太腿同士が触れ合う。夏場のじっとりとした暑さは不思議と感じない。代わりに、別の意味で体温が若干上昇した。
「マイは、乗り物酔いは大丈夫か?」
「はい、一応」
気遣いに応えると、シュウは「そうか」と一言だけ返した。
人間、乗り物に乗っている時に一点だけを見つめていると、『止まっている』と認識している目と、『動いている』と認識している肉体とから信号を受けた脳混乱を起こし、酔ってしまう事が多々ある。マイヤは普段、法術で空を飛ぶからなのか、こういった現象には強い。
メンバーの中ではエリナがやたらと乗り物に弱いらしく、「お、お兄様……見ないでくださいまし、私、今恐らく今世紀最も見苦しい表情をしているはずですわ」などと青い顔をしつつ痙攣を伴い口にしていた。認識を操る彼女の法術があれば多少は楽になるのではないか、と思ったのだが、どうにもそんな余裕はなかったようで、気絶するように眠り込んでは休憩の度に目を覚ます以外には、ずっと夢の世界に行ったままだ。因みにエリナが最初に乗り物酔いを訴えたとき、エリックも青い顔をしていた。どうやら彼も乗り物には強くないらしい。
皆が眠っている中、窓から射す、温かい陽光が手元を照らす。静かな中で身を寄せ合って、本の頁を捲っているく。はらり、はらり、という微かな音が、余計に静けさを強調しているよう。
記された海洋性魔物の特徴は、詳細な挿絵による補足もあって、すんなりと頭に入ってくる。海上、あるいは海中にも、陸と同じく屍鬼がいるというのは少し驚いた。あまりにも基本的かつ種類豊富な魔物過ぎて、バリエーション豊か、という言葉では言い表し切れない、かの下級悪性存在。樹海の中で最も姿を見るのは蛇や猿の姿をした屍鬼だが、海では魚や、こちらは陸と同じく蛇……正しくはウミヘビの姿をしていることが多いらしい。
それから、魚人。地上にはチェイサーと呼ばれる、鋭い爪を持った魔物が下級魔物のトップとして君臨していたが、海上ではこの魚人が中心となる。魚介類の顔を持つ人型の魔物だというが、同じ魚種の頭を持つ個体ごとに部族を形成し、集団で襲い掛かってくるらしい。猿型チェイサーも群れを組むが、こちらも厄介そうだ。特に水の中を動くということは、上空から狙いが付けづらい、ということを示す。
一説によれば、海中には『門』などないのだという。海全体、あるいは海底が迷宮となっているわけではなく、『母艦』と呼ばれる特殊な性質を持った魔物が、門の役割も果たしているらしい。海洋性の魔物が陸上のそれよりも連携を取ることが多いのは、母艦が在る程度魔物をコントロールする権限を有しているからだそうだが――
気が付けば、マイヤもシュウと一緒になって、図解に見入っていた。
ふと顔を上げると、すぐ隣にシュウの横顔。思ったよりも彼に体重をかけていたらしい。
想い人の顔がすぐ近くにあるせいか、次第に頬が熱くなってくる。このまま、少し身を乗り出せば、キスの一つでもできてしまうかもしれない――
「——ん」
何かに気が付いたのか。シュウが一度、瞬きをする。そのまま彼は、目線をふいと前に上げた。身を乗り出しかけていたマイヤは、突然の行動への驚きと、自分のしようとしていた事への羞恥、そしてそれを悟られたかもしれない、という焦りから、真っ赤になってうろたえる。
「……? どうした、マイ」
訝し気な碧色の目が、マイヤの顔を見つめる。弁明する声が上ずるのが、自分でもわかってしまった。
「いっ、いえっ! なんでもありません……ええ、なんでも……」
「そうか。なら良いんだが――見えて来たぞ」
「え?」
シュウの口角が上がる。彼自身も興奮しているのだ、というのが分かる。余り感情が大きく表に出ない、というか、いつも小さな、優しい微笑みをすることが多いシュウの、珍しく分かりやすい笑顔。
彼の右手が上がる。伸ばされた指の先には、窓の外の景色——
「————!!」
それを見た瞬間。
マイヤ・フィルドゥシーは、言葉を失った。
降り注ぐ天日を反射して、水面が白銀に光輝いていた。海上を吹く静かな風が、小さく波を引き起こし、ゆらゆら、ゆらゆら、海面の光の形を変える。
馬車が進み、見える角度が変わるごとに、色もわずかに変わっていく。青かと思えば、緑の様にも。宋かと思えば、今度は何と赤にも見える。反射光の銀色すら一律ではない。
表現できない。一言で表しきれない。あれは唯の青ではない。もっと、もっと何か別の――
美しい、『海』の色。
その時マイヤは理解した。
これがシュウの見た景色だったのだと。
その時マイヤは感謝した。
この色に、愛する彼は自分を例えてくれたのだと。
視界がぼやける。自然と涙が溢れ出て、瞳を曇らせているのだ。駄目だ、今は拭わなくてはいけない。この景色を、目に焼き付けなければならない。海の色は毎秒変わる。全部、全部、見ていたい。
だが、渦巻く情動を止められない。
頬をつたって、はらり、と雫が落ちる。その様子に吃驚したのか、となりでシュウがおろおろし出してしまった。
けれど暫くすると、ゆっくりと、マイヤの肩を、抱きしめてくれた。その温かさが愛しくて、また、涙が溢れてくる。
仲間たちが起き出すまで、マイヤは感嘆の涙を、長し続けた。




