第6話 灰の名
その夜。
戦場から離れた森で、二人は焚き火を囲んでいた。
エリシアは剣を膝へ乗せ、丁寧に刃を拭っている。
右肩には新しい包帯。
左の頬には浅い傷。
(また傷が増えた)
本人は何も言わない。
俺が見つめていると、エリシアが顔を上げた。
「心配してる?」
(してない)
「してる顔だ」
(鳥の顔で決めつけるな)
「大丈夫。浅い傷だから」
(そう言う人間ほど大丈夫ではない)
俺はエリシアの肩へ飛び移り、包帯を嘴でつついた。
「痛っ」
(痛いんじゃないか)
「分かった。明日、ちゃんと巻き直すから」
(今やれ)
もう一度つつく。
「今?」
さらにもう一度。
エリシアはしばらく俺と見つめ合った。
先に折れたのは、彼女だった。
「……はいはい」
道具袋から新しい布を取り出す。
「君、意外と厳しいね」
(あんたが自分に甘すぎる)
包帯を巻き直し終えるまで、俺は隣で見張った。
「これでいい?」
確認するように肩を見せる。
「カァ」
「先生の許可が出た」
(誰が先生だ)
エリシアが笑った。
焚き火の音だけが続く。
戦場の後とは思えないほど、穏やかな夜だった。
「ねえ」
唐突にエリシアが言った。
「今さらなんだけど」
(何だ)
「ずっと“君”って呼ぶの、変だよね」
(今さらだな)
「最初は、傷が治ったらどこかへ飛んでいくと思ってたから」
(俺もそう思っていた)
助けてもらい、傷が治るまで一緒にいる。
最初は、それだけのつもりだった。
だが、飛べるようになっても俺は離れなかった。
エリシアの上空を飛び、戦場を見渡し、彼女の背中を守っている。
「今は、違うでしょ?」
(どうだろうな)
否定するように顔を逸らす。
それでも翌朝になれば、また彼女と歩くつもりだった。
どこかへ去る理由がない。
それ以上に。
(この人を一人にするのは心配だ)
自分の傷を放置する。
食事を忘れる。
誰かが困っていれば、迷わず危険な場所へ入る。
見張っていなければ、いつか本当に倒れそうだった。
「だから、名前を考えようと思って」
(勝手につける話は、まだ続いていたのか)
「嫌?」
首を傾げられる。
(嫌ではない)
前世の名前は、まだ思い出せない。
思い出せないものを待ち続けるより、新しい名前があってもよいのかもしれない。
俺がその場に留まっていると、エリシアは肯定と受け取ったらしい。
「黒い羽でしょ」
焚き火の光が、俺の身体へ映る。
黒い羽根の端が、灰色に光っていた。
「燃えた後に残る、灰」
エリシアは言葉を探すように少し黙った。
「……アッシュ、でどうかな」
(アッシュ)
心の中で繰り返す。
灰。
燃えた後に残るもの。
すべてが終わった後にも、消えずに残るもの。
(名前)
前世の名前は思い出せない。
なくても困らないと思っていた。
“鳥”や“君”で十分だと。
それなのに。
エリシアがもう一度口にするのを、待っている自分がいた。
「嫌だった?」
少し不安そうな声。
俺は飛び去らなかった。
顔も逸らさなかった。
それが答えになればよいと思った。
エリシアは俺を見つめた後、ゆっくりと笑った。
「よし」
少しだけ嬉しそうに。
「じゃあ、アッシュ」
名前を呼ばれる。
(……アッシュ)
今度は、先ほどより深く胸へ落ちた。
何かを背負わされた感じはしない。
戦場の道具でもない。
守るべき弱い鳥でもない。
ただ、共に歩く相手として呼ばれた気がした。
「これからもよろしくね、アッシュ」
(こちらこそ)
「カァ」
返事のつもりで短く鳴く。
エリシアが笑った。
「返事してくれた」
(たまたまだ)
「よろしくって言った?」
(調子に乗るな)
俺が顔を逸らすと、エリシアはさらに楽しそうに笑った。
戦争は終わっていない。
明日も、どこかで剣の音が響くのだろう。
魔族がなぜ戦うのか。
エリシアがなぜ前線へ立ち続けるのか。
俺がなぜ鳥へ転生したのか。
前世で誰に何を言い残したのか。
分からないことばかりだ。
それでも、一つだけ確かなものができた。
俺には名前がある。
その名前を呼ぶ人が、すぐ隣にいる。
(アッシュ、か)
もう一度、心の中で呼ぶ。
(悪くない)
むしろ、かなり気に入っている。
それをエリシアへ知られるのは、少し癪だった。
俺は何も言わず、焚き火のそばで羽を畳んだ。
エリシアも剣を置き、木へ背を預ける。
「おやすみ、アッシュ」
(おやすみ、エリシア)
声にはならない。
それでも、名前を呼び返した。
俺は少しだけ彼女の近くへ移動した。
風が吹いても、焚き火の温かさが途切れない場所へ。
黒い鳥はその夜、初めて自分の名前を抱いて眠った。




