第5話 灰の爪
戦場の空気には、何度経験しても慣れなかった。
血。
焦げた肉。
土。
汗。
恐怖と怒り。
すべてが混ざっている。
人間の兵士は叫び、怯え、仲間の名を呼んでいた。
それに対し、魔族兵はほとんど声を発さない。
視線が合えば、迷いなく距離を詰めてくる。
怒りも憎しみもない。
命令どおりに動く刃物のようだった。
(本当に、自分で戦っているのか?)
考える余裕はなかった。
エリシアが前へ出る。
一人目の剣を受け流し、二人目の懐へ踏み込む。
一閃。
魔族兵が倒れた。
別の二人が、左右から迫る。
エリシアは片方を牽制しながら、もう一方の剣を弾いた。
その背後。
味方の兵士へ、別の魔族兵が回り込んでいる。
兵士は正面の敵へ盾を向け、背後に気づいていない。
魔族兵が剣を低く構えた。
狙いは脇腹。
(間に合わない)
エリシアは別の敵へ対応している。
俺が鳴いても、この喧騒では届かない。
(どうする)
身体が先に動いた。
翼を畳み、急降下する。
魔族兵の影へ意識を向けた。
冷たい感覚が身体を包む。
影へ沈む。
次の瞬間、俺は魔族兵の背後へ出ていた。
目の前には、首元の防具の継ぎ目。
薄い皮膚。
脈打つ血管。
どこを攻撃すれば相手を止められるのか。
身体が知っていた。
(待て)
嘴を向ければ。
爪を突き立てれば。
この相手は死ぬ。
ほんの一瞬、迷った。
その間にも剣は動いている。
兵士の脇腹へ近づく。
(止めなければ)
勢いを殺さず、鉤爪を首元へ叩き込んだ。
感触は、あっけなかった。
柔らかいものが裂ける。
温かい液体が足へかかる。
魔族兵の身体が硬直した。
剣は兵士へ届く寸前で止まり、そのまま身体が前へ崩れた。
動かない。
(……あ)
世界の音が遠くなった。
自分の爪へ、赤い血がついている。
(俺がやった)
命を奪った。
敵だ。
このままなら誰かを殺していた。
だから止めた。
理由はいくらでも並べられる。
けれど、俺が殺したという事実は変わらない。
胸の奥が冷たくなる。
羽ばたきが止まりかけた。
そのとき、別の場所で悲鳴が上がる。
エリシアが囲まれていた。
正面に一人。
左右に二人。
背後から、もう一人が近づいている。
(考えるのは後だ)
今、止まればエリシアが死ぬかもしれない。
(次)
その一言で思考を切り替えた。
影へ沈む。
背後へ回る。
今度は魔族兵の腕を狙った。
爪を立て、剣を落とさせる。
エリシアが振り返る。
一閃。
敵が倒れる。
次。
側面から迫る魔族兵の顔を翼で打ち、視界を奪う。
エリシアの剣が腹部へ入った。
次。
別の影へ。
俺が背後を崩し、エリシアが正面を斬る。
打ち合わせたわけではない。
それでも、互いの動きが噛み合った。
俺が視線を逸らす。
エリシアが隙を逃さない。
エリシアが敵を追い込む。
その逃げ道へ俺が回る。
魔族兵の陣形が崩れていく。
「今だ!」
人間の兵士が叫んだ。
前線が動く。
やがて魔族兵は、一斉に撤退を始めた。
倒れた仲間を回収することもない。
追撃しようとする兵士たちを、エリシアが止めた。
「深追いしないで!」
声が戦場へ響く。
誰も反論しなかった。
戦いが終わる。
勝ったのだろう。
だが、歓声は上がらなかった。
地面には、人間も魔族も倒れている。
俺は少し離れた木の枝へ止まった。
爪についた血を見る。
(死んだ)
俺が首を裂いた魔族兵。
止めるだけなら、他の方法があったのではないか。
顔を狙えば。
腕を狙えば。
(あの瞬間に、そんなことを考えられたか?)
無理だった。
あれが最も確実だった。
(だから、仕方なかった)
そう言い聞かせる。
(仕方なかったで、済ませていいのか)
答えは出ない。
血は水で洗える。
けれど、爪に残った感触までは消えない気がした。
「君」
エリシアの声がした。
いつの間にか、木の下へ来ていた。
「さっき、助けてくれたよね」
その後ろには、俺が助けた兵士が立っていた。
「あの鳥がいなかったら、俺は……」
兵士は言葉を切り、頭を下げた。
「助かった。ありがとう」
(礼を言われても)
どう返せばよいのか分からない。
俺は誰かを助けた。
同時に、誰かを殺した。
どちらも事実だった。
エリシアが腕を差し出す。
「戻っておいで」
一瞬、迷った。
爪には血がついている。
つい先日まで飛ぶこともできなかった鳥が、今日は命を奪った。
今の自分が、彼女のもとへ戻ってよいのか。
「大丈夫」
エリシアが言う。
何が大丈夫なのかは分からない。
それでも俺は枝から飛び、差し出された腕へ下りた。
今度は、顔へ突っ込まなかった。
「上手になったね」
(今、それを言うのか)
顔を上げる。
エリシアは笑っていなかった。
穏やかな目で俺を見つめている。
指先が、血のついた爪へ触れた。
「怖かったよね」
(分かるのか)
「私も、最初は怖かった」
それ以上、エリシアは説明しなかった。
誰を斬ったのか。
どれほど苦しんだのか。
俺には聞くことができない。
「でも」
俺を肩へ移す。
「君が助けた人は、生きてる」
エリシアが、先ほどの兵士を見る。
「それも、忘れないで」
(助けた人は、生きている)
殺した相手だけではなく。
生き残った相手もいる。
どちらか一方だけを見るな。
そう言われた気がした。
(簡単に割り切れることではないが)
それでも、胸の冷たさが少しだけ和らいだ。
エリシアは負傷した兵士たちのもとへ向かった。
傷の深い者へ布を渡す。
倒れた者の前では膝をつき、短く祈る。
人間だけではなかった。
魔族兵の遺体にも近づき、開いたままの目を閉じていく。
(敵にも祈るのか)
エリシアは何も言わない。
当然のこととして行っていた。
誰よりも前へ立ち。
誰よりも後ろを気にする。
(本当に、不器用な人だ)
◇
その日から、俺は戦場でエリシアの上空を飛ぶようになった。
戦場は一つ終われば、すぐに次が来た。
村。
街道。
砦。
地名だけが変わる。
俺は影から影へ移り、敵の背後へ回った。
小さな身体で正面から力をぶつければ、簡単に壊される。
だから見つからない場所を使う。
視線の外。
剣の届かない角度。
太陽が作る濃い影。
そこから全体を見る。
命を奪わずに済むときは、急所を避けた。
腕。
足。
目。
武器。
それでも、間に合わないことはあった。
迷えば誰かが死ぬ。
判断に使える時間は、ほんの一瞬。
何度戦っても、命を奪う感触に慣れることはなかった。
けれど、動けなくなることもなくなった。
(慣れたわけではない)
そう自分へ言い続けた。
(慣れてはいけない)
戦いが終わるたび、エリシアは倒れた者へ祈った。
俺は少し高い場所から、その姿を見ていた。
ある戦場の後。
エリシアが剣についた血を拭いながら、小さく息を吐いた。
「……いつもありがとう」
こちらを見上げる。
(急だな)
「助かってる」
驚いているわけでも、褒めているわけでもない。
当然のように、次も頼むという温度が声に混じっていた。
(俺が、戦力として)
ただ守られる鳥ではない。
隣で戦う存在として認められた。
そう理解したとき、胸の奥が不思議なほど静かになった。
(少しは借りを返せたか)
だが、まだ足りない。
エリシアは飛べない俺を抱え、傷を治してくれた。
初めて命を奪った俺へ、助けた命もあると教えてくれた。
(むしろ借りが増えている気もするな)




