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女神の従魔  作者: 梅椿 六花
第一章 黒い鳥と黒鎧の冒険者
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第4話 初めての空

 エリシアと旅を始めて、数日が過ぎた。

 右の翼に巻かれていた布は、もう外れている。

 傷口は少し引きつるものの、動かすことに問題はなかった。

 つまり。


(飛べない言い訳がなくなったわけだ)


 俺は低い木の枝に立ち、地面を見下ろしていた。

 高さは、人間の腰より少し上。

 鳥にとっては大した高さではないのだろう。

 だが、これまで地面を這い回っていた俺には十分高い。


「無理しなくてもいいんだよ?」

 少し離れた場所で、エリシアが両腕を広げている。

(無理をしなければ、永遠に飛べない鳥のままだ)


 飛べない鳥なら、前世の記憶にもいくつか残っている。

 鶏。

 ペンギン。

 ダチョウ。


(……意外といるな)

 飛べなくても鳥は鳥だ。

(違う。自分を納得させる方向へ逃げるな)


 今の身体には、飛ぶための翼がある。

 なら、飛べるはずだった。


「落ちても受け止めるから」

(子供の練習みたいだな)


 とはいえ、地面へ激突するよりはましだ。

 俺は翼を広げる。

 人間の腕とは違い、翼を動かすには肩だけでなく、背中全体へ力を入れる必要があった。

 右。

 左。

 ゆっくり動かす。

 痛みはない。

 枝を鉤爪で強く掴み、深く息を吸う。


「頑張って」

(簡単に言ってくれる)


 枝を蹴った。

 身体が宙へ投げ出される。

 翼を振り下ろす。

 風を掴んだ。

 ――ような気がした。

 次の瞬間、身体が勢いよく右へ回転した。


(なぜだ!?)


 木。

 空。

 地面。

 視界が激しく回る。


「わっ」


 そのままエリシアの胸元へ突っ込んだ。

 黒い鎧へ嘴をぶつける寸前で、両手に受け止められる。


「大丈夫?」

(今のを見て、大丈夫に見えるか?)

「カァ」


 不満を込めて鳴く。

 エリシアは笑いを堪えるように口元へ力を入れた。


「最初より浮いてたよ」

(最初は浮く前に転がっていたからな)

「もう一回やる?」

(当然だ)


 俺が翼を動かすと、エリシアは枝へ戻してくれた。

 二度目。

 今度は右へ曲がりすぎ、茂みへ突っ込んだ。


(飛行ではない。制御された墜落だ)


 三度目。

 一瞬だけ真っすぐ進んだが、着地に失敗して地面を転がる。

 四度目。

 枝を蹴る前に足を滑らせた。


「今のも数に入れる?」

(入れるな)


 何度目か分からなくなった頃。

 翼が風を押す感覚を、ようやく理解し始めた。

 ただ下へ振るのではない。

 羽根の角度を変え、空気を後方へ押し出す。

 次の羽ばたき。

 身体が落ちなかった。


(これか)


 木々の間を抜ける。

 速度が上がる。

 自分の意思で高度が変わる。


(飛んでる)


 地面が遠ざかった。

 エリシアが小さく見える。

 森の向こうまで視界が開けた。

 風が羽根の間を抜けていく。

 人間だった頃には、決して味わえなかった感覚だった。


(飛べる)


 上へ。

 さらに高く。

 少し怖い。

 だが、それ以上に気持ちがよかった。

 翼を広げて風へ乗る。

 羽ばたかなくても、身体が前へ進んでいく。


(鳥も悪くないかもしれない)

 ほんの少しだけ、そう思った。

「戻っておいでー!」

 下からエリシアの声が聞こえる。

(分かってる)


 旋回し、ゆっくり高度を下げる。

 目標は、エリシアが差し出した腕。

 速度を落とす。

 翼を広げる。

 足を前へ。


(完璧だ)

 そう思った瞬間、横から突風が吹いた。

(あ)


 身体が流される。

 エリシアの腕を通り過ぎ、その顔面へ突っ込んだ。


「むぐっ」

 俺の翼が、エリシアの顔を覆う。

(着地成功ということにできないか?)


 エリシアが俺を引き剥がした。

 髪が少し乱れている。

 けれど怒ってはいなかった。


「飛べたね」

 心から嬉しそうに笑っている。

(最後は失敗したけどな)

「すごい、すごい」

(子供扱いするな)


 そう思いながらも、悪い気はしなかった。

     ◇

 それから数日。

 旅の途中で、俺は何度も飛ぶ練習を続けた。

 直進。

 旋回。

 急停止。

 着地。

 枝を掴み損ねて逆さにぶら下がったこともある。

 水辺へ下りようとして、浅瀬へ落ちたこともある。

 エリシアには、そのたびに笑われた。


(そのうち、わざと頭へ着地してやる)


 そう考えながら練習を続けた。

 飛べるようになると、世界の見え方が変わった。

 地上では見えなかったものが、上空からなら見える。

 森の切れ目。

 曲がりくねる川。

 遠くへ伸びる街道。

 人の住む集落。

 そして。

 焼けた村。

 崩れた家。

 黒い煙。

 地面へ突き立ったままの槍。

 旅を続けるうちに、この世界について少しずつ分かってきた。

 人間と魔族の戦争が続いている。

 どちらが先に刃を向けたのか。

 何のために始まったのか。

 俺には分からない。

 エリシアへ尋ねることもできなかった。

 街道の脇には焼けた梁が転がり、風が吹けば灰が舞った。

 森を抜けた途端、乾いた血の匂いが残る場所へ出ることもあった。


(戦争がある世界か)


 前世にも戦争はあった。

 その知識だけは残っている。

 ただ、俺にとっては画面や文字の向こう側にあるものだったはずだ。

 この世界では違う。

 戦場は、選んで訪れる場所ではなかった。

 街道を歩いている途中で、突然そこが戦場になる。

 昨日まで人が暮らしていた村が、次の日には争いの中心になっている。

 遠くで聞こえた剣の音が、気づけばすぐそばまで迫ってくる。

 エリシアは戦いの気配を感じるたび、足を止めた。

 そして必ず、音のする方角へ向かった。


(また行くのか)

「困ってる人がいるかもしれないから」

 まだ何も言っていない俺へ、エリシアが答えたことがあった。

(本当に鳥の顔から分かってるんじゃないだろうな)


 冗談のつもりだったが、少しだけ不安になる。

 エリシアにとって、誰かの前へ立つことは、呼吸をするのと同じくらい当然らしい。

 俺は、その頭上を飛ぶようになっていた。

 最初は、ただ離れないためだった。

 だが、上空から戦場を見るうちに、自分にもできることがあると気づいた。

 人間には死角がある。

 正面を見れば背後は見えない。

 剣を振れば、その反対側に隙ができる。

 上からなら、全体が見えた。

 誰がどこへ動いているのか。

 どこが崩れそうなのか。

 敵が何を狙っているのか。

 そして、もう一つ。

 飛べるようになってから、影に奇妙なものを感じるようになった。

 木の影。

 建物の影。

 人の足元へ落ちる影。

 ただ光が届かない場所ではない。

 影同士が、細い道でつながっているように見えた。

 意識を向けると、冷たい感触が羽根の先へまとわりつく。

 初めてそれが起きたのは、木の枝へ翼をぶつけそうになったときだった。

 反射的に身を縮めた瞬間。

 身体が木の影へ沈んだ。

 暗い。

 冷たい。

 水の中へ潜ったような感覚。

 けれど息苦しくはない。


(どこだ、ここ)


 前も後ろも分からない。

 ただ、少し離れた別の影だけは感じ取れた。

 そこへ行きたいと意識する。

 身体が引かれる。

 次の瞬間、俺は別の木の影から飛び出していた。

 勢い余って、地面を転がる。


「どうしたの?」

 エリシアが駆け寄ってきた。

(俺が聞きたい)


 その日は二度とできなかった。

 だが、何度か試すうちに条件が分かってきた。

 光の中から影へ。

 影から、近くの別の影へ。

 距離はまだ短い。

 繰り返すと身体が急に重くなる。

 それでも、普通に飛ぶより速く移動できた。


(転生特典らしいものが、ようやく出てきたか)


 飛ぶことさえ最初からできなかったので、素直に喜んでよいのかは分からない。

 エリシアには、まだ見せていなかった。

 隠そうと決めたわけではない。

 どう説明すればよいのか分からなかっただけだ。


(鳥が影から出てきたら、さすがに驚くだろうな)


 エリシアなら、一度驚いた後で普通に受け入れそうな気もした。

     ◇

 その日、森を抜けた先で戦場に出た。

 前触れはなかった。

 街道の向こうから怒号と金属音が聞こえ、土煙の中で魔法の光が弾けていた。

 人間の兵士と、魔族の兵士。

 剣と剣が火花を散らし、地面の所々で火が上がっている。


「行こう」

 エリシアが剣を抜いた。

(やっぱり行くのか)


 止めても無駄だ。

 今では、よく分かっている。

 俺は翼を広げ、彼女の後を追った。



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