第40話 選んだ答え
「俺と来れば、二度と隠れる必要はない」
レオンの声が、記憶を押し退ける。
「白い姿も悪くない。黒い鳥の伝説を、新しい物語として作り直せる」
作り直す。
エリシアと過ごした時間を。
レオンのための物語へ変える。
彼女が何を考え。
何を選び。
何を失ったのかも知らずに。
「ルクス」
その名に、俺は応じなかった。
「聞き分けのない鳥だ」
レオンが差し出していた手を下ろす。
「俺の肩へ乗れ。お前は、俺の隣にいるべきだ」
俺は考える。
この男を殺すのか。
エリシアの孫を。
エリシアの血を引くとされる者を。
自分の手で。
(俺に、その権利があるのか)
エリシアは、一度だけ国へ帰ろうとした。
戦争が終わったのなら。
家族のもとへ戻れるかもしれないと。
だが。
俺は止めた。
黒い鎧。
黒い鳥。
不吉な存在として恐れられている。
古くなった噂を。
まだ何も変わっていないと思い込んだ。
危険な情報だけを選び。
帰らない方がよいと伝えた。
エリシアは長く黙り。
最後には。
『そっか』
とだけ答えた。
彼女は俺を責めなかった。
帰ると決めて、一人で出ていくこともしなかった。
だから。
俺は正しかったのだと思った。
守ることができたのだと。
エリシアが弱り。
死ぬまで。
彼女の選択を奪ったことに、気づかなかった。
もし、帰っていれば。
レオンと会えたのかもしれない。
英雄の名は、誰かを従わせるためにあるのではないと。
人の名前を奪うなと。
自分で選ぶ権利を奪うなと。
教えることができたのかもしれない。
そうすれば。
レオンは違う人間になったのかもしれない。
保証などない。
この男が何を選ぶかは、この男自身の責任だ。
分かっている。
それでも。
(俺は、本当に無関係なのか)
そう言い切ることはできなかった。
「その影も」
レオンが、俺の足元を見る。
「俺のために使えばいい」
影は、すでにレオンへ届いている。
動かせば。
一瞬で終わる。
だが、まだ動かさない。
エリシアが手を差し出した日のことを思い出す。
突然の雨。
小屋までは遠かった。
彼女は大きな木の下で、外套を広げた。
『入る?』
俺は枝の上にいた。
雨など平気だと、一度は顔を背けた。
だが。
羽根へ水が染み込み、身体が重くなっていく。
エリシアは何も言わず。
外套を開いたまま待っていた。
仕方なく、彼女の胸元へ飛び込んだ。
『冷たい』
雨のせいだ。
『くすぐったい』
外套が閉じる。
暗く。
暖かい。
エリシアの鼓動が聞こえた。
彼女の肩は外へ出ていた。
俺を濡らさないために。
自分の身体で雨を受けている。
『帰ったら、火をつけよう』
帰る。
あの頃は。
その言葉が当たり前にあった。
二人で戻る場所があった。
朝になれば、エリシアがいた。
次の日も。
その次の日も。
続くと思っていた。
「ドルガンから報告がないな」
レオンが窓の外を見る。
「手間取っているのか」
ドルガンを心配しているのではない。
自分の命令が。
予定どおりに進んでいないことへ苛立っている。
「まあいい」
レオンは机へ戻り、名簿を開いた。
「ミリエルが死んだとしても、お前がいれば物語は作れる」
爪が、窓枠へ食い込んだ。
「白い翼に選ばれる少女は、別に用意すればいい」
ミリアでなくてもよい。
従う人間なら。
誰でもよい。
「似た年頃で、見栄えのする娘を探せば――」
影が。
レオンの両足を覆った。
男が言葉を止める。
ようやく。
俺が向けているものが。
警戒ではないと気づいたらしい。
「何だ」
答えない。
遠くから。
何かが砕ける音が聞こえた。
◇
大剣が振り下ろされる。
ミリアは横へ避けた。
だが、右脚が途中で力を失う。
遅い。
刃が左肩を掠めた。
肉が裂ける。
衝撃で身体が回り、石畳へ倒れた。
剣が手から離れ、遠くへ滑っていく。
手を伸ばしても届かない。
ドルガンは、振り下ろした大剣の先を地面へつき、身体を支えていた。
肩が大きく上下している。
鎧の隙間から血が流れている。
それでも。
立っている。
ミリアは倒れている。
「終わりだ」
ドルガンが、大剣を引きずりながら近づく。
ミリアは起き上がろうとした。
左肩へ力が入らない。
右脚も動かない。
視界の端が暗くなっていく。
「武器を捨てていれば、生きられた」
「従っても」
ミリアは息を絞り出した。
「生きてることになりません」
「名を変えるだけだ」
「名前だけじゃない」
「正しい役割を与えられる」
「それを決めるのは、私です」
「子供には、正しい選択が分からない」
「間違えることも」
ミリアは地面へ手をつく。
「私が選びます」
ドルガンの表情が歪んだ。
大剣が持ち上がる。
その後ろ。
黒い馬車の扉が開いた。
レオンの部下が、ハンナの腕を掴んで引きずり出す。
両手を縛られ。
口には布。
額には血が流れている。
足も縄で縛られていた。
「ハンナさん……」
ミリアの声が掠れる。
ハンナはミリアを見る。
強く、首を横へ振った。
従うな。
自分を助けるために、剣を捨てるな。
「女を見ろ」
ドルガンが言った。
「次に逆らえば、あれが死ぬ」
「返すって言いました」
「お前が従えばな」
「もう、信じません」
「ならば死なせろ」
ドルガンが部下へ顎を動かす。
男が短剣を抜き、ハンナの背後へ回った。
「やめて」
「抵抗をやめろ」
ドルガンが、遠くに落ちた剣へ大剣を向ける。
ミリアが武器へ手を伸ばせば、斬るつもりだ。
ハンナの首へ、短剣が近づく。
ミリアの指が石畳を掴んだ。
何を選ぶ。
ドルガンを傷つけても、止まらなかった。
脚を斬った。
腕を斬った。
鎧を落とした。
血を流させた。
それでも。
命令がある限り、男は立ち上がる。
自分を殺す。
ハンナを殺す。
ニルを。
宿の者を。
逃げた先の誰かを。
レオンが命じる限り。
追い続ける。
(止める)
倒すだけでは足りない。
立ち上がれないように。
命令へ従えないように。
(殺す)
その言葉が、頭の中へ浮かんだ。
身体が震える。
怖い。
殺したくない。
人の命を。
自分の剣で終わらせる。
その意味を。
完全に分かっているとは言えない。
それでも。
ここで選ばなければ、ハンナが殺される。
短剣を持った男が近づく。
その瞬間。
ハンナが両腕を強く引いた。
縄は、馬車の金具へ何度も擦りつけられ、半分ほど切れていた。
残った繊維がちぎれる。
ハンナは口の布を下げ。
体勢を変えると
部下を蹴り飛ばした。
「年寄りだからって、油断したね!」
扉が部下の顔へ当たる。
男がよろめき、短剣が落ちた。
ハンナは御者台から地面へ転がり落ちる。
だが、足は縛られたまま。
逃げることはできない。
男が鼻から血を流しながら立ち上がった。
「この婆――」
短剣を拾い。
再び、ハンナへ向かう。
「やめて!」
ミリアが立ち上がろうとする。
右脚が崩れた。
ドルガンが大剣を上げる。
「動くな、ミリエル」
「ミリアです」
「最後まで、くだらないことを」
「くだらなくない」
ミリアは地面へ手をついたまま。
剣を見る。
ドルガンを見る。
肩当てが外れたことで、首元の守りが薄くなっている。
あそこへ。
刃を入れる。
そうすれば。
死ぬ。
狙わなければ届かない。
偶然ではなく。
自分の意思で命を奪うことになる。
「私の名前です」
ミリアは右脚へ力を込めた。
傷が開く。
血が流れる。
痛みで視界が白くなる。
それでも。
立った。
ドルガンが大剣を振る。
ミリアは、刃の下へ飛び込んだ。
大剣が背中の上を通る。
髪が舞う。
石畳へ倒れ込みながら、剣の柄を掴んだ。
ドルガンは大剣を振り切っている。
傷ついた左脚が、巨体を支えきれない。
身体が傾く。
首が露出した。
一瞬。
ミリアの剣先が震えた。
ここへ刺せば終わる。
この機会を逃せば。
次はない。
ハンナへ。
短剣が振り上げられる。
「ミリエル!」
ドルガンが大剣を戻そうとする。
「ミリアです」
ミリアは剣を突き出した。
狙いを外さなかった。
刃が。
鎧と兜の間へ入る。
肉を貫き。
骨へ触れた。
硬い感触が、両手へ伝わる。
ドルガンの目が見開かれた。
大剣が手から落ちる。
石畳へぶつかり、重い音を立てた。
ミリアは、剣を抜かなかった。
まだ動くかもしれない。
止まってほしいと願いながら。
止まる場所へ、自分で刃を入れた。
ドルガンの膝が落ちる。
巨体が、ゆっくりと横倒しになった。
引きずられるように。
ミリアも膝をつく。
剣が傷口から抜けた。
血が、石畳へ広がっていく。
ドルガンは。
もう動かなかった。
「私が……」
剣が、ミリアの手から落ちた。
偶然ではない。
狙った。
そこを刺せば死ぬと、分かっていた。
「私が、殺した」
勝ったとは思わなかった。
助かったとも、すぐには思えない。
ただ。
自分で選んだという事実だけが。
重く。
両手へ残っていた。




