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女神の従魔  作者: 梅椿 六花
第五章 英雄の孫
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第39話 名前を奪う者

「先に、お前から役割を教えてやろう」


 レオンが、窓辺の白い小鳥へ手を伸ばした。

 俺は動かなかった。

 足元から広がった影だけが、厚い絨毯の模様を静かに塗り潰していく。


「警戒する必要はない」

 レオンは、鳥を驚かせまいとするように歩みを緩めた。


「お前には、人の言葉が分かるんだろう?」


 答えない。

 レオンは、それを肯定と受け取ったらしい。


「なら、俺が何者かも理解しているはずだ」


 机の上には、何冊もの名簿が置かれていた。

 名前。

 年齢。

 出身地。

 得意とする技能。

 その横へ、別の名が書き加えられている。

 元の名前には線が引かれていた。


『黒狼』

『暁の歌姫』

『銀嶺の守護者』


 本人の名よりも。

 レオンが与えた役割の方が、大きな文字で記されている。


「名もない者へ価値を与える」

 レオンは名簿の一冊へ手を置いた。


「才能がありながら、その使い方を知らない者は多い。正しい場所へ置いてやれば、初めて本当の価値を得られる」


 名前がなかったわけではない。

 レオンが、その名を価値あるものとして認めなかっただけだ。


「ミリエルも同じだ」

 影の先端が、わずかに揺れた。


「今はまだ、自分が何者になるべきか理解していない。だが、ドルガンが連れてくれば、いずれ分かる」


 連れてくる。

 その言葉の中に、ミリアの意思は含まれていない。


「宿の女主人も、少し痛い目を見れば、余計な真似はしなくなるだろう」


 レオンの声は穏やかだった。

 誰かを傷つける話をしているようには聞こえない。

 間違った場所にある道具を、正しい場所へ戻す。

 その程度のこととして語っている。


「白き翼ルクス」

 もう一度、手を差し出す。


「俺の肩へ来い」

 伸ばされた指先を見つめる。


 エリシアも。

 何度か同じように手を伸ばしたことがある。

 傷の手当てをするとき。

 枝から下りない俺を呼ぶとき。

 隠した木の実の場所を問いただすとき。

 だが。

 彼女は待った。

 俺が近づかなければ、無理に捕まえようとはしなかった。

 少し不満そうに眉を寄せ。

 最後には、自分から手を引いた。

 レオンの片方の眉が上がる。

 その小さな動きに。

 エリシアの面影が重なった。


「まだ、あの娘へ義理立てするつもりか?」

 レオンの笑みが薄くなる。


「ミリエルは、お前を持つには幼すぎる」


 持つ。

 影の先が、細く尖った。


「俺なら、お前の価値を国中へ知らしめられる」


 英雄の孫と。

 伝説の鳥。

 人々が求める物語を、レオンはすでに作り上げている。


「小さな村娘の肩へ乗り、名も知られず旅を続けて何になる」


 誰にも知られないことに。

 何の問題があるのだろう。

 森の小屋を思い出す。

 歓声も。

 称賛も。

 英雄を示す旗もない場所。

 雨風をどうにか防げる屋根。

 古い机。

 硬い寝台。

 二人分にも足りない食事。

 ある夜。

 鍋から、明らかに焦げた匂いがしていた。

 窓辺から覗き込む俺の前で、エリシアは平然と肉を皿へ移した。


『焦げてない』

 端が黒い。


『焼き色』

 炭の匂いがする。


『火は通ってる』

 俺が嘴をつけずにいると。


 エリシアは無言で一切れを口へ入れた。

 噛む。

 飲み込む。

 しばらく黙る。


『……少し苦い』

 俺が鳴くと、眉を寄せた。


『笑った?』

 鳴いただけだ。


『絶対、笑った』


 焦げた部分を切り落とし。

 中の食べられるところだけを、俺へ差し出す。


『こっちは平気』


 疑いながら口へ入れる。

 本当に普通の味だった。

 エリシアは得意そうに頷いた。


『ほら』


 英雄ではない。

 焦げた料理をごまかそうとした、一人の女性。

 その姿を知っている者は。

 もう、俺しかいない。

     ◇

 ドルガンの大剣が石畳を砕いた。

 ミリアは横へ転がり、飛び散る石から顔を守る。

 立ち上がろうとした右脚へ、鋭い痛みが走った。

 腿の傷から血が流れている。

 左肩も。

 脇腹も。

 呼吸をするたびに痛んだ。

 それでも、剣は離さない。


「鳥は戻らない」


 ドルガンが大剣を持ち上げた。

 男も無傷ではない。

 荒い呼吸。

 額を流れる汗。

 左脚を引きずっている。

 ミリアが与えた傷は、どれも一撃で倒すほど深くない。

 だが。

 一つ一つが、確実に巨体を削っていた。


「お前を捨てた」

「違います」


「なら、どこにいる」

 分からない。


 戦いへ集中しすぎて、ぴよちゃんが飛び立った瞬間にも気づけなかった。


「戻ってきます」

「なぜ言い切れる」


「ぴよちゃんだからです」


 説明にはなっていない。

 それでも。

 ミリアには十分な理由だった。

 ドルガンが踏み込む。

 最初より遅い。

 だが、大剣の軌道は小さくなっている。

 浅い傷で消耗させようとしていることを、ドルガンも理解したのだ。

 柄を短く握り。

 大剣を槍のように突き出す。

 ミリアは身体を捻った。

 刃が右肩を掠める。

 服が裂け、皮膚へ熱い線が走った。

 避けた直後。

 ドルガンは柄を横へ払う。

 膝へ直撃した。


「っ……!」


 脚から力が抜ける。

 片膝をつく。

 次の刃が、首を狙って迫った。

 正面から受ければ、剣ごと身体を断たれる。

 ミリアは自分の剣を斜めに当てた。

 止めるのではない。

 大剣の側面へ滑らせ、軌道を逸らす。

 風が頬を切った。

 髪が数本、宙へ舞う。

 ミリアは地面へ手をつき、ドルガンの足元を転がった。

 背後へ抜ける。

 左膝の裏。

 すでに傷つけた場所へ、もう一度剣を走らせた。


「ぐっ……!」


 ドルガンの左脚が崩れる。

 巨体が片膝をついた。

 ミリアは首を狙わない。

 右肩の鎧。

 先ほど傷つけた留め具へ刃を入れる。

 革紐が切れた。

 肩当てが石畳へ落ちる。

 鎧と腕の間。

 守りの薄い場所が露出した。

 ミリアはすぐに距離を取ろうとする。

 だが。

 傷ついた右脚が遅れた。

 ドルガンは片膝をついたまま、大剣を横へ払う。

 刃先が、ミリアの腿を裂いた。


「っ!」


 血が飛ぶ。

 今度は浅くない。

 身体が傾く。

 剣を地面へつき、どうにか転倒だけは防いだ。

 ドルガンも立ち上がる。

 左脚を引きずり。

 鎧の隙間から血を流しながら。

 それでも、大剣を下ろさない。


「理解したか」

 ドルガンが言った。


「力の差を」

「はい」

 ミリアは荒い息を整えた。


「分かってます」

「なら、剣を捨てろ」


「嫌です」

「なぜだ」


「力では勝てないからです」

 ドルガンの目が細くなる。


「だから」

 震える脚へ力を込める。


「力で勝とうとしていません」


 強くない。

 才能があるわけでもない。

 訓練では何度も転んだ。

 剣を弾かれた。

 同じ失敗を繰り返した。

 一度でできたことなど、ほとんどない。

 だから。

 一度で倒せないことに、驚きはなかった。


「一回で勝てないなら」

 剣を構え直す。


「倒れるまで続けます」

 ドルガンが歯を食いしばった。


「小娘が」

「ミリアです」


「くだらん」

「くだらなくありません」


 剣を持つ手が震えている。

 痛み。

 恐怖。

 疲労。

 それでも。

 名前だけは、はっきりと言えた。


「私の名前です」


 ドルガンが吠え、大剣を振り上げた。

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