第39話 名前を奪う者
「先に、お前から役割を教えてやろう」
レオンが、窓辺の白い小鳥へ手を伸ばした。
俺は動かなかった。
足元から広がった影だけが、厚い絨毯の模様を静かに塗り潰していく。
「警戒する必要はない」
レオンは、鳥を驚かせまいとするように歩みを緩めた。
「お前には、人の言葉が分かるんだろう?」
答えない。
レオンは、それを肯定と受け取ったらしい。
「なら、俺が何者かも理解しているはずだ」
机の上には、何冊もの名簿が置かれていた。
名前。
年齢。
出身地。
得意とする技能。
その横へ、別の名が書き加えられている。
元の名前には線が引かれていた。
『黒狼』
『暁の歌姫』
『銀嶺の守護者』
本人の名よりも。
レオンが与えた役割の方が、大きな文字で記されている。
「名もない者へ価値を与える」
レオンは名簿の一冊へ手を置いた。
「才能がありながら、その使い方を知らない者は多い。正しい場所へ置いてやれば、初めて本当の価値を得られる」
名前がなかったわけではない。
レオンが、その名を価値あるものとして認めなかっただけだ。
「ミリエルも同じだ」
影の先端が、わずかに揺れた。
「今はまだ、自分が何者になるべきか理解していない。だが、ドルガンが連れてくれば、いずれ分かる」
連れてくる。
その言葉の中に、ミリアの意思は含まれていない。
「宿の女主人も、少し痛い目を見れば、余計な真似はしなくなるだろう」
レオンの声は穏やかだった。
誰かを傷つける話をしているようには聞こえない。
間違った場所にある道具を、正しい場所へ戻す。
その程度のこととして語っている。
「白き翼ルクス」
もう一度、手を差し出す。
「俺の肩へ来い」
伸ばされた指先を見つめる。
エリシアも。
何度か同じように手を伸ばしたことがある。
傷の手当てをするとき。
枝から下りない俺を呼ぶとき。
隠した木の実の場所を問いただすとき。
だが。
彼女は待った。
俺が近づかなければ、無理に捕まえようとはしなかった。
少し不満そうに眉を寄せ。
最後には、自分から手を引いた。
レオンの片方の眉が上がる。
その小さな動きに。
エリシアの面影が重なった。
「まだ、あの娘へ義理立てするつもりか?」
レオンの笑みが薄くなる。
「ミリエルは、お前を持つには幼すぎる」
持つ。
影の先が、細く尖った。
「俺なら、お前の価値を国中へ知らしめられる」
英雄の孫と。
伝説の鳥。
人々が求める物語を、レオンはすでに作り上げている。
「小さな村娘の肩へ乗り、名も知られず旅を続けて何になる」
誰にも知られないことに。
何の問題があるのだろう。
森の小屋を思い出す。
歓声も。
称賛も。
英雄を示す旗もない場所。
雨風をどうにか防げる屋根。
古い机。
硬い寝台。
二人分にも足りない食事。
ある夜。
鍋から、明らかに焦げた匂いがしていた。
窓辺から覗き込む俺の前で、エリシアは平然と肉を皿へ移した。
『焦げてない』
端が黒い。
『焼き色』
炭の匂いがする。
『火は通ってる』
俺が嘴をつけずにいると。
エリシアは無言で一切れを口へ入れた。
噛む。
飲み込む。
しばらく黙る。
『……少し苦い』
俺が鳴くと、眉を寄せた。
『笑った?』
鳴いただけだ。
『絶対、笑った』
焦げた部分を切り落とし。
中の食べられるところだけを、俺へ差し出す。
『こっちは平気』
疑いながら口へ入れる。
本当に普通の味だった。
エリシアは得意そうに頷いた。
『ほら』
英雄ではない。
焦げた料理をごまかそうとした、一人の女性。
その姿を知っている者は。
もう、俺しかいない。
◇
ドルガンの大剣が石畳を砕いた。
ミリアは横へ転がり、飛び散る石から顔を守る。
立ち上がろうとした右脚へ、鋭い痛みが走った。
腿の傷から血が流れている。
左肩も。
脇腹も。
呼吸をするたびに痛んだ。
それでも、剣は離さない。
「鳥は戻らない」
ドルガンが大剣を持ち上げた。
男も無傷ではない。
荒い呼吸。
額を流れる汗。
左脚を引きずっている。
ミリアが与えた傷は、どれも一撃で倒すほど深くない。
だが。
一つ一つが、確実に巨体を削っていた。
「お前を捨てた」
「違います」
「なら、どこにいる」
分からない。
戦いへ集中しすぎて、ぴよちゃんが飛び立った瞬間にも気づけなかった。
「戻ってきます」
「なぜ言い切れる」
「ぴよちゃんだからです」
説明にはなっていない。
それでも。
ミリアには十分な理由だった。
ドルガンが踏み込む。
最初より遅い。
だが、大剣の軌道は小さくなっている。
浅い傷で消耗させようとしていることを、ドルガンも理解したのだ。
柄を短く握り。
大剣を槍のように突き出す。
ミリアは身体を捻った。
刃が右肩を掠める。
服が裂け、皮膚へ熱い線が走った。
避けた直後。
ドルガンは柄を横へ払う。
膝へ直撃した。
「っ……!」
脚から力が抜ける。
片膝をつく。
次の刃が、首を狙って迫った。
正面から受ければ、剣ごと身体を断たれる。
ミリアは自分の剣を斜めに当てた。
止めるのではない。
大剣の側面へ滑らせ、軌道を逸らす。
風が頬を切った。
髪が数本、宙へ舞う。
ミリアは地面へ手をつき、ドルガンの足元を転がった。
背後へ抜ける。
左膝の裏。
すでに傷つけた場所へ、もう一度剣を走らせた。
「ぐっ……!」
ドルガンの左脚が崩れる。
巨体が片膝をついた。
ミリアは首を狙わない。
右肩の鎧。
先ほど傷つけた留め具へ刃を入れる。
革紐が切れた。
肩当てが石畳へ落ちる。
鎧と腕の間。
守りの薄い場所が露出した。
ミリアはすぐに距離を取ろうとする。
だが。
傷ついた右脚が遅れた。
ドルガンは片膝をついたまま、大剣を横へ払う。
刃先が、ミリアの腿を裂いた。
「っ!」
血が飛ぶ。
今度は浅くない。
身体が傾く。
剣を地面へつき、どうにか転倒だけは防いだ。
ドルガンも立ち上がる。
左脚を引きずり。
鎧の隙間から血を流しながら。
それでも、大剣を下ろさない。
「理解したか」
ドルガンが言った。
「力の差を」
「はい」
ミリアは荒い息を整えた。
「分かってます」
「なら、剣を捨てろ」
「嫌です」
「なぜだ」
「力では勝てないからです」
ドルガンの目が細くなる。
「だから」
震える脚へ力を込める。
「力で勝とうとしていません」
強くない。
才能があるわけでもない。
訓練では何度も転んだ。
剣を弾かれた。
同じ失敗を繰り返した。
一度でできたことなど、ほとんどない。
だから。
一度で倒せないことに、驚きはなかった。
「一回で勝てないなら」
剣を構え直す。
「倒れるまで続けます」
ドルガンが歯を食いしばった。
「小娘が」
「ミリアです」
「くだらん」
「くだらなくありません」
剣を持つ手が震えている。
痛み。
恐怖。
疲労。
それでも。
名前だけは、はっきりと言えた。
「私の名前です」
ドルガンが吠え、大剣を振り上げた。




