第37話 それぞれの戦い
扉を開けた瞬間。
鉄の籠手に覆われた拳が飛んできた。
ミリアが頭を下げる。
拳は扉へ当たり、厚い木材を砕いた。
「話し合いは終わりだ」
ドルガンが宿へ踏み込む。
背負っていた大剣を抜いた。
刃だけで、ミリアの身体ほどの長さがある。
「鳥を渡せ」
「嫌です」
「なら、先にお前を倒す」
大剣が横へ薙がれた。
ミリアが床へ身を投げる。
刃は椅子と机をまとめて砕いた。
飛んだ木片が頬を掠める。
「ミリア!」
厨房の奥から、ニルの声がした。
「出てこないで!」
ドルガンの視線が、一瞬だけ厨房へ向く。
俺の影が伸びた。
首まで届く。
今なら。
一瞬で殺せる。
(まだだ)
ミリアは、自分で抵抗すると決めた。
すべてを俺が終わらせる場面ではない。
ドルガンが大剣を持ち上げる。
ミリアは玄関から外へ出た。
狭い宿で戦えば、ニルを巻き込む。
ドルガンも迷わず追った。
夜明け前の通り。
人影はない。
荷車。
積まれた樽。
宿と石塀の間にある細い道。
ミリアは広場へ出ず、大剣を振り回しにくい場所へ入った。
「逃げるつもりか」
「違います」
剣を両手で構える。
「ここで止めます」
ドルガンが踏み込んだ。
速い。
大きな身体から想像するよりも、初動が短い。
大剣が上から落ちる。
ミリアは正面で受けず、右へ転がった。
刃が地面を割る。
石と土が跳ねた。
振り下ろした直後。
ドルガンの右腕が伸び切る。
ミリアが踏み込み、籠手と鎧の隙間へ剣を走らせた。
浅い。
血が一筋流れる。
ドルガンは腕を振り、ミリアの肩を籠手で打った。
「っ!」
身体が塀へぶつかる。
剣を落としかける。
すぐに、大剣が横へ薙がれた。
ミリアは塀へ背をつけたまま膝を折る。
刃が頭上を通り過ぎた。
帽子が飛ぶ。
石壁へ深い傷が刻まれた。
(速い)
ドルガンは、ただ力が強いのではない。
狭い場所では柄を短く持ち、刃が壁へ当たらない角度を選んでいる。
大剣を扱うことへ慣れていた。
ミリアが後ろへ下がる。
ドルガンが追う。
斜めに振り下ろされた刃を、荷車の陰へ回って避けた。
車輪が割れる。
積まれていた樽が崩れ、ドルガンの足元へ転がった。
動きが、わずかに止まる。
ミリアは左脚を狙った。
膝の裏。
鎧の継ぎ目。
剣先が浅く入る。
ドルガンは振り返りざまに、大剣の柄を突き出した。
ミリアの腹へ当たる。
「うっ……!」
身体が折れる。
咳き込みながらも、剣は離さなかった。
「力の差が分かったか」
ドルガンの左脚から血が流れている。
「今なら、まだ間に合う」
ミリアは答えず、呼吸を整えた。
大剣。
腕。
肩。
脚。
視線がドルガンの全身を移動している。
(見ている)
恐怖で動けないのではない。
次の攻撃を待っている。
ドルガンが踏み込む。
大剣が右から左へ振られた。
ミリアは後ろへ逃げなかった。
刃が最も速くなる外側ではなく。
ドルガンの身体へ近い内側へ入った。
肩と肩がぶつかる。
剣を振る空間はない。
ミリアは柄頭を、ドルガンの顎へ打ちつけた。
硬い音。
男の頭が揺れる。
そのまま、脇の下へ剣を滑らせた。
今度は少し深い。
血が鎧の内側から流れる。
ドルガンの膝が、わずかに沈んだ。
ミリアは追撃しなかった。
すぐに距離を取る。
(分かっている)
倒し切れない相手へ深追いすれば、反撃を受ける。
ミリアは、浅い傷を積み重ねようとしていた。
力では勝てない。
正面から打ち合わない。
動くたびに血を失わせ。
重い鎧と大剣で、体力を削る。
(勝ち方を見つけた)
無傷ではない。
肩を痛め。
腹にも一撃を受けている。
一度判断を誤れば、大剣で身体を断たれる。
それでも。
この戦い方を続けられれば。
(勝てる)
ドルガンは、ミリアをまだ子供だと思っている。
浅い傷を軽視し。
一撃で終わらせようとする。
動きを変えない。
ミリアは、攻撃を受けるたびに次の方法を考えている。
俺が手を出さなくても。
ミリアは戦える。
その事実が。
安堵と、わずかな痛みを同時に運んだ。
(なら)
俺がここへ残る意味は何だ。
危なくなった瞬間。
ミリアの代わりにドルガンを殺すためか。
それでは。
最後には俺の答えが、ミリアの選択を塗りつぶす。
そして。
ドルガンを倒しても、命じた男は残る。
レオンは次の町へ行く。
別の者へ名前と役割を与え。
断られれば、周囲を人質にする。
(止めるべきなのは)
ドルガンだけではない。
俺は翼を広げた。
ミリアは戦いへ集中している。
ドルガンの足。
肩。
呼吸。
大剣の角度。
俺が屋根を離れたことには、気づかなかった。
◇
町の上空は、白み始めていた。
広場には昨夜の飾りが残っている。
黒と銀の布。
空になった酒樽。
路上で眠る者たち。
英雄の孫を称える旗。
(レオンを止める)
どうやって。
問いただすのか。
脅すのか。
命令書を奪い、二度とミリアへ近づかないと約束させるのか。
それで終わるだろうか。
今日だけ退いても。
レオンは、また同じことをする。
(なら)
殺すのか。
エリシアの孫を。
自分の手で。
翼が乱れた。
屋根を越えたとき。
細い路地の下から、低い声が聞こえた。
「今夜こそやる」
速度を落とす。
路地の陰に、二人の男がいた。
一人は短剣を握っている。
「兵に捕まったら終わりだぞ」
「妹は、もう戻らない」
「証拠がない」
「あいつが連れていった」
レオンの名は出ない。
だが、誰のことを話しているのか分かった。
「宴が終われば、護衛が増える」
「だから今日だ」
男は短剣を布へ包んだ。
(すでにいる)
レオンを殺そうとしている者が。
短剣一本で。
あの護衛の中へ入ろうとしている。
失敗すれば殺される。
成功したとしても。
英雄の孫を殺した罪で追われる。
家族や仲間まで疑われるかもしれない。
(それを、させるのか)
エリシアを思い出した。
英雄ではない。
森の小屋で鍋を焦がし。
何も失敗していない顔で皿を差し出した彼女。
雨の日。
濡れた俺を外套の内側へ入れ。
自分の肩が濡れていることには気づかなかった彼女。
戦いのない朝。
寝癖のついた髪で窓を開け。
眠そうな声で、アッシュと呼んだ彼女。
(エリシアがいたら)
レオンを止めただろうか。
叱っただろうか。
英雄の名は、人を従わせるためのものではないと教えただろうか。
だが。
エリシアは帰れなかった。
(俺が、帰らせなかった)
レオンが今の人間になった責任は、レオンにある。
本当は分かっている。
それでも。
エリシアが、家族のもとへ帰れなかった理由の一つが俺なら。
何の関係もないとは思えなかった。
(俺に、裁く権利があるのか)
ない。
エリシアの人生から、選択肢を奪った俺に。
その孫を裁く権利などない。
だからといって。
名前を奪われた者に。
家族を連れ去られた者に。
レオンを殺した罪まで背負わせるのか。
(それも違う)
権利があるからではない。
正しい裁きだからでもない。
俺が関わって生まれたかもしれないものを。
無関係な誰かへ押しつけないために。
(俺が止める)
どのような結末になるのかは分からない。
それでも。
迎賓館へ向かう翼は、もう迷わなかった。
◇
ドルガンの大剣が、荷車を真っ二つにした。
木片が飛ぶ。
ミリアは腕で顔を守った。
左腕の傷から、血が落ちる。
ドルガンも荒い息をしていた。
動きは遅くなっている。
だが、一撃の重さは変わらない。
「鳥はどうした」
ミリアは反射的に肩を見る。
白い小鳥はいない。
「ぴよちゃん?」
いつから。
戦いへ集中していた。
飛び立つ音も聞いていない。
(どこへ行ったの)
胸へ不安が広がる。
その隙を。
ドルガンは見逃さなかった。
大剣の腹が、ミリアの脇腹へ当たった。
刃ではない。
それでも身体が浮き、塀へ叩きつけられる。
「っ……!」
剣が手から離れた。
息が吸えない。
ドルガンが近づく。
「鳥に逃げられたか」
大剣を持ち上げる。
「なら、お前にはもう価値がない」
抵抗が続く場合は、処分を許可する。
ミリアは地面へ手をついた。
視界の端に、自分の剣がある。
遠い。
「ぴよちゃんは」
息を絞り出す。
「逃げたんじゃない」
「なら、見捨てられた」
「違う」
根拠はなかった。
どこへ行ったのかも分からない。
それでも。
あの白い鳥が。
何も言わず、自分を捨てて逃げたとは思えなかった。
「戻ってくる」
ドルガンが大剣を振り下ろす。
ミリアは地面を転がった。
刃が、先ほどまで頭のあった場所へ食い込む。
手を伸ばす。
剣の柄へ、指が触れた。
つかむ。
ドルガンが大剣を引き抜こうとする。
刃は土へ深く刺さり、一瞬だけ止まった。
ミリアは立ち上がる。
傷ついた左脚へ、剣を振るった。
今までより深く。
「ぐっ……!」
ドルガンの膝が地面へ落ちた。
初めて、男の口から苦痛の声が漏れる。
ミリアは追わない。
距離を取る。
息が苦しい。
脇腹が痛い。
左腕の血も止まっていない。
それでも。
剣を構えた。
(ぴよちゃんがいなくても)
自分で決めた。
ここで抵抗すると。
誰かの名前と選択を奪うことへ。
嫌だと言うために。
「まだ、やりますか」
ドルガンは、傷ついた脚で立ち上がった。
「命令がある」
大剣を構える。
止まるつもりはない。
ミリアも剣先を向けた。
「私にも」
荒い呼吸の合間に言う。
「やると決めたことがあります」




