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女神の従魔  作者: 梅椿 六花
第五章 英雄の孫
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第35話 私の名前

 迎賓館を出る。

 夕方の風が、熱くなった頬を冷やした。

 ドルガンは、少し離れて後ろを歩いている。

 送るという名目。

 だが、見張られているようにも感じる。


「ぴよちゃん」

(何だ)


「怒ってる?」

「ぴ」


「名前のこと?」

「ぴ」


「私も」

 ミリアの指が、俺の足元へ近づいた。


「ルクスって呼ばれたい?」

「ぴ、ぴ」


「ぴよちゃんがいい?」

 少し迷った。


 ぴよちゃん。

 かわいらしすぎる。

 威厳もない。

 初めて呼ばれたときは不満だった。

 それでも。

 ミリアが何度も呼んだ。

 村で。

 治療院で。

 街道で。

 戻ってきてほしいと願う声で。

 その名前は、いつの間にか。

 ミリアのもとへ帰るための名前になっていた。


「ぴ」

 ミリアが笑う。


「そっか」

(お前が呼ぶならな)


「私も、ミリアがいい」

 町の通りへ戻ると、人々が俺たちを見るようになった。


「レオン様に呼ばれた子だ」

「白い鳥を連れてる」

「新しい従者か?」


 ドルガンが後ろにいるため、誰も近づいてはこない。

 夜明け亭へ着く。

 ハンナが扉の前へ立っていた。


「帰ったかい」

「はい」


 ドルガンが低い声で言った。


「夜の宴へ、必ず来るように」

「行かないと伝えました」


「レオン様は待っている」

「私は行きません」

 ドルガンの表情は変わらない。


「ミリエル」

「ミリアです」


 訂正しても。

 男は言い直さなかった。

 踵を返し、重い足音とともに去っていく。

 姿が見えなくなってから、ハンナが扉を閉めた。


「何を言われた?」


 ミリアは、迎賓館での会話を説明した。

 俺をルクスと呼ぶと言われたこと。

 自分も別の名前へ変えられそうになったこと。

 レオンの隣へ立つよう求められたこと。

 そして、断ったこと。

 ハンナは黙って聞いていた。


「悪い噂は、そのことだったんですか?」

「似た話はある」


「ほかにも?」

「若い剣士。歌のうまい娘。珍しい魔物を連れた旅人」

 レオンは、目を引いた者を自分の一行へ加える。


「皆、名前を変えられたんですか?」

「役目に合う名を与えられた、と喜んだ者もいた」


「断った人は?」

「町を出た」


「自分で?」

 ハンナは、すぐには答えなかった。


「そう言われている」

 ミリアが俯く。


「レオンさんは、英雄の孫なのに」

「英雄の孫だからこそ、誰も強く言えないのさ」

 ハンナは水の入った杯を置いた。


「金を配り、魔物も倒している。感謝している者も多い」

「なら、悪い人ではない?」


「人間を、いいか悪いかの二つだけで決めるのかい?」

 ミリアは答えられなかった。


「本物の孫でも」


 ハンナは宿帳を見る。

 そこには、ミリア自身が書いた名前がある。


「今日、あんたが嫌だと思ったことまで、正しくなるわけじゃない」

「はい」


「今夜の宴には出ない方がいい」

「行くつもりはありません」


「なら、部屋から出るな。窓も閉めておきな」

「何か起きるんですか?」


「起きなければいいと思ってる」


     ◇

 日が沈む頃。

 広場から音楽が聞こえてきた。

 笛。

 太鼓。

 英雄の孫を称える歓声。

 俺たちは部屋で夕食を取った。

 黒パン。

 豆のスープ。

 焼いた肉。

 机の端には、迎賓館から届いた招待状が置かれている。

 宛名は。


『ミリエル様』


 ミリアは炭筆を取り、その文字へ線を引いた。

 横へ書く。


『ミリア』


 その下には。


『白き翼ルクス』


 同じように線を引き。


『ぴよちゃん』


 と書いた。


「これでいい」

(ああ)


「レオンさん、本当にエリシアの孫だと思う?」

 すぐには答えられなかった。


 強く似ているわけではない。

 それでも。

 ふとした表情に、エリシアの面影を感じた。

 町の人々も。

 国の者たちも。

 血筋を認めているという。

 偽物だと疑う理由は、今の俺にはなかった。


「ぴ」

「本物だと思う?」

 もう一度、一回鳴いた。


「そっか」

 ミリアは招待状を見る。


「でも、嫌だった」

(ああ)


「孫でも、名前を決められるのは嫌」

 頷くように頭を下げる。


「ぴよちゃん」

(何だ)


「私が名前をつけたとき、嫌だった?」

「ぴ」


「やっぱり」

 ミリアが気まずそうに笑う。


「でも、今は?」

「ぴ」


「よかった」

 少し間を置く。


「嫌なら、変えていいからね」

(今さら別の名で呼ばれる方が落ち着かない)


「ぴよちゃんが決めていいよ」

 その言葉が。


 レオンが与えようとした、どんな美しい名前よりも。

 俺には重かった。

 アッシュという名も。

 ぴよちゃんという名も。

 どちらも誰かから与えられた。

 だが、エリシアもミリアも。

 呼ぶことはしても。

 従わせるための役割までは押しつけなかった。

 名前を受け入れるかどうか。

 その余地を残してくれた。

 レオンは、エリシアの孫かもしれない。

 だからといって。

 俺やミリアの選択を奪ってよい理由にはならない。

 頭では分かっている。

 それでも。

 胸には、まだ負い目が残っていた。


(俺が、エリシアを帰らせていれば)


 レオンは祖母と会えただろうか。

 エリシアから、何かを教わっただろうか。

 そうすれば。

 今とは違う人間になったのだろうか。


(分からない)


 分からないからこそ。

 責めることも。

 切り捨てることも。

 俺には難しかった。

     ◇

 夜が深くなっても、宴の音は続いていた。

 ミリアは剣の手入れをしている。

 俺は窓辺から外を見ていた。

 宿の前。

 路地。

 向かいの屋根。

 誰かに見られている感覚が消えない。

 通りの端。

 街灯の届かない場所に。

 大きな影が立っていた。


(ドルガン)


 あの体格を見間違えるはずがない。

 男は宿を見ている。

 正確には。

 二階にある、この部屋の窓を。

 視線が合った。

 ドルガンは動かない。

 剣へも手を伸ばさない。

 ただ、見張っている。

 足元から、細い影が伸びた。

 窓枠を伝い。

 壁へ落ちる。

 その気になれば。

 男の首まで届かせられる。


(まだだ)


 攻撃されてはいない。

 レオンは、エリシアの孫。

 その事実が、影を鈍らせる。

 同時に。

 ミリアが、自分で拒絶したことを思い出す。

 俺が一人で結論を出す必要はない。

 影を戻した。

 ドルガンも、しばらくすると暗がりから消えた。

 階下で扉が開く音がした。

 ハンナの声。

 誰かと短く話している。

 やがて、足音が遠ざかった。

 少しして。

 部屋の扉が控えめに叩かれる。


「ミリア。起きてるかい?」

 ハンナの声だった。


「はい」

 扉を開ける。


 ハンナは廊下に立っていた。

 手には、小さく折り畳まれた紙がある。


「明日の夜明け前に、この町を出な」

「急ですね」


「レオンの連中が、宿の周りを見てる」

「ドルガンさんもいました」


「気づいてたか」

 ハンナが声を抑える。


「厨房の奥に、荷運び用の裏口がある。正面から出る必要はない」

「ハンナさんは?」


「私は宿の主人だ。ここに残る」

「危なくないですか?」


「大人の心配まで、全部背負うんじゃないよ」

 ハンナは、ミリアの額を指で軽く押した。


「今のあんたが考えるのは、自分と鳥のことだ」

「その紙は?」


「次の町にいる知り合いへの紹介状だ」

「どうして、そこまで」


「うちの宿で、客の名前を勝手に変えられたら困る」

 ハンナは少し笑った。


「宿帳を書き直すのは面倒だからね」

「ありがとうございます」


「礼は、無事に町を出てから言いな」

 ハンナは階下へ戻っていった。

 ミリアが扉を閉める。


「明日、出よう」

「ぴ」


「逃げるみたいで嫌だけど」

(戦う理由はない)


「今の私では、ドルガンに勝てないしね」

 ミリアは剣を見る。


「ぴよちゃんが倒す?」

 答えなかった。


 倒すだけなら、難しくはない。

 だが。

 レオンがエリシアの孫だと思うと。

 その護衛を殺すことに、迷いが生まれる。


「冗談」

 ミリアは剣を鞘へ戻した。


「戦わずに出られるなら、それが一番」

(ああ)


 剣を抜かずに終わる日が、一番よい。

 今はまだ。

 そうできるはずだった。

     ◇

 ミリアが眠った後。

 俺は窓辺で夜を見張っていた。

 広場の音楽が、少しずつ小さくなる。

 酔った者の歌声。

 笑い声。

 英雄の孫を称える声。

 寝台を見る。

 ミリアは眠っている。

 枕元には剣。

 机には、線を引かれた招待状。


『ミリエル』

『ルクス』


 その上から書き直された名前。


『ミリア』

『ぴよちゃん』


 誰かに与えられた役割ではない。

 今の俺たちが。

 互いを呼ぶための名前。


(奪わせない)


 そう思い。

 すぐに、言葉を改めた。


(俺一人で守るのではない)


 ミリアは自分で声を上げた。

 嫌だと言った。

 名前を訂正した。

 俺が、すべてを背負う必要はない。

 それでも。

 相手が力ずくで奪おうとするなら。

 白い羽根の下で。

 本来の黒い翼が、静かに軋んだ。

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