第34話 名前を決める者
広場を離れた俺たちは、宿を探した。
祭りの影響で、どこも混んでいる。
一軒目は満室。
二軒目も空きがない。
三軒目。
通りから少し外れた場所に、小さな宿があった。
看板には『夜明け亭』と書かれている。
「一人なら空いてるよ」
女主人が宿帳を開いた。
五十歳ほど。
灰色の髪を後ろでまとめ、片目の下に細い傷がある。
「鳥も一緒です」
「籠には入るかい?」
「入りません」
「部屋を荒らす?」
「荒らしません」
「糞は?」
「たぶん」
(なぜ毎回そこで迷う)
女主人は俺を見た。
「利口そうな鳥だね」
「はい。ぴよちゃんです」
(また紹介された)
「私はハンナ。この宿では、人間も魔族も鳥も、金を払えば客だ」
「よろしくお願いします」
ミリアが宿帳へ名前を書く。
『ミリア』
ハンナは文字を確かめ、鍵を渡した。
「二階の奥だ」
「ありがとうございます」
「それと」
ハンナが声を落とした。
「今夜は、外が騒がしくなるかもしれない」
「歓迎のお祭りですよね?」
「祭りだけならいいんだけどね」
「レオンさんの悪い噂を知ってるんですか?」
ハンナがミリアを見る。
「聞いてきたのかい?」
「気に入った人を、一行へ加えたがるって」
「似た話は聞く」
「本当なんですか?」
「金を配られて困る者はいない。魔物を倒されて怒る者もいない」
ハンナはカウンターへ肘をついた。
「感謝している人間も大勢いる。英雄の孫だということも、ほとんどの者が疑っていない」
「ハンナさんも?」
「本物なんだろうさ」
関心が薄いような口調だった。
「だが、立派な血筋と、本人の振る舞いは別の話だ」
そのとき。
宿の扉が開いた。
黒い服を着た男が二人、入ってくる。
胸には銀色の剣の印。
レオンの一行だった。
「白い鳥を連れた少女だな」
男がミリアを見る。
「レオン様がお会いになる」
「私に?」
「正確には、その鳥に興味を持たれた」
(俺か)
「招待ですか?」
ハンナが尋ねた。
「そうだ」
「なら、断ることもできるね」
男の表情が少し固くなる。
「断る理由はない」
「それを決めるのは、あんたじゃない」
ハンナはミリアを見る。
ミリアも、俺へ視線を向けた。
(行きたくなければ、行く必要はない)
そう思う。
だが。
レオンが本当にエリシアの孫なら。
俺にも、ただ逃げるだけでよいのかという迷いがあった。
顔を合わせる資格があるのか。
謝ることすらできないのに。
それでも。
孫の姿から目を逸らしてよいのか。
「会うだけですか?」
ミリアが男へ尋ねる。
「そうだ」
「ぴよちゃんも一緒で?」
「そのための招待だ」
ミリアが俺を見る。
「行ってみる?」
答えられなかった。
拒むことも。
肯定することもできない。
ミリアは少し待った。
俺が答えないことも、一つの意思として受け止めたらしい。
「会うだけなら」
男たちを見る。
「少しだけ行きます」
「嫌だと思ったら、途中でも帰ってきな」
ハンナが言った。
「はい」
◇
迎賓館は、町長の屋敷の隣にあった。
二階建ての石造り。
応接室の壁には、黒い鎧と銀の剣を描いた旗が飾られている。
レオンは鎧を脱ぎ、白い上着と黒い外套を身につけていた。
その背後には、先ほどの大男が立っている。
「来てくれてうれしいよ」
レオンが立ち上がった。
「君たちを見つけた瞬間、祖母の物語を思い出した」
「女の剣士と鳥だからですか?」
「そうだ」
レオンが笑う。
近くで見ると。
やはり、似ているような気がした。
口元。
目を細める癖。
エリシアそのものではない。
それでも、血がつながっていると言われれば。
俺には否定できなかった。
「その鳥へ触れても?」
レオンが手を伸ばす。
反射的に、ミリアの反対側の肩へ移った。
「警戒されているな」
「初めて会う人には、少し」
「賢い鳥だ」
レオンは気を悪くした様子もなく、手を下ろした。
「名前は?」
「ぴよちゃんです」
応接室へ、短い沈黙が落ちる。
「ぴよちゃん?」
「はい」
「その鳥が?」
「はい」
レオンは俺を見る。
「似合わないな」
(何だと)
「そうですか?」
「もっと相応しい名がある」
レオンは、少し考えるように目を細めた。
「ルクス」
「ルクス?」
「古い言葉で、光を意味する」
白い翼。
人の言葉を理解する鳥。
英雄の血を引く者の前へ現れた存在。
「今日から、その鳥はルクスと呼ぼう」
ミリアの表情が止まった。
「でも、この子の名前はぴよちゃんです」
「今までは、だろう?」
「これからもです」
「その名では、人々がありがたがらない」
「ありがたがる必要はありません」
「特別なものには、特別な名がいる」
レオンは、当然のことを教えるように言った。
「名前は役割を与える。白き翼ルクス。英雄の血を導く鳥」
すでに、物語を作っている。
俺が何者なのか。
何を望んでいるのか。
確かめる前に。
「ぴよちゃんは、そんな役割を求めていません」
「鳥の意思が分かるのか?」
「全部は分かりません。でも、嫌なときは二回鳴きます」
レオンが俺を見る。
「ルクスという名は、どうだ?」
「ぴ、ぴ」
はっきり二回鳴いた。
レオンの口元が、一瞬だけ止まる。
すぐに、穏やかな笑みへ戻った。
「慣れていないだけだ」
「本人が嫌だと言っています」
「名前は、本人だけのものではない」
「だから、勝手に変えていいんですか?」
「よりよい名を与えられる者ならな」
足元で、影が揺れた。
エリシアは違った。
彼女がアッシュという名を口にしたとき。
命令しなかった。
問いかけるように呼んだ。
何度も。
俺が応じるまで待った。
目の前の青年は。
エリシアの孫だという男は。
自分が作る物語へ合わせるために、俺の名を変えようとしている。
(やめろ)
影を伸ばしかける。
だが。
胸の奥から、別の声が湧いた。
(俺に、何を言う資格がある)
エリシアの意思を無視したのは、自分も同じだ。
守るという言葉で。
帰る道を奪った。
家族と過ごせたかもしれない時間まで。
その孫へ。
相手の意思を尊重しろと責める資格があるのか。
影が止まった。
「ぴよちゃん」
ミリアが小さく呼ぶ。
我に返る。
ミリアの手が、肩の近くへ添えられていた。
触れない。
捕まえない。
ただ、そこにある。
「君の名は?」
レオンが尋ねる。
「ミリアです」
「ミリア」
音を確かめるように繰り返す。
「悪くはない」
「ありがとうございます」
「だが、物語の中では少し弱い」
「物語?」
「白き翼とともに歩む少女だ」
レオンは机に置かれた紙へ文字を書いた。
『ミリエル』
「今日から、君はミリエルと名乗るといい」
「私の名前はミリアです」
「分かっている」
「なら、どうして変えるんですか?」
「より大きな存在になるため、新しい名を得るんだ」
「私は、大きな存在になりたいとは言っていません」
「まだ、自分の価値が分かっていないだけだ」
レオンの声は穏やかだった。
脅してはいない。
声を荒らげてもいない。
それでも。
ミリアの言葉を、一つも受け取っていなかった。
「俺の隣へ来れば、剣を学べる」
レオンは続ける。
「金にも困らない。宿も、食事も、装備も用意しよう」
ミリアの古い剣。
使い込まれた荷袋。
すべて見ていたのだろう。
「その代わりに、何をすればいいんですか?」
「人々の前で、俺の隣へ立つ」
「ぴよちゃんは?」
「俺の肩へ乗る」
「ぴ、ぴ」
即座に鳴いた。
「嫌だそうです」
「いずれ慣れる」
「慣れません」
「君も最初は、この鳥に警戒されたはずだ」
「同じではありません」
ミリアの声が少し強くなる。
「ぴよちゃんが、誰の肩へ乗るかは、ぴよちゃんが決めます」
「鳥の選択を、そこまで重く考える必要があるか?」
「あります」
ミリアは迷わなかった。
「ぴよちゃんのことだから」
レオンの背後で、大男がわずかに目を細めた。
「君自身は、どうだ?」
「何がですか?」
「俺の隣へ来ることだ」
「行きません」
即答だった。
「まだ説明は終わっていない」
「聞いても行きません」
「どうして?」
「私がしたい旅ではないからです」
レオンは初めて黙った。
拒絶されることへ、慣れていないのかもしれない。
「君は若い」
「はい」
「若い者には、正しい機会を見分けられないことがある」
「そうかもしれません」
「なら、大人の判断へ従うことも必要だ」
「レオンさんは、私のことを知りません」
「これから知ればいい」
「私も、レオンさんを知りません」
「だから教えてやる。俺を信じてよい理由を」
レオンは自分の胸へ手を当てた。
「俺は、英雄エリシアの孫だ」
その名だけで。
十分な理由になると信じている。
胸が痛んだ。
エリシアの孫。
その言葉を聞くたび。
強く拒むことをためらってしまう。
もし本当に。
この青年から祖母を奪った一因が俺なら。
少しくらいは、望みを聞くべきなのではないか。
(違う)
分かっている。
俺の罪悪感と。
ミリアの選択は別だ。
それでも、動くことができなかった。
「英雄の孫なら」
ミリアが慎重に言った。
「何をしても正しいんですか?」
部屋の空気が変わる。
護衛たちの視線が集まった。
「そうは言っていない」
「でも、私が嫌だと言っても聞いてくれません」
「君を助けようとしている」
「頼んでいません」
「助けは、求められる前に差し出すことも必要だ」
「断った後も続けるのは、助けですか?」
レオンの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「名前も」
ミリアは続ける。
「仕事も」
声は震えていた。
怖くないはずがない。
相手は英雄の孫。
大勢の護衛を連れ。
町の人々から称えられている。
それでも。
ミリアは自分の口で拒絶した。
「私の代わりに、決めないでください」
肩にいる俺へ、そっと手を添える。
「私の名前は、ミリアです」
俺を守るためではない。
俺の代わりに選ぶためでもない。
俺がすでに示した答えを。
ミリアは、人の言葉へ変えている。
「この子は、ぴよちゃんです」
一度鳴く。
「ぴ」
「変えません」
レオンは、しばらく俺たちを見た。
やがて。
柔らかな笑みを作り直す。
「分かった」
本当に分かった声ではなかった。
「今日は、少し急ぎすぎたようだ」
『ミリエル』
書いた紙を折り畳む。
文字は消さない。
「考える時間を与えよう」
「考えても、答えは変わりません」
「それも含めて、若さだ」
レオンは背後の大男へ視線を向けた。
「ドルガン」
「はい」
低い声。
「ミリエルとルクスを、宿まで送れ」
「私の名前はミリアです」
レオンは返事をしなかった。




