第33話 英雄の孫
翌朝。
俺たちは、ルミナス商会の馬車とともに町を出た。
昨日、俺が確かめたとおり、南へ延びる街道は雨で崩れている。
隊列は東へ迂回した。
遠回りにはなる。
それでも、カイルは迷わなかった。
「ぴよちゃんが見てきてくれなかったら、危ない道へ入るところだった」
最後尾の馬車の横を歩きながら、カイルが言った。
「助かったよ」
「ぴ」
ミリアの肩で胸を張る。
「得意そうです」
「分かりやすい鳥だな」
(鳥の顔を勝手に読むな)
「本当にありがとう」
ミリアの指が頭へ触れた。
白い羽根を、そっと撫でる。
不意だったため、身体がわずかに強張った。
それでも、振り払わなかった。
「嫌だった?」
(触ってから聞くのか)
「ぴ」
ミリアは少し嬉しそうに、もう一度だけ撫でた。
「柔らかい」
「俺も触っていいか?」
カイルが手を伸ばす。
「ぴ、ぴ」
「駄目だそうです」
「ミリアはいいのに?」
「信頼の差です」
「はっきり言うな」
カイルが苦笑した。
朝の街道には薄い霧が残っている。
草の先についた露が、昇り始めた日の光を受けていた。
車輪が進むたび、湿った土の匂いが立ち上がる。
昨日より道は細い。
それでも地面は固く、荷車が沈む心配はなさそうだった。
◇
昼を少し過ぎた頃。
街道は二つに分かれた。
ルミナス商会の馬車は北東へ。
俺たちが向かおうとしている町は南東にある。
「ここで別れることになるな」
カイルが地図を広げた。
「この道を半日ほど進めば、ラーデンという町へ着く」
「大きな町ですか?」
「この辺りでは大きい方だ。宿も店もある。ただ、今日は混んでいるかもしれない」
「何かあるんですか?」
カイルの指が、町の名の上で止まった。
「英雄エリシアの孫が来るらしい」
爪へ力が入った。
ミリアの肩が小さく揺れる。
「英雄の孫?」
「ああ。レオンという男だ」
「本当に孫なんですか?」
カイルは、すぐに答えなかった。
地図へ視線を落とし、少し面倒そうに息を吐く。
「まあ……本物なんじゃないか?」
「何ですか、その言い方」
「本人がそう名乗っている。町の偉い連中も、国の一部も認めている。それ以上、俺に何を言えっていうんだ」
「カイルさんは信じていないんですか?」
「血筋なんて、顔を見ただけでは分からないだろ」
カイルは地図を畳んだ。
疑っているというより。
これ以上、話題にしたくないような口調だった。
「レオンは、家に伝わる品や記録を持っているらしい。各地で歓迎されているし、本人も英雄の孫として振る舞っている」
「どんな人なんですか?」
「困っている町へ金を出す。魔物退治も引き受ける。実際に助けられた者も多い」
「いい人なんですね」
「いい噂は聞く」
カイルは一度、言葉を切った。
「悪い噂もな」
「どんな?」
「気に入った人間や、珍しいものを自分の一行へ加えたがる。断られても、なかなか諦めないらしい」
「無理やり?」
「そこまでは知らない。噂だ」
カイルは念を押す。
「会ったこともない相手を、噂だけで悪人にするつもりはない。ただ――」
ミリアと、その肩にいる俺を見る。
「英雄の孫だからといって、言われたことを何でも聞く必要はない」
「私たちに、何か言ってくると思いますか?」
「珍しい二人組だからな」
「カイルさんも言ってましたね」
「昔話に似ているというだけだ」
カイルの目に、正体を探る鋭さはなかった。
「だが、レオンも同じ連想をするかもしれない」
(エリシアの孫)
エリシアは、家族についてほとんど話さなかった。
俺も尋ねなかった。
国へ帰ろうとした彼女を、森へ連れ戻した。
もし、あのとき帰っていれば。
家族と再会できたのかもしれない。
成長した子供を見ることができたのかもしれない。
孫が生まれるまで、生きていた可能性さえある。
今となっては、何も分からない。
ただ一つ確かなのは。
帰るという選択を、俺がエリシアから奪ったことだった。
「ぴよちゃん?」
ミリアが顔を傾ける。
「痛いよ」
言われて初めて、肩を掴む爪へ力が入っていたことに気づいた。
足を緩める。
「大丈夫?」
答えられなかった。
肯定すれば、嘘になる気がした。
カイルが話題を変える。
「人の多い場所では、剣へ手を置きすぎるなよ」
「昨日も言われました」
「直っていないから、今日も言っている」
ミリアが自分の右手を見る。
無意識に、柄の近くへ置いていたらしい。
慌てて離した。
「ぴよちゃんも、何かあれば先にミリアへ知らせろ」
「ぴ」
「それから」
カイルは少し迷った後、ミリアへ言った。
「大きな名前より、目の前でされたことを見ろ」
「レオンさんのことですか?」
「誰のこととは言っていない」
「言っているのと同じでは?」
「自分で考えろということだ」
ミリアは少し考え、頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切ってくれ」
ガルドたちも、別れの挨拶へ来た。
「道で大きな石を持つな」
「もう持ちません」
「疲れる前に休め」
「はい」
「鳥の言うことを聞け」
「内容によります」
(全部聞け)
ガルドは俺へ、干し肉の切れ端を差し出した。
「また会ったら、もっとやる」
「ぴ」
「今の返事は早いな」
「食べ物には素直なので」
(信用への返事だ)
俺たちは、商会の一行へ手を振った。
馬車は北東の道へ進み、やがて林の向こうへ消えた。
「行っちゃったね」
(ああ)
「少し寂しい?」
「ぴ、ぴ」
「本当に?」
(本当だ)
ミリアが笑った。
「また会えるといいね」
俺たちは南東の道へ進んだ。
◇
ラーデンへ近づくにつれ、街道を歩く人が増えていった。
荷物を背負った旅人。
子供を連れた家族。
酒樽を積んだ荷車。
皆、同じ方向へ進んでいる。
遠くから鐘が聞こえた。
一度ではない。
祭りを知らせるように、何度も鳴っている。
「本当に何かあるみたい」
ミリアが歩調を速めた。
(商会と別れた途端、それか)
「ぴよちゃんも気になるでしょ?」
(少しは)
町の入口には高い石壁があった。
門の上から、黒と銀の布が垂らされている。
中央には銀色の剣。
黒鎧の英雄を表す印らしい。
門の両脇には、真新しい立て札があった。
『英雄の血、ラーデンへ』
『黒鎧の英雄エリシアの孫、レオン様御来訪』
「皆、本当に信じてるんだね」
(そうらしい)
「どんな人かな」
俺は答えなかった。
門を通ると、通りは人であふれていた。
黒と銀の飾り布。
菓子。
果実酒。
英雄をかたどった木彫りの人形まで売られている。
黒い鎧の女。
その肩には黒い鳥。
どちらも実物とは似ていなかった。
「ぴよちゃん、見て」
ミリアが人形を手に取る。
鳥は丸い身体に短い翼。
嘴だけが妙に大きい。
「少し、ぴよちゃんに似てる」
「ぴ、ぴ」
「丸いところ」
(俺は丸くない)
「今は少し丸いよ」
(小さいだけだ)
店主の老人が笑った。
「その鳥も、英雄様の相棒みたいだな」
「色は違いますけど」
「白い鳥も縁起がいい。今日は英雄様の血を迎える日だからな」
老人は疑っていない。
レオンがエリシアの孫であることを。
「英雄様にお孫さんがいたことは、昔から知られていたんですか?」
「いや。英雄様の家族について、詳しく知る者はいなかった」
「それなのに?」
「レオン様が、家に伝わる証をお持ちになった。国の偉い方々も認めたそうだ」
それなら、普通の人間が疑う理由はない。
老人が人形を勧める。
「一つどうだい?」
値段を聞いたミリアは、静かに元の位置へ戻した。
「また今度にします」
(賢明だ)
「少し高かった」
町の中央へ近づくにつれ、歓声が大きくなる。
「来たぞ!」
「レオン様だ!」
「英雄様の孫だ!」
通りの先から、黒い馬が現れた。
その背に、一人の青年が乗っている。
二十代前半ほど。
明るい金色の髪。
整った顔立ち。
身体には、黒く塗られた鎧を身につけていた。
エリシアの鎧とは違う。
彼女の鎧は、光をほとんど返さない深い黒だった。
青年の鎧は磨き上げられ、銀色の縁取りが施されている。
戦うためだけではない。
人々へ見られるための鎧だった。
青年は歓声へ片手を上げる。
「皆、出迎えに感謝する!」
よく通る声。
視線を浴びることへ慣れた笑顔。
エリシアとは似ていない。
そう思いかけて。
青年の横顔を見つめた。
(……いや)
笑う直前。
片方の眉が、わずかに上がる。
目を細める角度。
顔立ちではない。
何気ない動きの中に。
エリシアの面影があるような気がした。
そう見ようとしているだけかもしれない。
孫だと聞かされたから。
自分の罪悪感が、似た部分を探しているだけかもしれない。
「祖母エリシアが守った土地へ来られたことを、誇りに思う!」
歓声が上がる。
(祖母)
胸の奥が重くなった。
エリシアは、自分の孫を見ることができなかった。
この青年も、英雄として語られる祖母と、直接言葉を交わせなかった。
(俺が帰らせなかった)
俺がいなくても、二人が会えなかった可能性はある。
レオンが生まれる前に、エリシアが死んでいたかもしれない。
それでも。
自分に何の責任もないとは思えなかった。
レオンの後ろには、数人の護衛がいる。
その中で、一人だけ明らかに大きな男がいた。
ほかの者より頭一つ高い。
太い首。
広い肩。
鉄板を重ねた鎧。
背には、刃の厚い大剣。
馬へ乗らず、レオンの横を歩いている。
一歩ごとに、石畳へ重い音が響いた。
(強いな)
足運びに無駄がない。
人混みの中でも、レオンと周囲の距離を正確に測っている。
今のミリアでは、到底勝てない。
レオンは広場の壇上へ上がった。
「この町では、北の森から魔物が現れ、畑を荒らしていると聞いた」
人々がざわめく。
「安心してほしい。俺が来たからには、もう恐れる必要はない」
町長が箱を運ばせた。
中には銀貨が入っている。
「被害を受けた農家へ、見舞金を渡そう」
農民から歓声が上がる。
涙を流し、頭を下げる者もいた。
「ありがとうございます!」
「英雄様の血は、今も続いている!」
レオンは、一人一人へ笑顔を向けた。
困っている者へ金を渡し。
魔物を倒すと約束する。
少なくとも。
今、目の前でしていることは、人々を助ける行為だった。
「いい人に見えるね」
ミリアが小さく言った。
(ああ)
否定はできなかった。
悪い噂がある。
だからといって、噂だけでエリシアの孫を悪人と決めることにも抵抗がある。
レオンの視線が、集まった人々の上を流れる。
やがて。
ミリアの肩にいる俺の上で止まった。
笑顔は変わらない。
それでも。
興味を持たれたことだけは分かった。




