第29話 商隊
夜明け前から、街道宿の外は騒がしかった。
馬の蹄が石を叩く音。
木箱を荷台へ積み込む音。
縄を引き、結び目を確かめる者たちの声。
窓の向こうは、まだ青黒い。
ミリアは寝台の上で毛布に包まり、外で大きな音が鳴るたびに眉を動かしていた。
「……朝?」
(まだ早い)
俺は窓辺から、宿の前を見下ろした。
ルミナス商会の馬車が三台。
一台目には穀物の大袋。
二台目には、乾燥させた薬草や果実を収めた木箱。
三台目には、旅に必要な道具と食料が積み込まれている。
護衛と御者には、人間も魔族もいた。
額に短い角を持つ御者が、荷台を留めた縄を指さす。
「緩い」
人間の護衛が、自分で結んだ縄を見る。
「これで十分だろ」
「昨日も同じことを言った」
「落ちなかった」
「箱はずれた」
「落ちなかった」
「落ちてからでは遅い」
護衛は文句を言いながら、縄を結び直した。
魔族の御者が、その手元を横から確かめる。
「そっちも緩い」
「今やるところだった」
「言われてからな」
「朝から細かいな」
「荷が落ちれば、拾うのは俺たちだ」
仲がよいのか悪いのか。
言葉だけでは分からない。
それでも、同じ荷物を目的地へ届けるために動いている。
剣へ手をかける者はいない。
(こういうものなのか)
俺が知っていた人間と魔族は、戦場で向かい合う者たちだった。
相手が何を考えているのか知る前に。
殺すか。
殺されるか。
どちらかが決まる。
宿の前にいる者たちは違った。
互いの失敗を指摘し。
不満を口にし。
それでも、同じ馬車を囲んでいる。
すぐに好きになる必要はない。
まず、同じ場所にいても剣を抜かない。
昨夜、カイルが話した言葉を思い出した。
「ぴよちゃん……」
毛布の隙間から手が伸びる。
「起こして……」
(俺に頼むな)
「起きなきゃ……」
(すでに起きているだろ)
寝台へ飛び移り、毛布から出ている額を嘴でつついた。
「痛っ」
(希望どおり起こした)
「もう少し優しくできないの?」
(注文が多い)
ミリアが渋々、身体を起こす。
薄茶色の髪が、左右で別の方角へ跳ねていた。
「変?」
「ぴ、ぴ」
「何が駄目なの?」
寝台脇の鏡を見て、動きが止まる。
「あ」
(ようやく気づいたか)
「見なかったことにして」
(もう見た)
何度水で押さえても、髪は元の形へ戻った。
最後には帽子を深くかぶる。
「これなら分からないよね」
帽子の脇から、一束だけ飛び出していた。
(何も言わないでおこう)
ミリアは剣を腰へ差した。
昨夜カイルから指摘されたため、帯の位置を少し高くしている。
部屋の中を二度歩く。
「前より脚に当たらない」
(悪くない)
「これでいい?」
「ぴ」
「よし」
劇的に強くなったわけではない。
一度聞けば、すぐ正しくできるわけでもない。
それでも、教えられたことを覚えている。
忘れても。
間違えても。
翌日には、もう一度試す。
(遅いが、投げ出さない)
それが、ミリアの進み方だった。
◇
「来ると思ってたぞ」
宿の外へ出ると、馬車の横にいたカイルが声をかけてきた。
「おはようございます」
「眠れたか?」
「途中からは」
「最初は?」
「馬車の音が気になって」
「荷運びの朝は早いからな」
カイルが、ミリアの帽子を見る。
「ずいぶん深くかぶってるな」
「朝は寒いので」
(寝癖を隠しているだけだ)
カイルの視線が、帽子から飛び出した髪へ向いた。
口元がわずかに緩む。
「何ですか?」
「何も」
(気づいているな)
「同行することで決まったんだな?」
「はい。途中までお願いします」
「条件は?」
「商会の荷へ勝手に触らない。隊列を離れない。護衛の指示を聞く」
「よし」
カイルは次に、俺を見る。
「ぴよちゃんも守れるか?」
(俺にも確認するのか)
「ぴ」
「本当に話が早いな」
「ぴよちゃんは賢いので」
(なぜ、お前が誇る)
「ただし」
カイルが指を一本立てる。
「何か見つけても、一羽で見えないところまで飛んでいかないこと」
(偵察も駄目なのか)
「危険を先に見つけてくれるのは助かる。だが、護衛から見えなくなると、そちらまで心配しなければならない」
隊列を守る者として、正しい指示だった。
「何かあれば、まずミリアへ知らせる」
「ぴ」
「素直だな」
(納得できる指示なら従う)
「俺の部下より聞き分けがいい」
「聞こえてるぞ、カイル!」
馬車の向こうから声が飛ぶ。
「聞かせたんだ」
「後で覚えてろ」
御者たちが笑った。
出発前だというのに、張りつめた空気はない。
長く同じ仕事をしてきた者たちなのだろう。
「ミリアは三台目の横だ。疲れたら荷台へ乗れ」
「歩きます」
「無理はするなよ」
「はい」
(返事だけはいいんだがな)
カイルが手を上げる。
「出るぞ!」
馬が歩き始めた。
大きな車輪が、朝露に濡れた街道を進む。
俺たちも、その列へ加わった。
◇
商会の馬車は、ミリアが普段歩くより遅かった。
荷物が重い。
道の状態も確かめなければならない。
三台すべてを、同じ場所へ届ける必要がある。
「もっと速く進めそうなのに」
ミリアが先頭を見る。
「馬車は、速さより荷を無事に届けることが大事だ」
近くを歩いていたカイルが答えた。
「早く着いて、荷物が全部壊れていたら意味がない」
「それはそうですけど」
「それに、全体の速さは一番遅い馬車へ合わせる」
「速い人が先に行くんじゃなくて?」
「隊列が分かれれば守りにくい」
護衛たちは、馬車の間を行き来していた。
前方。
後方。
左右の林。
車輪。
荷を留める縄。
見るべきものは多い。
「一番弱い人へ合わせるんですか?」
「弱いとは限らない」
カイルは言った。
「重い物を運んでいるのかもしれない。車輪が傷んでいるのかもしれない。怪我をしているのかもしれない」
理由は、それぞれ違う。
「置いていけば、速い者だけは早く着く」
「はい」
「だが、遅い者と荷物は危険な場所へ残される」
カイルが隊列を見る。
「一緒に着かなければ、隊列を組む意味がない」
(一緒に)
エリシアは、いつも誰よりも先へ出た。
誰かが傷つく前に。
敵が人々へ届く前に。
一人で多くを背負い。
誰も追いつけないほど前へ進んだ。
あの強さがなければ、救えなかった命もある。
それでも。
最後まで、彼女の隣へ並ぶ者はいなかった。
(俺が並ぶべきだった)
前へ出すぎるなと。
休めと。
一人で決めるなと。
本当は伝えるべきだった。
俺がしたのは、別のことだった。
隣に立つのではなく。
エリシアの前へ壁を作り、道そのものを閉ざした。
「ぴよちゃん?」
ミリアが肩越しに見る。
「また難しい顔してる」
(鳥の顔を読むな)
「何か思い出した?」
「ぴ」
「嫌なこと?」
「ぴ」
「そっか」
ミリアは、それ以上尋ねなかった。
ただ、少し速くなっていた歩みを緩める。
馬車の速度へ合わせるように。
◇
昼前。
隊列は、低い丘の手前で止まった。
昨夜の雨で街道の一部が崩れ、大きな穴が開いている。
反対側は斜面。
馬車一台なら通れそうにも見える。
だが、車輪が少し外へ寄れば、荷台ごと落ちるだろう。
「ここを通るんですか?」
「そのままでは無理だな」
カイルが土へ触れる。
「まだ柔らかい」
護衛と御者が集まった。
「穴を埋めるか」
「先に石を詰めないと沈む」
「板を渡そう」
「三台目に予備がある」
誰か一人が、すべてを決めるのではない。
地面を見た者。
斜面へ下りた者。
馬車を扱う者。
それぞれが意見を出す。
「私も手伝います」
ミリアが荷物を下ろした。
「無理はするな」
「石なら運べます」
カイルは一度、ミリアの身体を確かめた。
「大きすぎるものは持つなよ」
「はい」
ミリアは人の頭ほどもある石を持ち上げようとした。
身体が傾く。
影を伸ばしかける。
だが、ミリアは自分で石を下ろした。
「これは重い」
もっと小さな石へ持ち替える。
(判断できるなら、それでいい)
一つ。
二つ。
何度も往復する。
速くはない。
それでも、自分にできる範囲を考えて動いている。
俺なら、影を使えば短い時間で終わらせられる。
だが、商会の者たちは、自分たちで解決できていた。
(何にでも手を出せばよいわけではない)
穴へ石を詰める。
板を渡す。
土をかぶせ、踏み固める。
作業には一時間ほどかかった。
「進め!」
最初の馬車が、ゆっくり板へ乗る。
木の軋む音。
護衛たちが左右から車体を支える。
車輪が穴を越えた。
二台目。
三台目。
最後の馬車が通り終わると、全員から安堵の息が漏れた。
「護衛なのに、道も直すんですね」
「荷を守るためならな」
カイルが答えた。
「敵を斬るだけが仕事じゃない」
「剣を抜かない日の方が多いんですか?」
「多い方がいい」
カイルは笑った。
「何も起きず、荷物が全部届けば、それが一番だ」
(戦わないことが成功)
戦場ではなかった考え方だった。
敵を倒さず。
誰も傷つかず。
壊れた道を直し、物を届ける。
それも、誰かを守ることなのだ。
「私でも、少しは役に立ちましたか?」
「石を十個くらい運んでいたな」
「十一個です」
「数えてたのか」
「一個多いです」
「大事なんだな」
「大事です」
ミリアが胸を張る。
(その程度で威張るな)
だが。
何もできなかったと自分を責め続けるよりよい。
小さくても、自分ができたことを認める。
それも必要なのだろう。




