第28話 新しい道
宿へ戻る前。
カイルが地図を広げた。
「明日はどこへ行く?」
「南の町です」
「なら、途中まで同じ道だ」
「カイルさんたちも?」
「ああ。ただ、この橋は昨日の雨で傷んでいる」
地図に記された細い橋。
「徒歩なら渡れるが、一人旅には勧めない」
「通れないんですか?」
「足場が壊れているかもしれない。よければ、途中まで商会の馬車と来るか?」
「いいんですか?」
「荷には触らない。勝手に隊列を離れない。護衛の指示を守る」
条件を順番に示す。
「それが守れるならな」
「お金は?」
「いらない。同じ方向だからだ」
ミリアの表情がわずかに警戒へ変わる。
「それだけですか?」
「マルタに、旅慣れていない子を放っておくなと言われた」
「私、そんなに頼りなく見えます?」
「剣の重さに歩かされているくらいには」
「……練習します」
「それがいい」
カイルは笑った。
「嫌なら断って構わない。朝までに決めてくれ」
◇
部屋へ戻ると、ミリアは俺へ尋ねた。
「どう思う?」
(ここで決めるのか)
「危ない?」
二回。
「危なくはない」
(カイルたちに敵意はない)
「一緒に行く方が安全?」
一回。
「ぴよちゃんは、行きたい?」
答えなかった。
安全だけなら、同行した方がよい。
護衛がいる。
馬車もある。
道に詳しい者もいる。
だが、ルミナス商会はエリシアの伝説を知っている。
戦争中から人間と魔族の間を動いていた。
森へ送られた使者とも、どこかでつながっているかもしれない。
(近づけば、過去へ触れる)
避けたい。
知られたくない。
だが、それはミリアを守るためではない。
俺が、自分の過去を恐れているだけだ。
「ぴよちゃんは、あまり行きたくない?」
一回。
「でも、安全なんだよね?」
一回。
「理由は、まだ言いたくない?」
一回。
「分かった」
ミリアはすぐに結論を出さなかった。
「部屋で考えよう」
狭い部屋だった。
寝台が一つ。
小さな机。
窓。
荷物を置けば、床の半分が埋まる。
それでも鍵がかかり、壁越しに暖炉の熱が届いていた。
ミリアは寝台へ腰を下ろした。
「私は、行ってみたい」
先に自分の希望を口にする。
「商会の人たちが、どうやって人間と魔族の間を行き来してるのか見たい」
それは、ミリアが旅へ出た理由とも合っている。
「カイルさんも、悪い人には見えない」
(今のところはな)
「ぴよちゃんも、危険ではないと言った」
(ああ)
「でも、ぴよちゃんは嫌なんだよね」
一回。
「ルミナス商会が嫌?」
迷ってから、一回鳴いた。
正確には、商会自体が嫌なのではない。
商会へ近づくことで、エリシアへつながる何かが見えるのが怖い。
「商会に近づくと、ぴよちゃんが困る?」
一回。
「捕まる?」
二回。
「怖い人がいる?」
二回。
「知っている人がいる?」
答えなかった。
俺を知る者は、もういないはずだ。
だが、エリシアを知る者。
黒い鳥の伝説を知る者。
俺が知らない事実を持つ者はいるかもしれない。
「答えにくい?」
一回。
「そっか」
ミリアは無理に続けなかった。
「私は行ってみたい。でも、ぴよちゃんが本当に嫌なら、別の道でもいい」
首を傾げる。
(自分で決めるんじゃなかったのか)
「私だけで決めたら、二人で旅をしている意味がないでしょ?」
(……そうか)
「ぴよちゃんは、どうしたい?」
逃げたい。
過去へ触れたくない。
だが、それは俺の恐怖だ。
ミリアが見たい世界を狭める理由にはならない。
カイルたちに危険は感じない。
何か起きれば、俺が動ける。
そして。
(いつまで逃げる)
エリシアの像を見てから。
白い羽根で正体を隠し。
アッシュという名前を捨て。
過去へつながるものから逃げ続けてきた。
その結果。
世界がどう変わったのか。
エリシアの後に何が残ったのか。
何も知らないままだった。
(見るだけなら)
商会へ入るわけではない。
途中まで、同じ道を進むだけだ。
「ぴ」
ミリアが目を瞬かせる。
「一緒に行く?」
一回。
「本当に?」
一回。
「無理してない?」
少し迷う。
それから二回鳴いた。
不安はある。
だが、無理に従っているわけではなかった。
「じゃあ、明日カイルさんへお願いしますって言うね」
(ああ)
ミリアが笑う。
「二人で決められた」
(そうだな)
以前の俺なら。
ミリアが眠った後、一人で宿を出たかもしれない。
商会へ近づかない道を、何も知らせず選んだかもしれない。
今は違う。
自分が嫌だと伝えた。
ミリアの希望も聞いた。
すべてを説明できなくても。
二人で選んだ。
(少しは、変われているのか)
答えは分からない。
「ぴよちゃん」
(何だ)
「今日、楽しかったね」
(騒ぎもあったがな)
「ご飯もおいしかった」
(熱かった)
「いろんな人がいた」
(ああ)
「魔族の人も、普通にご飯を食べてた」
当たり前のことへ驚いている。
「カイルさんも、面白い人だった」
(普通ではないらしい)
「世界って、怖いだけじゃないね」
俺は何も言わなかった。
村を襲った盗賊。
助けられなかった少年。
酔った男の暴言。
怖いことは、今も世界にある。
だが。
怪我を治す人。
剣を教える人。
街道を守る兵士。
魔族の子供を守る宿の主人。
人間と魔族の間で荷物を運ぶ商会。
それらも、同じ世界にある。
「見に来てよかった」
(ああ)
「ぴよちゃんと一緒でよかった」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「おやすみ、ぴよちゃん」
(おやすみ、ミリア)
ミリアが目を閉じる。
しばらくすると、穏やかな呼吸が聞こえ始めた。
俺は窓の外へ目を向けた。
宿の前では、カイルが馬車の見張りをしている。
別の護衛と短く言葉を交わし、荷物を確かめ、暗い街道を見る。
カイルは、俺をアッシュだとは思っていない。
ただの鳥ではないと感じてはいる。
それでも、無理に正体を知ろうとはしなかった。
女の旅人と、その肩へ乗る鳥。
昔聞いた伝説に、並び方が似ている。
それだけだ。
(同じ物語ではない)
黒い鎧の冒険者と、黒い鳥。
剣を持ち始めた少女と、白い小鳥。
エリシアとミリア。
似ているところはある。
だが、違う人間だ。
ミリアを、エリシアの代わりにはしない。
同じ道も歩ませない。
(俺も、同じではいられない)
まだ、うまくできない。
すべてを話す勇気もない。
過去へ近づくのも怖い。
それでも。
逃げる道を、一人では選ばなかった。
宿の中では、人間と魔族が同じ屋根の下で眠っている。
暖炉の火が燃えている。
誰かが食器を片づける音。
遠くで上がる笑い声。
エリシアが見ることのできなかった世界は、誰かの手によって今も続いている。
ルミナス商会。
戦争中から、人間と魔族をつないでいた者たち。
伝説の二人を直接知る誰か。
気になることがある。
知るのが怖いこともある。
それでも明日。
ミリアとともに、商会の馬車へ加わる。
(見るだけだ)
世界が、どう変わったのか。
自分の知らないところで、何が残り、何が続いてきたのか。
少しだけ。
目を逸らさずに見る。
街道宿のランタンが、暗い道を照らしていた。
旅人が道を見失わないように。
帰る場所を見つけられるように。
俺はその灯を見つめ、静かに羽を畳んだ。
黒い鳥だった過去を隠したまま。
白い小鳥として。
それでも以前より、ほんの少しだけ世界へ近い場所で。
夜が明ければ。
俺たちはルミナス商会の馬車とともに、新しい道を進む。




