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女神の従魔  作者: 梅椿 六花
第四章 二人の旅
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第26話 街道宿

 扉を開けた瞬間、温かな空気に包まれた。

 大きな暖炉。

 薪が燃える匂い。

 肉と豆の煮込み。

 焼きたてのパン。

 食堂には二十人ほどの客がいた。

 人間だけではない。

 額へ短い角を持つ者。

 灰色の肌をした大男。

 長い耳の女性。

 獣のような耳や尾を持つ者。

 違う種族が、同じ卓を囲んでいる。

 入口の近くでは、人間の商人と魔族の御者が地図を広げていた。


「東の道は使えない」

「また橋が落ちたんですか?」


「昨日の雨で支柱が傾いたらしい」

「西へ回ると二日余計にかかります」


「荷車ごと川へ落ちるよりはましだ」

 別の卓では、角のある女性が人間の子供へ干した果物を渡している。


「一つだけだよ」

「二つ欲しい」


「駄目」

「じゃあ、一つと半分」


「誰にそんな交渉を教わったんだい」

 近くの男が笑った。


 誰も剣を抜かない。

 人間と魔族が同じ場所にいることを、特別とも思っていない。


(これが、今の世界か)


 かつての戦場とは違う。

 怒号も。

 殺意も。

 倒れた者を踏み越える足音もない。

 エリシアが見ることのできなかった景色。

 胸の奥が、鈍く痛んだ。


「いらっしゃい!」


 明るい声が響く。

 カウンターの向こうで、大柄な女性が手を上げていた。

 四十歳ほどの人間。

 腕まくりをした両腕は太く、片手で料理の皿を三枚持っている。


「泊まりかい?」

「はい。一人と……一羽です」


「それは見れば分かるよ」

 女性が笑った。


「鳥は部屋で暴れない?」

「暴れません」

(たぶんな)


「羽根を散らしたりは?」

「しないと思います」

(自然に抜けることはある)


「糞は?」

 ミリアが俺を見る。

「……どうだろう」

(そこで迷うな)


「たぶん大丈夫です」

「たぶんかい」

 女性は俺の顔を覗き込んだ。


「まあ、賢そうだからいいよ。部屋を汚したら掃除してもらうからね」

「私がします」


「鳥に掃除させるつもりはないよ」

(影を使えばできるが)


「私はマルタ。この宿の主人だ」

「ミリアです」


「そっちは?」

「ぴよちゃんです」

(広めるな)


「かわいい名前だね」

(かわいくない)


「本人も気に入っています」

「ぴ、ぴ」

 マルタが声を上げて笑った。


「今の、否定したんじゃないかい?」

「違うみたいです」

(違わない)


「本当に賢いね」

「はい。すごく賢いです」

 なぜかミリアが得意そうにしている。


「剣は食堂で抜かない。喧嘩も禁止」

 マルタがミリアの腰を見る。

「人間でも魔族でも、破ったら外へ放り出すよ」

「はい」

「困ったら言いな」


 種族で決めない。

 剣を持っているだけで追い出さない。

 守るべき規則だけを伝える。

 この宿では、それが当たり前らしい。

     ◇

 部屋へ荷物を置いた後、俺たちは食堂へ戻った。

 ミリアは隅の卓を選んだ。

 背後は壁。

 入口と階段の両方が見える。


(考えているな)


 以前より、危険を避ける方法が身についている。

 運ばれてきたのは、肉と豆の煮込み。

 黒パン。

 野菜の酢漬け。

 湯気が立っている。


「おいしそう」

(焦げていないだけで安心する)


「今、失礼なこと考えた?」

 ミリアは煮込みから肉を取り出し、小さく裂いた。


「熱いから待ってね」

(子供扱いするな)

 すぐに嘴を伸ばす。


「まだ熱いよ」

(問題ない)


 口へ入れる。

 熱かった。

 思わず頭を振る。


「だから言ったのに」

(黙れ)


 ミリアが笑った。

 大きな声ではない。

 それでも、自然な笑いだった。

 村を失ってから。

 食事を楽しんでいる姿を見るのは、初めてかもしれない。


「ここ、座ってもいいか?」


 声をかけられた。

 二十代半ばほどの男だった。

 短い銀色の髪。

 軽い革鎧。

 腰には剣。

 胸元には、太陽と月を重ねたような紋章の金具がある。

 食堂へ入ったときから、出入口と客の数を確認していた。

(護衛だな)


「あ……はい」

「助かる。他が埋まっていてな」

 男が向かいへ座る。


「俺はカイル」

「ミリアです」


「そっちは?」

「ぴよちゃんです」

(また紹介された)


「小さいな」

(見れば分かる)


「ヒヨコじゃないよな?」

「ぴ、ぴ」

 カイルの眉が上がった。


「今の、否定か?」

「一回で肯定、二回で否定なんです」


「本当に?」

 カイルが俺を見る。


「俺は人間か?」

(何を確認している)

「ぴ」


「俺は魔族か?」

「ぴ、ぴ」

 カイルが目を丸くする。


「本当に分かってるな」

「すごいでしょ」

(なぜお前が誇る)


「三回鳴くと、すごく危険という意味です」

「便利だな」

 カイルが俺を見る。


「俺は危険か?」

「ぴ、ぴ」


「よかった」

(今のところはな)


「普通の鳥じゃないみたいだ」

「普通の鳥だと思います」

(無理がある)


「普通の鳥は会話しないだろ」

「鳴いているだけです」


「会話になってるじゃないか」

「そうですね」

 ミリアはあっさり頷く。


「じゃあ、普通ではないかもしれません」

(諦めるのが早い)


「従魔か?」

「たぶん違います」


「契約してないのか?」

「していないと思います」


「友達です」

 ミリアは迷わず言った。


「旅の仲間で、友達です」

「そうか」

 カイルは笑った。


「じゃあ、二人旅だな」

(鳥を一人へ数えるのか)

 悪い気はしなかった。

     ◇

 カイルは、ルミナス商会の護衛だった。

 人間の村から魔族の町へ穀物を運び、帰りには鉄や薬を持ち帰るという。


「人間と魔族、両方と取引するんですか?」

「ああ」


「喧嘩にならないんですか?」

「なることもある」


「あるんですか」

「以前は戦っていた相手だからな」

 カイルは食堂を見回した。


「家族を殺された人間もいる。家を焼かれた魔族もいる。戦争が終わったから今日から仲よくしろ、と言われても無理な奴は多い」


「じゃあ、どうして取引できるんですか?」

「腹が減れば、人間も魔族も飯を食うからだ」

 カイルが煮込みを指す。


「服が破れれば布がいる。道具が壊れれば鉄がいる。病気になれば薬がいる」

「必要な物を交換するところから?」

「ああ」


「それで、仲よくなるんですか?」

「仲よくならなくてもいい」

 カイルは答えた。


「すぐ好きになる必要もない。まず、同じ場所にいても剣を抜かない。それで十分だ」


 入口近くでは、人間の商人と魔族の御者が、まだ道について言い争っている。

 だが、武器へ手を伸ばす者はいない。


「値段で揉める方が、殺し合うよりずっといい」

「怖くないんですか?」


「怖いだろうな」

「それでも行くんですか?」


「仕事だから」

 簡単に答えた後、少し間を置く。

「それに、誰かが行かないと道はつながらない」

(道)


 戦争の後に壊れたのは、橋や街道だけではない。

 互いへの恐怖。

 疑い。

 憎しみ。

 それらを越える道も必要だった。

 エリシアは戦争を終わらせた。

 だが、その後の世界を作っているのは、物や言葉を運ぶ者たちなのかもしれない。


「ルミナス商会は、戦争が終わる前から両方の土地を行き来していたらしい」

「戦争中から?」


「捕虜を返したり、薬を届けたりしていたそうだ」

「危なすぎませんか?」


「昔から、商会の上には変わった奴が多いらしい」

(エリシアが森にいた頃から)


 俺は、何も知らなかった。

 外を閉ざし、変化など起きていないと思い込んでいた。

 だが、その間にも。

 人間と魔族をつなごうとする者はいた。


(世界を見ていなかったのは、俺だ)

「カイルさんも変わっていますか?」

「俺は普通だ」

「ぴ、ぴ」


「何で否定された?」

「普通じゃないみたいです」

「会ってすぐの鳥にまで言われるのか」

 カイルは笑った。

     ◇

「ミリアは、どこへ向かっているんだ?」

 食事が進んだ頃、カイルが尋ねた。

「まだ決めていません」


「目的のない旅か」

「外を見たいんです」


「外?」

 ミリアは、少し迷った。


「私、小さな村で暮らしていました」

 襲撃については話さなかった。


「外のことをほとんど知らなくて」

「親は心配しないのか?」


 ミリアの手が止まる。

 カイルもすぐに気づいた。


「悪い」

「……いません」

「そうか」


 それ以上、詳しく尋ねなかった。

 大きく同情することもない。

 ただ短く頷いた。


「世界がどうなっているのか、自分で見たいんです」

 ミリアは続けた。


「村を襲うような人ばかりなのか」

 言った後で、少し息を止める。


「助けてくれる人もいるのか」

「人間と魔族が、本当に一緒に暮らせるのか」

「それを見てから、自分が何をしたいか決めたいです」

 カイルは笑わなかった。


「いいと思う」

「子供が考えることじゃない、とは言わないんですか?」


「子供でも、自分の道は自分で決めるだろ」

 ミリアの表情が少し和らぐ。

「ただ」

 カイルはミリアの腰の剣を見る。


「今のままだと、遠くへ行くのは大変だな」

「やっぱり弱そうですか?」


「剣の腕は見てないから分からない」

(見なくても分かるが)

「歩き方だ」


「歩き方?」

「剣の重さに腰が引かれている。右脚だけ歩幅が短い」

 ミリアが自分の足を見る。


「それと、柄を握りすぎだ」

「急に襲われても、すぐ抜けるように」


「緊張し続けていたら、本当に必要なときに動かなくなる」

「でも、油断したら」


「油断しないことと、力を抜かないことは違う」

 カイルが自分の剣へ軽く触れる。


「剣を抜く前に、危険へ気づけばいい」

「どうやって?」

「周囲を見る」


 人の動き。

 声。

 道の様子。

 誰が武器を持っているか。

 誰がこちらを見ているか。


「ぴよちゃんが、先に気づいてくれます」

「そうだろうな」

 返事は早かった。


「どうして分かるんですか?」

「その鳥、さっきからずっと入口を見ている」

 カイルが目だけで扉を示す。


「誰かが入るたび、武器を持っているか確認しているだろ」

(見られていたか)

「酔った客が立ち上がったときは、ミリアとの間へ移動した」


「ぴよちゃん、心配性なんです」

(お前が無防備だからだ)


「普通の鳥じゃないのは確かだな」

 カイルは俺を見る。


「魔物かもしれない」

 羽根がわずかに膨らむ。


「でも、ミリアを守っているなら、それでいい」

「怖くないんですか?」


「今のところ、俺を食おうとはしていないからな」

(食べない)


「旅人には、正体を話したがらない奴も多い」

 カイルは軽い調子で続ける。


「本人が話したくなったら話すだろ」

 ミリアが俺を見た。


「私も、そう思っています」

(……そうか)


「ぴよちゃんは、私のことも無理に聞かないので」

(聞けないだけだ)


「だから私も待ちます」

 俺は顔を逸らした。


 アッシュという名前。

 黒い羽根。

 エリシア。

 森で何をしたのか。

 いつか、ミリアへ話す日が来るのだろうか。

 今はまだ、無理だった。


「珍しい二人組だな」

 カイルが言った。


「私たちが?」

「昔、商会の人間から似た話を聞いた」

 身体がわずかに固まる。


「女の旅人と、その肩に乗る鳥の話だ」

 ミリアの目が大きくなった。


「英雄エリシアですか?」

「知ってるのか」


「町に像がありました」

「ああ。その二人だ」


 カイルは、俺と伝説の鳥を結びつけていない。

 ただ、目の前の組み合わせから昔話を思い出しただけだ。


「黒い鎧の女と、黒い鳥が一緒に戦っていたって」

「カイルさんは、会ったことがあるんですか?」


「時代が違う」

「誰から聞いたんですか?」


「商会の上の人だ。直接助けられた者から、何度も話を聞いたらしい」

(直接、助けられた者)


 誰が。

 どの戦場で。

 どんな形でエリシアのことを語り継いだのか。

 知りたかった。

 だが、同じくらい知るのが怖かった。


「私たち、似ていますか?」

「女の旅人と鳥、というところだけな」

 カイルが笑う。


「色も違う。英雄と呼ばれるには、ミリアはまだ若い」

「まだ、ということは、いつかなれるかもしれないんですか?」


「そこを拾うのか」

「なれると思います?」


「さあな」

 カイルは少し考えた。


「英雄は、自分からなるものじゃないだろ」

「たくさん人を助けたら?」

「そう呼ばれることはある」

 パンを千切る。


「呼ばれる前に死ぬ奴もいる。呼ばれたくないのに祭り上げられる奴もいる」

(そのとおりだ)


 エリシアは、英雄になりたかったわけではない。

 困っている人を見捨てられなかっただけだ。

 それを繰り返した結果、人々が英雄と呼んだ。

 本人のいない場所で。


「英雄を目指す必要はない」

 カイルはミリアを見る。


「まず、自分が何をしたいか決めればいい」

「……はい」

 ミリアは考えるように頷いた。


「でも、誰かを助けられる人にはなりたいです」

「それは英雄じゃなくてもできる」

 ミリアの表情が少し明るくなった。

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