第24話 選択の代償
少年のもの。
大人のもの。
大人の足跡は、途中から森へ入っている。
新しい。
(まだ近くにいるかもしれない)
ミリアが少年へ駆け寄った。
「大丈夫?」
(不用意に近づくな)
止めるより早かった。
ミリアは少年のそばへ膝をつく。
「聞こえる?」
「……う……」
少年が薄く目を開ける。
「……たすけ……」
「助けるから」
ミリアは即座に答えた。
「大丈夫。助けるからね」
(待て)
簡単に約束するな。
助けられる保証はない。
傷は深い。
治療の知識もない。
襲った者が周囲にいる可能性もある。
だが。
少年の顔へ、わずかな安堵が浮かんだ。
「……ほんと……?」
「うん」
ミリアは傷口へ布を当てる。
押さえる手が、すぐに赤く染まる。
「誰にやられたの?」
「……わから……ない……」
「一人だった?」
少年は弱く首を振った。
「……おとな……」
「……かお……みえなかった……」
声が途切れる。
ミリアは地図を広げた。
「近くに町か、兵士のいる場所は?」
「……先……」
「橋の……近く……」
この先に、小さな関所がある。
歩けば一時間ほど。
走れば、もう少し早い。
「人を呼んでくる」
ミリアが立ち上がる。
(待て)
「すぐ戻るから」
少年の手を握った。
「ここで待っていて」
「……ひとり……?」
少年の指が、ミリアの手を掴む。
弱い。
それでも、離れたくないという意思が伝わった。
ミリアの表情が揺れる。
「すぐだから」
俺は森を見た。
気配を探る。
はっきりとした人影はない。
だが、何かに見られているような違和感が残っていた。
風向きが不自然に変わり、匂いも追えない。
(危険だ)
三回鳴く。
「ぴ、ぴ、ぴ!」
ミリアがこちらを見る。
「すごく危ない?」
(ああ)
「だったら、早く人を呼ばないと」
(違う)
少年を一人で残すな。
俺が残り、ミリアだけで関所へ行く方法もある。
俺が先に関所を探し、兵士を誘導する方法もある。
少年を影で運べるかもしれない。
だが、どれも確実ではない。
「ぴよちゃん、一緒に来て」
ミリアが言った。
「道を間違えたら困るから」
(俺も行くのか)
そうすれば、少年を一人で残すことになる。
「お願い」
ミリアは不安そうだった。
一人で走ること。
途中で襲撃者と会うこと。
道を間違えること。
すべてを恐れている。
(なら、俺がついていくべきか)
ミリアの選択を尊重する。
危険だと思っても、代わりに決めない。
(そうすると決めた)
俺は、その言葉を理由にした。
胸に残る違和感を押し込め、ミリアの肩へ止まる。
「行こう」
ミリアは走り出した。
少年を、一人で残して。
◇
関所は、思っていたより遠かった。
ミリアの傷は、まだ完全には治っていない。
訓練で体力はついた。
それでも、全力で走り続けることはできなかった。
何度も速度が落ちる。
「……まだ?」
(もう少しだ)
先へ飛び、道を確認する。
戻って、ミリアを導く。
「大丈夫」
誰へともなく言う。
「あの子、待ってるから」
(ああ)
少年の顔が浮かんだ。
一人にしないでほしい。
そう訴えていた目。
(俺が残るべきだった)
今さら思う。
だが、すでに半分以上進んでいる。
戻れば救援が遅れる。
進むしかない。
ようやく関所が見えた。
兵士が二人、門の前へ立っている。
ミリアは息を切らしながら駆け込んだ。
「子供が!」
「どうした?」
「休憩所に、怪我をした子がいます!」
兵士たちの表情が変わる。
「誰かに襲われたみたいで、血が止まらなくて」
「場所は?」
「街道の、石の休憩所です!」
「治療道具を持て!」
一人が奥へ叫ぶ。
馬が用意された。
ミリアも乗ろうとするが、足へ力が入らない。
「お前はここで待て」
「行きます」
「だが」
「私が、戻るって言ったから」
兵士は一瞬迷い、手を差し出した。
「後ろへ乗れ」
ミリアが馬へ引き上げられる。
俺も飛ぶ。
戻るときは、走ったときの半分もかからなかった。
だが。
休憩所には誰もいなかった。
「……え?」
ミリアが馬から下りる。
少年が倒れていた場所。
残っているのは血だけだった。
地面へ染み込み、休憩所の外へ細く続いている。
「いない……」
兵士たちが周囲を調べる。
「足跡がある」
「誰かが運んだのか?」
「違う。引きずっている」
血の跡は森へ続いていた。
(戻ってきた)
少年を襲った者が。
俺たちが離れた後で。
「探してください!」
ミリアが叫ぶ。
「あの子、怪我をしているんです!」
「分かっている。お前はここで待て」
「私も行きます」
「敵が近くにいるかもしれない」
「だから――」
「足手まといになる」
はっきりと言われた。
ミリアの動きが止まる。
言い返せない。
今の自分がついていけば、兵士たちの注意を増やすだけだ。
「……分かりました」
拳を握る。
兵士たちは血の跡を追い、森へ消えた。
ミリアは休憩所へ残された。
俺と。
少年の血だけが残る場所に。
「助けるって言った」
(ミリア)
「大丈夫って」
地面へ膝をつく。
「絶対に戻るって言ったのに」
(お前だけのせいじゃない)
治療ができないから、人を呼んだ。
合理的な判断だった。
ミリア一人では、あの傷を治せない。
「私が、一人にした」
(俺もだ)
危険を感じていた。
三回鳴いた。
だが、その後はミリアについていった。
選択を尊重するという言葉を使い、決める責任から逃げた。
(俺なら残れた)
影へ隠れ、襲撃者が戻れば止められた。
ミリアを一人で走らせることが不安なら、別の方法を考えられた。
少年を運ぶことも、試せたかもしれない。
方法はあった。
考えることをやめただけだった。
(また間違えた)
今度は選択を奪わないようにと、そればかり考えた。
必要なときに止めることまで恐れた。
しばらくして、兵士たちが戻ってきた。
表情を見れば、結果は分かった。
「……見つかりましたか?」
一人が視線を落とす。
「少し先の谷に」
ミリアの顔から血の気が引く。
「生きて……」
答えはなかった。
沈黙が答えだった。
「……会わせてください」
「やめた方がいい」
「お願いします」
兵士は迷った。
だが、ミリアの目を見て、ゆっくりと頷いた。
◇
少年は浅い谷の底へ横たわっていた。
身体の上には、枯れ枝が雑に被せられている。
脇腹の傷が増えていた。
見つかったときには、すでに息がなかった。
襲った者の姿もない。
森の中で足跡が分かれ、追えなくなったらしい。
ミリアは谷を下り、少年のそばへ座った。
手へ触れる。
冷たい。
「……ごめん」
声が震える。
「遅くなって、ごめん」
少年は答えない。
「待っててって、言ったのに」
涙が落ちる。
「助けるって言ったのに」
少年は、その言葉を信じた。
誰かが戻ってくると。
助けが来ると。
「私、何もできなかった」
(違う)
人を呼んだ。
走った。
戻ってきた。
何もしなかったわけではない。
「逃げただけだった」
(違う)
「怖くて」
ミリアは自分の手を見る。
「私が残っても、戦えないって思って」
それは事実だった。
ミリアが残れば、一緒に殺されていた可能性もある。
「だから、誰かに任せようって」
涙が手の甲へ落ちる。
「助けるって言ったくせに、自分では何もしなかった」
俺は少年のそばへ下りた。
白い羽根が、血のついた地面へ触れる。
(俺も同じだ)
ミリアの選択だからと。
自分で決めるべきだからと。
必要な判断まで放棄した。
(任せることと、何もしないことは違う)
ようやく分かった。
選択を尊重することは、黙って従うことではない。
危険だと思えば伝える。
間違っていると思えば止める。
知っていることを隠さず渡す。
そのうえで、最後に決めるのが本人なのだ。
エリシアには何も知らせず、俺がすべてを決めた。
ミリアには決めることを恐れ、必要なことまで伝えなかった。
どちらも違う。
俺は白い羽根を一枚抜き、少年の胸元へ置いた。
エリシアの墓へ、黒い羽根を置いたときと同じように。
ミリアがそれを見る。
「……ぴよちゃんも」
(ああ)
助けられなかった。
◇
少年は関所近くの共同墓地へ埋葬された。
身元を示す物は持っていなかった。
名前も分からない。
墓標には、街道で見つかった少年とだけ刻まれた。
ミリアは長い間、墓の前へ立っていた。
日が傾く。
兵士たちは、今夜は関所で休むよう勧めた。
襲撃者の捜索は続けるという。
ミリアは深く頭を下げた。
「お願いします」
自分も探すとは言わなかった。
今の自分が加わっても、邪魔になると理解していた。
それが、さらに悔しいのだろう。
◇
その夜。
関所の一室で、ミリアは眠れずにいた。
簡素な寝台へ座り、両膝を抱えている。
俺は窓辺にいた。
「……ぴよちゃん」
(何だ)
「三回、鳴いたよね」
(ああ)
「すごく危ないって」
(そうだ)
「私、ちゃんと分かってなかった」
ミリアは顔を上げない。
「人を呼びに行くのが正しいって思ってた」
(間違いとは言い切れない)
「でも、ぴよちゃんは危ないって思ってたんだよね」
(ああ)
「どうして、もっと止めてくれなかったの?」
胸へ鋭いものが刺さった。
責める声ではない。
怒っているのでもない。
ただ、本当に分からないという声だった。
(お前が決めたことだったから)
言葉にはできない。
二回鳴く。
「ぴ、ぴ」
「駄目だった?」
違うと示すため、首を横へ振る。
「私が行くことが?」
一度鳴く。
「……そうなんだ」
ミリアは唇を噛んだ。
「だったら」
声が少し震える。
「もっと止めてほしかった」
(……ああ)
「私の代わりに決めてほしいんじゃない」
顔を上げる。
目が赤い。
「でも、ぴよちゃんが危ないって分かっているなら、ちゃんと教えてほしい」
(教えた)
三回鳴いた。
だが、その後でついていった。
ミリアには、最終的に賛成したように見えたのかもしれない。
「私、知らないことが多いから」
剣も。
怪我の治し方も。
旅の危険も。
人の悪意も。
「自分で決めたい」
ミリアは続ける。
「でも、何も知らないまま決めたくない」
(……そうか)
「ぴよちゃんが知ってることは、教えて」
(言葉が話せない)
「鳴き声でも、服を引っ張ってでも」
ミリアが少しだけ口元を緩める。
「頭をつついてでもいいから」
(それは許可がなくてもやる)
「痛いのは嫌だけど」
(どちらだ)
「私が間違えそうなら、止めて」
(止めてもいいのか)
首を傾げる。
ミリアは頷いた。
「うん」
「そのあとで、私が決める」
(止められても行くと言ったら?)
もう一度、首を傾げる。
ミリアは意味を考えた。
「それでも行くって、言うかもしれない」
(そうだろうな)
「そのときは」
少し考える。
「一緒に、別の方法を探して」
(別の方法)
「今日みたいに、残るか、人を呼ぶかだけじゃなくて」
俺が残る。
ミリアだけが走る。
少年を街道へ運ぶ。
目立つ場所で救援を待つ。
先に周囲を調べる。
二人で考えていれば、別の選択肢を見つけられたかもしれない。
「私だけでは思いつかないことを、ぴよちゃんなら思いつくかもしれない」
(お前も、俺にはないものを思いつくかもしれない)
「だから」
ミリアが小指を差し出した。
「約束しよう」
(鳥に指切りを求めるな)
「私が間違えそうになったら、ぴよちゃんが止める」
差し出した指を、俺の前へ近づける。
「ぴよちゃんが何でも一人で決めようとしたら、私が止める」
動きが止まる。
(俺も?)
「だって、約束は二人でするものでしょ?」
(お前が俺を止めるのか)
「止めるよ」
ミリアは真剣だった。
「ぴよちゃんが困っていたら、私が助けるって言ったから」
白い小鳥の正体も。
どれほどの力を持っているかも知らないまま。
「私、まだ弱いけど」
(本当にな)
「そこは嘘でも否定してよ」
(事実だ)
「でも、強くなる」
ミリアは指を下げない。
「だから、約束」
約束すれば、関係が深くなる。
互いに口を出す。
互いに止める。
失ったとき、また苦しくなる。
だが。
それを恐れて離れることは、もう選ばなかった。
片脚を上げる。
小さな鉤爪を、ミリアの小指へ軽くかけた。
「これ、指切りでいいのかな」
(知らない)
「痛くしないでね」
(動くな)
「約束だよ、ぴよちゃん」
(ああ)
ミリアが、少しだけ笑った。
悲しみは消えていない。
少年を助けられなかった事実も変わらない。
それでも、失敗を抱えたまま次を選ぼうとしている。
◇
翌朝。
ミリアは関所の外で剣を振っていた。
眠れなかったはずだ。
目の下に薄い影がある。
身体も重そうだった。
それでも、一度。
二度。
教わった型を繰り返す。
踏み込む。
剣を振る。
戻す。
三度目で足が乱れた。
踏み直す。
四度目。
少しだけ形になる。
(エリシアなら)
もう、その先は考えなかった。
ミリアはエリシアではない。
エリシアのような天才でもない。
一度見ただけで技を理解することもない。
圧倒的な力で、誰も彼も救えるわけでもない。
だから。
失敗する。
迷う。
誰かへ相談する。
間違えれば、次の方法を考える。
(それでいい)
エリシアと違うことは、劣っているという意味ではない。
ミリアには、ミリアの進み方がある。
五度目。
剣先がぶれた。
二回鳴く。
「ぴ、ぴ」
ミリアが止まる。
「今の、駄目?」
一回鳴く。
「どこが?」
地面へ下り、ミリアの右足を嘴でつつく。
「ここ?」
一回。
「もっと開く?」
二回。
「狭くする?」
一回。
ミリアが足の位置を直した。
もう一度、剣を振る。
先ほどより、身体が安定する。
一回鳴いた。
「ぴ」
「今のは、いい?」
もう一度。
「ぴ」
ミリアの顔へ、小さな笑みが浮かぶ。
「分かった」
剣を構え直した。
「もう一回」
何度失敗しても。
できるまで。
すぐに強くなることはない。
昨日より、ほんの少し前へ進む。
それが、ミリアの強さだった。
◇
昼前。
二人は関所を出た。
少年を襲った者は、まだ見つかっていない。
兵士たちは捜索を続けると約束した。
ミリアは出発前に、少年の墓へ立ち寄った。
小さな花を置く。
「助けられなくて、ごめんね」
少し黙った。
「次は絶対に助ける、とは言えないけど」
墓標を見つめる。
「簡単に大丈夫って言わない」
すべての人を救うとは言わなかった。
必ず助けるとも約束しない。
できるか分からないことを、もう軽々しく口にしなかった。
「ちゃんと考える」
自分で。
隣にいる者と。
「それでも間違えるかもしれないけど」
墓へ頭を下げる。
「間違えたままにはしないから」
ミリアは立ち上がり、次の町へ続く街道を見る。
「行こう、ぴよちゃん」
(ああ)
俺はミリアの肩へ下りた。
二人の間には、まだ言葉が足りない。
俺は人の声を出せない。
ミリアも、白い鳥の考えを完全には理解できない。
それでも。
一回。
二回。
三回。
鳴き声の意味を決めた。
互いに止めることを約束した。
止められた後も、自分で選ぶと決めた。
それは、かつてエリシアとは築けなかった関係だった。
(次は)
正しい答えを一人で決めるのではなく。
何も言わず、相手へ任せるのでもなく。
二人で間違いながら探す。
そうできればいい。
街道の先には、人間も魔族も利用する古い宿があるらしい。
ミリアは、そこで出会う者たちをまだ知らない。
俺も。
白い鳥と少女は、互いの歩調を確かめながら、次の宿場へ向かった。




