第2話 黒鎧の冒険者
静かだが、逆らわせない強さがあった。
草むらの向こうから、一人の女が歩いてくる。
黒い鎧。
一つに束ねた髪。
片手に持った抜き身の剣には、魔物の血が細く付着していた。
女は俺と魔物の間へ立つ。
腰をわずかに落とし、刃先を魔物へ向けた。
派手な動きはない。
ただ、それだけで空気が変わった。
(強い)
戦いについての記憶などない。
それでも分かる。
この女は、先ほどの魔物とは比べものにならない。
魔物も理解したらしい。
低く唸りながら、じりじりと後退する。
女は追わなかった。
剣を向けたまま、静かに見ている。
やがて魔物は身を翻し、森の奥へ逃げていった。
足音が遠ざかる。
女はすぐには剣を下ろさなかった。
周囲へ視線を巡らせ、他に敵がいないことを確かめる。
それからようやく息を吐き、剣についた血を振り落とした。
そして、俺を見る。
「大丈夫?」
先ほどとは別人のような、柔らかな声だった。
(人間……)
この世界で初めて聞いた人の言葉。
女が近づいてくる。
逃げようとしたが、右の翼に激痛が走った。
女が膝をつき、手を伸ばす。
(近づくな)
「カァ」
威嚇したつもりだったが、出たのは情けない声だけだった。
女はすぐに手を止めた。
「あ、ごめん。怖いよね」
急に掴もうとはせず、俺が落ち着くのを待っている。
(変な人だな)
女は剣を地面へ置き、空になった両手を見せた。
「傷を見たいだけ」
言葉が通じると思っているのか。
それとも、自分を安心させるために話しているのか。
どちらにしても変わった人間だった。
だが、殺す気がないことだけは伝わった。
手が、もう一度ゆっくりと近づいてくる。
指先が黒い羽根に触れた。
温かい。
冷え切った身体へ、人の体温が伝わってくる。
「ひどい傷……」
女は小さく息を呑み、俺の身体を慎重に持ち上げた。
壊れ物を扱うような手つきだった。
胸元へ収められる。
鎧は硬い。
けれど、その内側から伝わる体温は温かかった。
「大丈夫」
女が歩き出す。
「もう、あの魔物は来ないよ」
(本当か?)
森の奥へ逃げただけだ。
仲間を連れて戻る可能性もある。
「無理しなくていいからね」
俺を抱く腕へ、わずかに力が加わった。
「私がいるから」
(初対面の鳥に、そこまで言うか?)
名前も知らない。
何者かも分からない。
鳥を食べる文化の人間で、助けた後に焼くつもりかもしれない。
(焼き鳥にされる可能性は、まだ残っている)
そう考えたのに、身体から力が抜けていった。
この人なら、今は信じてもいい気がしている。
根拠など、何一つないのに。
女の足音を聞きながら、意識が遠のく。
最後に感じたのは、冷たい風を遮る腕の温かさだった。
◇
意識が浮上したとき、最初に鼻をくすぐったのは焚き火の匂いだった。
薪が小さくはぜている。
夜の冷気の中へ、火の温もりが混じっていた。
右の翼には布が巻かれている。
(生きてる)
目を開く。
炎の向こうに、黒い鎧の女が座っていた。
剣を傍らへ置き、焚き火を見つめている。
橙色の光に照らされた横顔は、強そうというより疲れて見えた。
背筋は伸びているのに、肩だけがわずかに落ちている。
俺の視線に気づき、女が顔を上げた。
「あ、起きた」
表情が緩む。
「よかった。なかなか目を覚まさなかったから」
女が立ち上がる。
鎧の擦れる音に、俺は反射的に身を強張らせた。
焚き火。
人間。
傷ついた鳥。
(焼くなら、せめて痛くない方法で頼む)
女はすぐに足を止めた。
「ごめん。急に近づいたら怖いよね」
助けてやったのだから大人しくしろ、という態度ではない。
俺から少し離れた場所へ座り直す。
「大丈夫。食べたりしないよ」
(心を読まれたか?)
女は冗談めかして笑った。
しかし、俺が反応できずにいると、すぐ不安そうな顔になる。
「……今の、怖かったかな」
(いや。図星だっただけだ)
言葉が通じれば、そう返したかった。
女は小さな器を取り、中の水を俺の前へ置いた。
「飲める?」
喉は渇いていた。
嘴を水へ入れる。
そのまま吸おうとした。
吸えない。
(鳥はどうやって水を飲むんだ?)
少し口へ入ったものの、ほとんどがこぼれた。
女がこちらを見ている。
口元がわずかに緩んでいた。
(見るな)
もう一度嘴を入れ、水をすくうようにしてから首を上げる。
今度は少し飲めた。
(なるほど)
同じ動きを繰り返す。
「上手だね」
(子供扱いするな)
鳴くと、女が笑った。
「怒った?」
(鳥の顔から何が分かる)
「分かりやすいよ、君」
少し腹が立った。
だが、警戒心は先ほどより薄れていた。
水を飲み終えると、女は布包みから乾燥した果物を取り出した。
小さく千切り、俺の前へ置く。
「食べられるかな」
嘴でつつく。
持ち上げようとしたが、うまく挟めず転がった。
もう一度。
また転がる。
(手がないというのは、思っていた以上に不便だな)
女が果物を指先で摘み、差し出した。
「はい」
(餌付けか)
警戒する。
女は急かさず、待っていた。
(……まあ、いいか)
嘴で受け取る。
甘酸っぱい味が広がった。
思ったより美味しい。
「食べた」
(なぜ、あんたが喜ぶ)
もう一つ差し出される。
今度は迷わず受け取った。
(三つ目までは生存に必要な行為だ)
「気に入った?」
(別に)
四つ目へ嘴を伸ばす。
「気に入ったんだ」
(うるさい)
女は声を抑えて笑った。
戦っていたときの鋭い顔とは、まるで違う。
「傷は応急処置だけしておいたよ」
女が右の翼を見る。
「骨は折れてないと思う。でも、しばらく動かさない方がいいかな」
(飛べない上に負傷か)
「無理に飛ぶと、もっと悪くなるからね」
(そもそも、まだ一度も飛べていない)
鳥としては致命的な事実だった。
「ここで少し休もう」
命令ではない。
俺に拒否する余地を残した提案だった。
一人になれば、先ほどの魔物に襲われる可能性が高い。それ以前に、水を飲むことにも苦労している。
拒否する理由はなかった。
身体の力を抜くと、女も安心したように息を吐いた。
「よかった」
(なぜ、あんたが安心する)
焚き火へ薪を一本加えた後、女はこちらを向いた。
「あ、自己紹介してなかったね」
(鳥に自己紹介するのか)
「私はエリシア。冒険者をしてる」
(エリシア)
心の中で名前を繰り返した。
黒い鎧には、細かな傷が無数に刻まれている。
剣の革巻きは擦り減り、鞘にも何度も修理した跡があった。
ただの冒険者という言葉では収まらない何かが、この女にはある。
「君の名前は?」
(分かるわけがないだろう)
「カァ」
「……カァ?」
(違う)
「カー君?」
(安直すぎる)
首を横へ振る。
エリシアが目を丸くした。
「今、嫌だって言った?」
(伝わったのか)
「じゃあ、カー君はなし。クロちゃんは?」
今度は強く首を振った。
「それも嫌なんだ」
(当たり前だ)
エリシアが吹き出す。
「本当に言葉が分かってるみたい」
(分かっている)
「不思議な子だね」
一瞬、人間だったことに気づかれるかと警戒した。
だが、エリシアはそれ以上追及しなかった。
「名前は、もう少し考えようか」
(勝手につける気なのか)
「嫌?」
(……別に)
前世の名前は思い出せない。
名前などなくても困らないと思っていた。
けれど、エリシアにそう言われると、少しだけ気になった。




