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女神の従魔  作者: 梅椿 六花
第一章 黒い鳥と黒鎧の冒険者
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第1話 黒い鳥

 白い天井。

 伸ばされた手。

 誰かが、何かを言っていた。

 俺も伝えなければならないことがあった。

 けれど、声が出ない。

 喉の奥に言葉が引っかかったまま、伸ばされた手だけが遠ざかっていく。

 待ってくれ。

 まだ、言っていない。

 そう思った瞬間、意識が現実へ引き戻された。

 ――冷たい。

 刺すような寒さが全身を包んでいた。

 身体を起こそうとして、地面を転がる。

 湿った土。

 頬を擦る枯れ草。

 鼻を刺す青臭い匂い。


「――っ」


 声を上げたつもりだった。

 しかし、口から漏れたのは掠れた鳴き声だけだった。


「……カァ」

(今のが、俺の声か?)


 視界が低い。

 地面が顔のすぐそばにあり、土の粒まで妙にはっきり見えた。

 両手をつこうとする。

 だが、手がない。

 代わりに黒い何かが地面を叩いた。


(羽根?)


 首を動かすと、視界の端にある黒い羽根も動いた。

 背中には、人間だった頃にはなかった感覚がある。腕があるはずの場所から、軽く細いものが伸びていた。

 足元には小さな鉤爪。

 身体は信じられないほど軽い。


(俺の羽根、か)


 否定したかった。

 夢の続きだと思いたかった。

 だが、身体の感覚は容赦なく答えを突きつけてくる。

 俺は今、人間ではない。


(鳥……なのか?)


 前世の記憶には、濃い霧がかかっていた。

 自分の名前。

 顔。

 家族。

 暮らしていた場所。

 何一つ、はっきりとは思い出せない。

 机や扉、窓や文字といった断片だけは浮かぶ。それが本当に自分の記憶なのか、どこかで見たものなのかさえ分からなかった。

 ただ一つ、人間だったという感覚だけが生々しく残っている。


(転生……というやつか)


 人間が死に、別の世界で生まれ変わる。

 前世で、そういう物語を読んだ記憶があった。

 強い力を与えられたり、特別な立場になったりする話だ。


(まさか自分が経験するとはな)

 しかも、人間ではなく鳥。

(ずいぶん思い切った配役だ)


 笑ってみようとしたが、嘴から出たのは小さな鳴き声だった。


「カァ」


 黒い羽根。

 掠れた声。

 小さな身体。


(カラスに近いのか?)

 鏡がないため、確かめようがない。

(せめて鷹とか、もう少し格好のつく鳥であってほしいが)


 今は鳥の種類を気にしている場合ではなかった。

 辺りを見回す。

 高い木々が空を覆う、薄暗い森だった。

 灰色の光が枝葉の隙間から差し込み、地面には枯れ葉と湿った苔が広がっている。

 人の気配も、道らしきものもない。


(知らない森。知らない身体。記憶もない)

 状況を並べてみる。

(よし。何一つ分からないな)


 それでも、胸の奥には一つだけ引っかかるものがあった。

 夢の中で言おうとしていた言葉。

 誰に向けたものだったのか。

 何を伝えたかったのか。

 何も思い出せない。

 なのに、喉の奥だけが痛んだ。


(まだ、何かが終わっていない)


 根拠はなかった。

 ただ、名前も思い出せない誰かに、伝えなければならないことがあった。

 その感覚だけが、記憶を失っても残っている。


(思い出すまでは死ねないか)


 自分へ言い聞かせた、そのときだった。

 近くの草むらが揺れた。

 風ではない。

 背中の羽根が一斉に逆立つ。


(何かいる)


 頭で判断したのではなかった。

 鳥になった身体が、本能的に危険を察知している。

 湿った唸り声。

 荒い呼吸。

 土を踏む重い足音。

 草むらの向こうから、灰色の獣が姿を現した。

 犬に似ている。

 だが、俺の知る犬とは大きさも目つきも違った。

 赤く濁った目。

 背中から突き出した骨のような棘。

 裂けた口から垂れる涎。

 奥に並ぶ、細く尖った牙。


(どう見ても友好的ではないな)


 獣が低く身を沈めた。

 前脚の爪が土を掻く。

 俺を獲物として見ていた。


(魔物、か?)


 この世界について何も知らない。

 それでも、その言葉が自然に浮かんだ。

 ただの獣ではない。

 魔物。


(考えるのは後だ。逃げろ)


 翼を広げる。

 地面を蹴る。

 何も起きなかった。

 身体は浮かず、片側へ大きく傾く。


「カッ」

 無様に地面へ転がった。

(おい)


 慌てて起き上がり、もう一度翼を動かす。

 風は起きる。

 だが、左右の力が揃わない。

 再び重心を崩した。


(鳥になったのに、飛び方は別途習得しろと?)

 転生に説明書は付属していないらしい。

(せめて基本操作くらい引き継がせろ)


 魔物が一歩近づいた。

 俺が逃げられないと判断したのだろう。赤い目が細くなる。


(まずい)


 羽ばたく。

 転ぶ。

 立ち上がり、また羽ばたく。

 身体が数センチだけ浮いた。


(いける)


 そう思った瞬間、右の翼が地面を擦った。

 身体が横へ回転する。


(いけてない)


 背後で地面を蹴る音がした。

 振り返る暇はなかった。

 視界が大きな影に覆われる。

 衝撃。

 身体が宙を舞った。

 一瞬遅れて、右の翼に鋭い痛みが走る。

 地面へ叩きつけられ、肺から空気が抜けた。


(痛い)


 身体が小さいせいか、痛みが全身へ直接響く。

 起き上がろうとしたが、右の翼が動かなかった。

 黒い羽根の間から血が滲んでいる。


(まずい。これは、本当にまずい)


 魔物の前脚が背中を押さえつけた。

 重い。

 小さな身体が地面へ沈む。

 生臭い息が顔にかかり、血と肉片のこびりついた牙が近づいてくる。


(転生して、何分だ?)

 早すぎる。

(せめて一度くらい飛ばせろ)


 魔物の口が開いた。

 恐怖で身体が動かない。

 それなのに、頭の一部だけは妙に冷静だった。


(これで終わりか)


 前世の名前も思い出せない。

 言い残した言葉も分からない。

 鳥として空を飛ぶことさえできなかった。


(冗談じゃない)

 恐怖より先に、悔しさが湧いた。

(死ねない)


 せめて、喉の奥に残る痛みの正体を思い出すまでは。

 牙が迫る。

 その瞬間、何かが空気を裂いた。

 銀色の閃きが走る。

 魔物の肩口が裂け、血が飛んだ。

 悲鳴とともに前脚の重みが消える。

 魔物は大きく飛び退き、周囲を見回した。


「そこまで」


 人の声だった。

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